むしろ、少年犯罪の専門家の間では厳罰化より少年が社会復帰するための更生措置の拡充の方が、犯罪抑止力の効果は大きいとする意見が大勢を締めています。先にも述べたように、これは「少年を特別扱い」しているのではなくて、保護育成を考えた方が本人にも社会にも利益が大きいということなのです。

 ですから、凶悪少年には大人と同じように社会的制裁を加えろとばかりに実名・写真報道を求めるのは、その少年の次の犯罪を予防するのには逆効果なのです。年若い少年たちは大人の犯罪者より先が長いのです。治安の維持という目的のもとでは、なおさら長期の収監よりも更生に力点を置く方が効率は良いのです。

 日本では、大人も含めて前科のある人が更生することへの理解が乏しいです。ですから、矯正施設から出てきた大多数の人が再犯時に就労・住居・経済的困窮・対人関係等の問題を抱えてきました。特に年若い少年たちは、出所後の支援がなければ犯罪の悪循環から出られません。

 それなのに犯罪に対する処分や刑罰の上に、さらに少年たちの実名や顔写真をさらして「社会的制裁」を加えるなど、少年たちを更生させず、また犯罪に導くという最も拙劣なやり方です。

「犯罪少年が大人に比べて特別扱いにされて甘やかされているから少年犯罪は増えるのだ」

と述べる人々は、少年犯罪が減り続けていることを知らない点と、非行少年はむしろ保護したほうが本人だけでなく社会の防衛のためにもいいのだという事実を見逃している点で、二重に間違っているのです。

最近10年間でも少年凶悪犯罪がこれだけ減っている。

 

 

 では、実際には全体の少年事件も凶悪事件も減っているのに、なぜ少年事件は凶悪化したというイメージが私たちの中にあるのでしょうか。

 これは、「メディアの見出し効果」と呼ばれる現象です。昔に比べて、一つの目立つ事件についてワイドショーやネットなどで報道される「量」が爆発的に増えたので、少年犯罪が増えたとか凶悪化したというイメージが定着してしまうのです。

 神戸市須磨区の事件や佐世保の事件などを思い出していただけるとわかると思うのですが、あれらの事件は物凄いインパクトで私たちの記憶に焼き付いていますが、他の異常な少年凶悪事件ってたくさん知ってますか?幾つかの事件で少年は怖いという印象を持っているだけではないですか?

 こういう調査があります。

 2年前に比べ国全体で犯罪が増加したか、という質問と、居住地域で犯罪が増加したか、という質問で聞き取り調査をした結果(2006年浜井浩一龍谷大教授調べ、Crime in England2003/2004より)によると、英国と日本の両方で国全体の方が増加しているという回答が多かったのですが、その乖離率は日本で約46%、英国で約15%と大きな開きが出たというのです。

 つまり、身近な住環境では犯罪が増えたとは感じていないのに、日本全国では犯罪が増えたと感じている人が多いということです。

 被害者のお子さんの無残な写真は見たくも出したくもなかったけれど、それが出ているのがテレビなのです。ご紹介する心中をお察しください。

 

 

 その理由はマスコミの報道によるものとしか考えられませんよね?日本では治安に対する現状と感覚(何らかの媒体による効果)には大きなかい離がみられるわけですが、これはメディアの影響が大きいのです。

 この「見出し効果」について、河合幹雄桐蔭横浜大学教授がこう分析しています(「安全神話のパラドックス」岩波新書より)。

「関連記事に普段全て目を通しているはずの私でさえ、犯罪情勢は悪化しており、厳罰化の流れがあるかのような印象を抱かされてしまうのはなぜだろうか。その答えは記事の見出しにある。検索記事の見出しリストを打ち出したが、それを読むと受ける印象は大きく異なってくる。(中略)これらの見出しを見れば、犯罪情勢は恐ろしいことになっているように読めてしまう。しかし、これらの記事内容を読めば、殺人は減少しているなど、正しい記述がしてある。」

 私たちは、新聞や雑誌広告の見出しの活字の大きさと、テレビのニュースやワイドショーの「リアル」な音や映像に感覚を狂わされているのです。




 日本の少年法改悪についてもう一つ深刻な問題は、政治におけるポピュリズム(政治指導者が大衆の一面的な欲望に迎合し,大衆を操作することによって権力を維持する方法。大衆迎合主義)が進行していることです。

 さきほどの、少年犯罪が実際には凶悪化していないのに凶悪化しているから少年法を厳罰化しなければいけないと言い切った稲田朋美大臣がその良い例です。

 ニュースの価値が「わかりやすさ」を追及してしまうことで、少年の保護育成というような複雑な問題は「犯罪少年はけしからん」などと単純化され、肝心の犯罪を減らしたり少年を保護育成するというような真の目的が見失われるのです。

 少年犯罪の厳罰化のように刑事政策がポピュリズム的な性格を帯びる傾向はPenal Populism(penalはペナルティのペナル。刑事政策における大衆迎合主義という意味)と呼ばれ、実は日本だけでなく先進国全般で進行していると言われています。

 



 この用語の生みの親でビクトリア大学のプラット教授は以下のように指摘しています。

「Penal Populismが進行する過程の特徴として、犯罪や刑罰の議論において、社会科学における研究成果よりも、むしろ、個人的な体験、常識や逸話といったものが重視されるようになり、複雑な問題に対して、わかりやすく常識的な言葉で解決策を語るものに対する信頼感を高めていく現象が起きる。」
(Platt, Penal Populism, London & NewYork; Routelegal 2007)

 テレビのワイドショーを見れば明らかなように、犯罪学者や刑事法の専門家はほとんど出てきません。素人コメンテーターやせいぜいヤメ検弁護士(元検事の弁護士)が「専門家」として出演しているだけです。

 そして、そんな番組では先に触れたように、統計上とは異なる「治安の悪化」を憂う政治家、犯罪被害者の権利を主張する「識者」やメディアが、一般市民の「常識」や「感情」の代弁者となり、政府の刑事政策に強い影響力を持つようになる、というわけです。

 「代弁」された覚えはないですか?

 syounenhou

 


 少年事件ではえん罪が特に多いのですが、一回プライバシーを報道されてしまうと彼らの人生は決定的に傷つけられ、もはや立ち上がることは至難になります。

 非行少年の実名・顔写真公表を求める意見は、生活保護バッシングや死刑積極推進論、人質自己責任論などの主張と同じく、そこには事実に基づいた冷静で抜本的な政策論はなく、「応報=倍返し」の快感という一過性の乱痴気騒ぎしかありません。

 週刊新潮が加害者とされる18歳少年の実名と写真を掲載したわけですが、それらの記事では読者の「水戸黄門的な気持ち良さ」に力点が置かれており、「犯罪予防に本当に必要なものは何か」「犯罪被害者の真の救済とはなにか」「非行少年の保護と社会との共存」といった構造的な問題解決には全く関心がありません。

 視聴率低下が叫ばれるテレビ局の番組や、販売部数低迷に悩む新聞や週刊誌の記事が手近な売り上げ増のために、「あの芸能人の衝撃の告白」に頼るのはいたしかたないとしても、いやしくも報道機関たるものが私たちが生きる社会に貢献するどころか、「あの国が憎い」だの「人質は自分で責任をとれ」だの「犯罪少年はさらしものにしろ」という番組や記事で一杯になるのは正常で健康的なこととは言えません。

 しかし、彼らは「視聴者が、読者がそれを望んでいるのだ」

と言います。

 私たちは彼らのそんな言い分を否定できるような生き方をしていきますか。それとも、まだ垂れ流される「ワイドショー的なもの」を無意識に消費し続けるのでしょうか。