ときどき社員から『越谷フェンダー』の歴史を尋ねられる・・・・
昭和40年・・・・・高度経済成長真っ只中・・
東京下町の台東区にある:鈑金修理の『浅草モーター』に3人の若者が出会った。稲垣 種沢 早川のまだ17~18歳の若者達であった
。この3人にフェンダーの再生修理を依頼したのが立川の二ノ橋部品の社長であった・・・・営業 稲垣:仕入れ 種沢:鈑金 早川で交代で休みをとては、本業そっちのけでせっせとアルバイトに励んでいた・・・
。
『自動車再生部品卸』・・・いち早く将来を見据えた行動をとったのが 早川であった。早川は19歳で結婚そして越谷市で独立を果たした・・・。
昭和51・6 現在の『越谷フェンダー株式会社』が設立され 岩槻に工場が移った
。
稲垣は竜泉寺にあった鈑金塗装工場で 原田と知り合い、独立への準備に取りかかっていた。一方種沢は杉並で鈑金塗装の会社に勤めたが、アルバイトで始めた再生部品の修理に未練が残っていた。
その後の仲間3人は・・・
稲垣氏は、葛飾の奥戸で『国産ボデーセンター』
原田氏は、千葉の松戸で『原田ボデーセンター』
種沢氏は、東村山で『クラウンボデー工業』
にそれぞれ本拠地を構え本格的に再生の仕事に取り組み始めた・・・
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昭和46年 『春』・・まさに『団塊の世代』の私が、建設会社に就職した年でもあった・・
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昭和40年・・・・・高度経済成長真っ只中・・
東京下町の台東区にある:鈑金修理の『浅草モーター』に3人の若者が出会った。稲垣 種沢 早川のまだ17~18歳の若者達であった
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『自動車再生部品卸』・・・いち早く将来を見据えた行動をとったのが 早川であった。早川は19歳で結婚そして越谷市で独立を果たした・・・。
昭和51・6 現在の『越谷フェンダー株式会社』が設立され 岩槻に工場が移った
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稲垣は竜泉寺にあった鈑金塗装工場で 原田と知り合い、独立への準備に取りかかっていた。一方種沢は杉並で鈑金塗装の会社に勤めたが、アルバイトで始めた再生部品の修理に未練が残っていた。
その後の仲間3人は・・・
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昭和46年 『春』・・まさに『団塊の世代』の私が、建設会社に就職した年でもあった・・
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