retifの都市探検日記(高層ビル編)

東京の街並みなどを報告します

中央線御茶ノ水駅(猿楽町一丁目 男坂)

2012-06-04 04:20:37 | Weblog
西へ西へと、歩いていくと、南側、崖地になっている場所。
崖下への、男坂がある。
坂、というより、石段なのだけど。
大正時代の、終わり頃に、できたらしい。
一帯は、江戸時代、崖の下も、崖の上も、武家屋敷。
江戸城に近く、防衛上、そうなったようだ。
江戸時代が終わり、明治時代になると、そういった場所は、諸施設、あるいは、住宅地へ。
崖下は、下町になっている。
駿河台の台地と、その麓に広がる、低地が、下町、ということか。
そうした下町、今の、神保町の街並みに、つながっているのかもしれない。
大正時代の終わり頃になると、低地と、台地を、つなぐ、男坂が、できる。
下町と、高台の、枠組みが、なくなったので、それらを、直結する、通路が、できたのかな。
一帯が、都心の中に、取り込まれたのだろう。
(2011年9月記)
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中央線御茶ノ水駅(明治大学駿河台C地区整備計画工事現場)

2012-06-03 03:19:00 | Weblog
山の上ホテルを過ぎ、明治大学の校舎の間を、抜ける。
すぐに、突き当たり、明治大学の校舎群の北側には、明治大学駿河台C地区整備計画の工事現場。
明治大学には、他にも、巨大な、高層ビルの校舎が、すでに、建っている。
その高層ビルが、建ったのは、バブルが崩壊した後の、失われた10年、その後の、都心集積化の時代。
バブルの頃は、都心部にある、教育機関が、地方へ、どんどん、進出していったのだが、バブルが崩壊してしまうと、その逆の流れになったわけだ。
まだ、こうして、高層ビルの、校舎が、建っているところを見ると、その流れは、続いているのだろう。
それどころか、ますます、激しくなっているような、気もするが。
明治大学の校舎群を後にして、今度は、西へ、向かう。
(2011年9月記)
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中央線御茶ノ水駅(猿楽町一丁目 錦華公園)

2012-06-02 07:03:18 | Weblog
山の上ホテルの西側は、すぐに、崖下。
崖の部分から、麓までは、錦華公園になっている。
錦華公園の、南側、御茶の水小学校、もとは、錦華小学校、という名前だったので、公園の名前も、錦華公園に、なったらしい。
ただ、では、錦華、というのは、どこからか、というと、わからないけど。
それはそれとして、ずっと前、この、錦華公園にも、何回か、来たことがある。
夜、来たこともある。
季節は、夏。同僚と、来て、花火を、やったのだ。
今は、花火禁止、とあちこちに、書いてあるが。
昔は、許可されていたのかどうか。
とにかく、花火を、やった記憶がある。
たしか、公園の中央に、据えられている、大きなオブジェの中に、ロケット花火を、放り込むと、面白かった。
それが原因で、花火禁止になったのかな。
昔、だから、たぶん、バブルの頃。
暑い夏の夜の、思い出だな。
崖を上り、北へ、向かう。
(2011年9月記)
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中央線御茶ノ水駅(神田駿河台一丁目 山の上ホテル)

2012-06-01 04:45:48 | Weblog
再び、通りを、北へ。
しばらくすると、東西に伸びる、靖国通り。
このあたり、靖国通りに、沿うようにして、古本屋街が、広がっている。
古本屋街を過ぎ、さらに、北へ。駿河台への、上り坂。
上りきれば、御茶ノ水駅だ。
途中、明治大学の校舎があるあたりで、西へ、曲がり、そのまま、西へ。
上り坂は、続く。
坂道の突き当たりには、有名な、山の上ホテル。
上り坂の果てに、辿り着くわけだが、山の上、というより、丘の上。
あるいは、山の上ホテルの、「山」は、山の手の、「山」、なのかな。
そういえば、かなり前、一度、山の上ホテルの、喫茶店、入ったことある。
まったくの場違いだったな。
もっと、大きなホテルなら、物見遊山でも、いいんだけど。
かなり前、だから、バブルの頃。そんな時期も、あったのだ。
山の手には、縁がないので、やはり、山の上ホテルの、「山」は、山の手の「山」かもしれない。
さらに、西へ、行ってみる。
(2011年9月記)
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東西線竹橋駅(神田錦町3-20計画工事現場)

2012-05-31 04:09:51 | Weblog
高田馬場駅から、東西線。
竹橋駅で下車。
地上に出ると、大手町の、高層ビル群が、迫るような感じだ。
ちょっと前までは、高層ビル群、遠かったのに。
それだけ、近年、東京駅周辺の、再開発が、活発なのだろう。
その、再開発が、徐々に、北側にも、広がってきた、というわけか。
バブルの頃の方が、むしろ、のんびりしていたな。
南北に伸びる通りを、北へ、歩く。
日本橋川を、渡ると、オフィス街から、普通の、都心の、街並みへ。
低層ビルなどが、あちこちに、建つ一帯。
さらに、北へ。
しばらくすると、東西に伸びる、交差点の、北西側、神田錦町3-20計画の、工事現場。
大手町の、高層ビル街が、北上しているような感じがする。
(2011年9月記)
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有楽町線護国寺駅(護国寺 大師堂)

2012-05-30 05:07:07 | Weblog
本堂も、見たし、もう、帰ることにする。
戻る途中、不老門の手前、東側に、大師堂。
なんでも、もともとは、薬師堂だった、建物を、移築したものらしい。
いろいろと、変遷があるものだ。
変遷、といえば、護国寺にあった、西国札所三十三所観音は、どうしたのだろう。
江戸名所図会を、見ると、護国寺の、西側には、本浄寺があり、本浄寺の方は、現存するのだが、その、北側、護国寺の、北西側に、西国札所三十三所観音が、かつては、広がっていたはず。
ちなみに、西国札所三十三所とは、近畿地方の、有名な寺院、三十三箇寺で、江戸時代、盛んに、それらを、巡礼したらしい。
その、ミニチュア版が、護国寺の北西側一帯に、あったのだ。
一番目は、和歌山県、那智青岸渡寺。
伊勢参りを終えて、巡礼を、始めるので、一番目、かな。
最後、三十三番目は、岐阜県、華厳寺。
江戸に帰るので、帰路の、近く、ということか。
護国寺の、ミニチュア版では、そのまま、北西へと、配置されている。
途中、音羽富士、富士山の、ミニチュアまである、という、盛り沢山。
そんな、西国札所三十三所観音なのだが、護国寺の北西という、位置関係から、どうみても、今の、雑司ヶ谷霊園、ではないかと、思う。
ひょっとしたら、江戸時代から、明治時代になり、寺勢、傾き、西国札所三十三所観音の敷地、そっくり、召し上げられたのかもしれない。
昔のことに、思いを馳せているうち、護国寺の、外へ。
有楽町線、護国寺駅に向かう。
(2011年9月記)
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有楽町線護国寺駅(護国寺 本堂)

2012-05-29 05:08:34 | Weblog
江戸時代、もともと、護国寺の、東側には、護持院、という、寺院もあったのだが、今はない。
明治時代になり、護国寺と、合併したらしい。
あるいは、その後、すぐに、天皇家、豊島岡墓所に、なったのでは、と思うのだが。
江戸名所図会を見てみると、護持院境内には、権現山、という、丘が、あったらしく、その丘、今は、豊島岡墓所の中、豊島岡と、名前を変えて、残っている。
また、護国寺と、護持院の間には、よく見ると、池が、あるようなのだが、この池も、そのまま。
護国寺と、豊島岡墓所の、間にある、池が、それに、違いない。
とすると、どうやら、たしかに、護持院の敷地が、そっくり、そのまま、豊島岡墓所になった、と考えて、間違いない。
江戸時代、寺勢、盛んだったようだが、明治時代になり、逆風、ということか。
たしか、芝にある、増上寺も、そうだったったな。
などと、考えながら、北へ、進むと、護国寺本堂。
栄枯盛衰、時代は、流れていく。
(2011年9月記)
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有楽町線護国寺駅(護国寺 音羽富士)

2012-05-28 05:00:19 | Weblog
東側へ。首都高池袋線の高架下から、離れる。
東側には、南北に伸びる、音羽通り。
しばらく、歩いていくと、南西に伸びる、不忍通りとの交差点。
交差点北側には、鬱蒼とした、森林地帯。
護国寺の広大な寺域が、広がる。
こちらも、江戸時代の前半。
ひょっとしたら、神田川から、順番に、北側に、寺院が、できているようにも、思えるが、はっきりしたことはわからない。
ところで、明治時代の初め頃の、地図を見ると、神田川あたりから、道路が、護国寺まで、一直線に、伸びていて、その両脇に、町屋が並び、長大な、参道のように、なっていたことが、窺える。実際、参道だったのかもしれないが。
さっそく、護国寺に、入ってみる。
仁王門から、北へ。
すぐに、不老門。
その手前、東側には、音羽富士がある。
富士山の小型模型。
ただ、実は、本来、音羽富士は、この場所ではなく、ここから、ずっと、北西側に、あったらしい。
雑司ヶ谷霊園が、ひょっとしたら、その、跡地なのだろうか。
今となっては、わからないが。
(2011年9月記)
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有楽町線江戸川橋駅(目白台三丁目 桂林禅寺)

2012-05-27 06:19:26 | Weblog
首都高池袋線の、高架下を、再び、北へ。
しばらくすると、西側に、桂林禅寺。
まだまだ、寺院が、続く。
この寺院の、創建も、おそらく、江戸時代の前半、と思われる。
江戸時代になって、一気に、開発された、ということだ。
では、江戸時代以前は、どうなっていたのだろう。
音羽谷を、弦巻川、音羽川が、南へ、流れていて、すぐに、東へと、流れる、神田川に、合流。
合流している地点から、東側にかけて、神田川は、澱み、広大な、白鳥池となっていたらしい。
江戸時代になると、いつの間にか、干拓されて、町屋に、なっている。
つまり、江戸時代以前は、このあたり、台地があって、それ以外は、池や、湿地帯、だったようだ。
街並みは、望むべくもなく、閑散としていたのだろう。
さらに、北へと、歩いていく。
(2011年9月記)
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有楽町線江戸川橋駅(関口台公園)

2012-05-26 07:06:07 | Weblog
蓮光寺の北側には、静かな、公園が、広がっている。
寺院の敷地の、合間に、公園があるので、いっそう、静かだ。
もっとも、寺院そのものが、公園、みたいだから、あまり、公園の、ありがたみは、ないかもしれないが。
ところで、昔、公園になる前、この場所には、マレーシア大使館が、あったらしい。
マレーシアは、戦後の、新しい、国なので、大使館が、できたのも、戦後。
それでは、さらに、それ以前、戦前、ここには、何があったのだろう。
広い敷地なので、なにかの、施設が、あったのだろうけど、わからない。
もっと前、江戸時代では、旗本武家屋敷が、あったようだ。
台地だと、大名等、武家の屋敷が、多い。
このように、台地の上から、崖に、はみ出している、武家屋敷も、あるようだ。
あるいは、景勝地、ということを、考慮して、建てられたのかもしれない。
(2011年9月記)
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