越谷フェンダーブログ

地球環境の為に車部品のリサイクルについて考えます。車の話や会社の裏話を公開します。

夏子のニューヨーク通信(5) 

2013年01月28日 17時04分00秒 | Weblog
      
          夏子のニューヨーク通信(5) 1/25/13
  

       大変遅くなりましたが、新年おめでとうございます。

新しい年になって、早、一ヶ月がたとうとしています。新年で特にこれというニュースもないのですが、個人的には、わたしが、コンクリートのうえに、顔で滑るようにしてころんでしまったことです。雪も降っていたわけでもなく、道が凍っていたわけでもないのにです。 ブーツの底がつるつるだったからかもしれませんが、ともかく、顔中、打撲で、ものすごい顔になってしまいました。2週間はお岩さんのようで全然外出が出来ませんでした。今は大分良くなったのですが、医者からは完治するのに後一ヶ月はかかるといわれています。
とんだ新年のスタートです。

ところで、先日、私の姉の引き出しのなかから、私がまだ20歳のときに書いた作文が新聞に出て記事になっているのが出てきたと言って送ってくれました。50年間も姉の引き出しに入っていたなんて考えられますか?もちろんその切り抜きは茶色になり、触るとこわれそうですが、ちょっとおもしろいので、それをコピーして下記します。


       
            子供の笑顔   荒木(旧姓)夏子

  今まで子供にはそれほど縁のなかった私だが、最近になって姉や友人の子供の”子守り”を頼まれ、急に子供に縁ができた。
  
  そして、今まで子供は面倒臭いものとしか思っていなかった私が、とても素晴らしいものを、子供達から見つけ出した。

  それは彼等の笑顔である。なぜあんなに美しくみえるのだろう。それは”心”の微笑みであるからだ。”心”が楽しくて仕方のない時、自然と顔にあらわれる、それが彼等の笑顔みなのだ。

  心とは関係なしに、顔の筋肉だけを動かしてみせる大人の笑いを、子供達は直感的にするどくみぬく。私が子供達を面倒臭いと思いながらも、顔だけ笑って見せる時、彼らは私から逃げてゆく。そして私の心が彼らをかわいくて仕方がないと思ったときに涌いてくる笑顔に彼等はいつもついて来る。

  子供の笑顔はいつも心の微笑みである。だからそれは、いつも清くて美しい。
  
  私も心からほほえんでみたい。心を常に楽しくさせ、自然と顔に出てくる微笑をいつも持ちたい・・。

  こんなことを子供から学んだのである・・。



千代田区の記憶  区内生活史調査報告書

2013年01月23日 17時13分03秒 | Weblog
三回にわたってリリースいたしました”尾張屋 小川又市商店” のお話は、2010年に発刊された”千代田区の記憶”として区内生活史調査報告書の中で書かれた内容の一部です。著者は寿子さんの母 小川 フデ さん85歳です。

この報告書に書かれた”千代田区の記憶”は『記憶』を『記録』するといことで 個人の視点を通して語られた日常生活や地域の様子を『個人生活史』としてまとめ、資料化したものです。(解説による)

小川 フデさんの書かれた『個人生活史』の原稿はまだまだたくさんありますので、折をみてご紹介したいと考えております。ありがとうございました

尾張屋 小川又市商店 最終回

2013年01月21日 17時00分54秒 | Weblog
尾張屋 小川又市商店 最終回   小川 フデ


大切な商品の仕入れは、番頭さん連中の買い出しと、店への持ち込み、入札、市場といろいろありました。
買い出し先は、主に質屋が多く、質流れ品を定期的に買いにゆきます。 質流れは種々雑多で、古着だけではありませんが、当店では衣料品が主となります。入札では衣料品だけではない時がありますが、よく買ってしまいます。まとめて買えるからでしょう。

買い入れ屋が多く集まっての市場の仕入は、なかなかの目利きがそろっています。一点一点セリに出される品を、大勢で囲んで見ていて声をかけるのです。同じ市場といっても、家の近く、いずみ橋のそばにあった市場は、セリの市場ではなく、一間半ぐらいの小さな場所を多くの業者が並んでいて、品物をひろげて売っているのです。 呉服屋、洋服屋、いろいろ。コンクリートの三階建てぐらいであったでしょうか?。

買い入れで、うち専門に持ち込む業者もあります。珍しく覚えていたのですが、杉原さんという年配の業者で、なかなかの目利きと言われておりました。”一歩(いちぶ)二歩ありますな”などと申します。子供心に、大国様のようなおじさんと覚えてしまいました。

もう一人、横浜から見えるおじさん。かなりの買い入れやで、毎月、品物を送ってきます。こちらは恵比寿様 いつも笑顔で、何と、上着や外套ではなくて、半纏をきているのです。下はモンペのようなズボン。夏はうすい半纏。冬は綿入れ半纏です。お年でもあったので、さすが荷物は持ちません。ですが、帰りには荷を包んできた風呂敷包みだけはもってゆきます。足元も、なんとなくおぼつかないので、店で手の足りない時は、私がお送りしました。秋葉原駅の横浜ゆきのホームで、電車を乗せて手をふりました。半纏を着た恵比寿様の顔はあたたかでした。

それから、どかんと入る入札の商品。 これが大変です。 倉庫兼用の場所が足のふみばもないくらいになってしまいます。衣類や、ふとんはもとより、テントだの何だの・・。

思い出しました。ムコ殿のこと。私のムコ殿は、結婚当初、お勤めをしていたので、かげで”カバンもち”と言われておりました。 ところが、大きな大きな入札を仕留めてしまったのです。 さあ、大変、荷物がトラックで送られてくると、もう、店の人の寝るところもないくらいの量。そして、その商品にびっくり。あらいコモナワで一米四方ぐらいにまとめられた商品は、衣料品といっても、ほとんど、ダンス用品であったのです。アチコチにはみ出している品物は、ピカピカ光る衣装の付属品。 店中、アゼンとしました。

ちょうど、たまあにしか見えない東北のお客様がいらしてました。背高の男性です。”ホホー”と見ていましたが、”買いましょう”と一言。ムコ殿も私もホッとしました。あとで聞いたのですが、お客様は大もうけをなさったとのことでした。

古着屋の若おかみであった私が子供のころは、まわりの方達は、作業着を除いて、皆和服でありました。店の古着は着古したものが多いのですが、新品同様の物とか、数のはんぱで新しくても古着として扱うのもありました。 新品同様のたとう紙の中には新品同様の婚礼衣装,およばれ用の黒の裾模様など。 ゆかた、帯、あわせ。はおり、よそゆき。木綿、絹布、和服の模様は限りがありません。

子供の頃、おどり、お花、茶道、などでよく着物をきました、十畳の部屋で、母がどれを着せようかと、アレコレ、だんすから出して肩にかけてみるので、思わず眠くなってしまったこともありました。


今はわずかになってしまったわたしの着物たち、古着たちは、衣装箱に眠ったきり。すっかり忘れられてしまいました。

  又市様、おつた様 こめんなさい。 お二人の愛を心から信じて暮らし、おそばにゆきますのでよろしくお願いします。

尾張屋 小川又市商店 その二

2013年01月18日 17時14分05秒 | Weblog
尾張屋 小川又市商店  その二      小川フデ 

うちにいらして下さるお客様は、東北の方がほとんどと言っていいほどですが、北は北海道、南は島のお客様もいらして、皆様、特徴がおわりでした。
秋田、山形は美人が多く、福島、宮城辺りはいかにも仕事熱心さを感じました。三宅島からの小さいおじちゃんは、風呂敷で荷物をしょって帰るのです。

台湾のカギ市から元気のいい明るいおじさんが見えました。面白い人です。主に作業着としての古洋服を仕入れ、店の奥の倉庫の部屋の真ん中で、それぞれまとめて、ていねいに郵便小包に作って、自分で何回でも出しにゆくのです。何か一人で嬉しそうに! 子供の私が見ているせいか? にこにこと歌を歌っています。 時々、台湾のおみやげを持ってきて下さるのですが、肉の燻製のような物で、子供には無理な食べ物です。そうそうお名前を思い出しました。台湾の修玉さんと言いました。そのほか安い作業用としては青島に、大きな荷物を出していました。たしか、コモナワ作りで、裏の荷作り屋さんが専門に出していたようでした。『青島ボロ』言いました。
 

 さて、和服の話に戻りますが、たとう紙に入っているような高級絹布物は、『絹(ケン)どん』と言って専門に入れる背の低い戸棚が並んでいました。婚礼衣装や、訪問着など、お客様はていねいにごらんになっていました。
 定期的に見える地方のお客様のほかには、東京市内の小売屋さん、衣装屋さんがあります。浅草観音様のあたりの横道にも何軒かお得意さんもいたようです。 衣装やさんは、お芝居や映画関係で、衣装係の専門屋さんが、方々の古着屋をさがしまわっていたようです。

 昔 女学生の頃、どうしても急いでなにか証明書にはる写真が入用になりました。 店で手が足りなかったのか、どうなのか、忘れましたが、私が一人でいかければならなかった時がありました。
“浅草の映画館の道をこう行って、花やしきの前に写真館の看板があるからね”と教えてもらって、さがしにゆきました。 すると、案外早く見つかりました。外のガラス戸棚に、いろいろな衣装を着て写してある写真がありました。小さな小さな写真屋さんで、店のお客様なのです。背の低いボーズ頭のおじさんです。知らせてあったので、すぐ写真をとり用意してくださいました。

 
 
 店を閉めて、お夕飯がすむと、番頭さん、小僧さんが店にみんなすわって、そろばんの練習です。番頭さんが今日の売上げ、仕入れを読みあげてゆきます。 パチパチ、ガシャガシャ。茶色の木材の五つ玉でした。(今は四つ玉です)

 店には、十人前後の奉公人、台所には女中さんが、一人、時には二人おりました。店の主人は旦那と呼ばれ、商売を覚えに入った店の奉公人は、年数によって番頭さん、小僧さんと言いますが、大切なお得意様の息子さんをおわずかりもしました。一般に十年の年季奉公と言いますが、それぞれの事情で異なります。この道を志して入店した人は、十年つとめて独立してゆきます。修業のためにくるお得意様の息子は、四, 五年ぐらい。いわゆる“他人の飯をくわせろ”いうためです。

尾張屋 小川又市商店 その一

2013年01月17日 18時02分05秒 | Weblog
1月2日の新年会でお母さんから原稿を頂きました。
85歳になる寿子さんのお母さんフデさんの娘時代のお話です。


尾張屋 小川又市商店
                            小川 フデ

昭和の初め、千代田区神田が神田区豊島町と言っていた頃のお話です。

神田川に沿っての柳原通りは、昭和通りをこえて柳森神社の方まで、大小の古着屋が並んでおりました。 柳原通りから靖国通りにぬける通りに“小川又市商店”がありました。 三間間口の店で、当時としては大きい店でした。

 靖国通りに面して尾張屋本店の山川商店がありました。山川商店は通りに面してはあまり大きくないのですが、奥行きが深く、この辺りの古着問屋のいちばん古いお店です。小川商店と同じく近所に七、八件、山川商店に丁稚奉公をした人たちの店がありました。

 小川又市氏は、たいへん優秀な番頭さんであったそうで、山川商店の一人娘の婿にぜひと望まれましたが、郷里には昔からのいいなづけがいましたので、おことわりをし、新潟からその“おつたさん”を連れてきて、四畳半の間借り生活から始めたのでした。 大正七、八年の頃と思われます。

 かわいい子供に恵まれ、大好きになってしまった酒、タバコもきっぱり止めての精進でした。 しかし、関東大震災、子供が疫病で亡くなるなど、不幸、災難が重なりました。でも捨身になっての仕事への精進は実を結び、小川又市商店の看板をあげることが出来ました。

 昭和五、六年ごろ、縁あって,かぞえ年 四歳のになる女の子が養女になりました。長じて又市氏の甥が婿養子として入り、店を継いでゆきます。

 一人娘として、蝶よ花よと育てられた娘が女学校へ入ってまもなくの頃であったと思います。学校は九段の方にありましたので、市電での通学でしたが、かえり道、ずっと二人の男子学生に後をつけられました。ドキドキしてうちに飛び込んだ時、うしろに聞こえました。
『なんだ、古着屋の娘か・・』この言葉は娘の心にやきついてしまいました。

母のようなオカミサンになんて絶対ならないから! 父母は店の番頭さん達の中でいちばん有能な番頭さんを婿殿にしたかったのですが、そうは問屋がおろしませんでした。 でも紆余曲折経て、若おかみになってしまいました。運命を感じます。


さて、わが古着問屋の商いをごらんにいれましょう。 子供心にしっかりと覚えているのです。

『細君いるか!』とお客様。東北の方で、とんび、時には角そでを着用しておられます。目のするどいつるつる頭の大事なお得意様。おかみさん! 高忠さんがいらしゃいましたよ! と店の人の声で、母が早速お出迎え。『いらしぃませ どうぞ どうぞ』母が大のお気に入りなのです。店に上がったお客様は、まず火鉢のそばで、母がお出しするお茶を一服。 父と話してから、席を変えていよいよ仕事にかかります。

 古着の衣類は仕入れたばかりの品に、すぐ値札をつけて仕分けせずに、和服も洋服も大人の肩の高さほどに積まれています。 お客様によって、こしかけを利用する方もいますが、たいていはお座ぶとんにちゃんとすわってごらんになります。 高忠さんのようなお方には、一点一点、店員が値段を申し上げてひろげてお見せします。お買い上げ品は、そばにいる番頭さんがどんどん帳面につけ、はねられた品は、次のお客様にお見せするため別室に運ばれます。それぞれ“むき”がちがいますので面白いのです。

 高忠さんが店に着くころ、きまったように学生帽に学生とんびを着た息子さんがあらわれます。『おやじ、いますか!』 そう、お小遣いを頂きにくるのです。高下駄をカランカランならして! 後の高橋圭三アナウンサーでした!!

お年賀

2013年01月08日 16時19分17秒 | Weblog
仕事初めの朝 就業時間の一時間半前から社員が出勤してくる・・休み中にインターネットサイトなどから送られた落札メールをもとに出荷準備を進めるためである・・。

・・商品管理課とフロントスタッフが新年の挨拶もそこそこに業務に取り掛かる・・いつもの朝と違う緊張感が漂う・・。

8:30 就業前のラジオ体操をするために玄関口で準備していると・・早々と出勤したパート社員がチャリンコの買い物カゴの中から一本のリポビタンDを差し出した! 『社長 お年賀!}』『お~ありがとう』 さっそくこのお年賀を頂いた・・。


この日底冷えをする寒さであった!・・歯にしみわたる冷えたリポビタンDはそれでもおいしかった!・・。


パート社員の『お年賀』のおかげで、新年の挨拶が『力みがちの激』に終始したことは言うまでもない!!

明けましておめでとうございます

2013年01月07日 09時35分24秒 | Weblog
明けましておめでとうございます 本年もよろしくお願いいたします

1月7日より通常業務が始まりました。フロントスタッフ8名全員・・体調もすこぶる万全で皆様からの『在庫問い合わせ』にスタンバイしております・・。


フロント8名のバックには62名の商品管理・生産部隊が『確実な商品』をお届けするために細心のチェック体制で控えておりますので『お問い合わせの電話・FAX』をどんどん、じゃんじゃん送ってください!!  お待ちしております!!・・。