人類の宝『文楽』を蛇視眈々と付け狙う橋下維新の会。。。。ではなくて
「日本振袖始」(大蛇退治の段) 八岐の大蛇を退治する素戔嗚尊(すさのおのみこと)の立ち廻り。
人形浄瑠璃のことを、一般に「文楽」と呼びます。
これは、江戸後期、淡路島出身の初代植村文楽軒が、大坂に浄瑠璃の稽古場を開き、その後、人形浄瑠璃の小屋を設けたことに由来します。これが文楽座の始まりとされています。
日本各地には、義太夫節と人形からなる人形芝居がたくさん伝えられていますが、「文楽」という名で呼ばれているのは、大阪を本拠地とする「人形浄瑠璃文楽座」だけなのです。
そして、大阪の文楽はユネスコの世界無形遺産に認定されている人類の宝なのです。
今、一人の政治家の無理解と傲慢が、この人類の貴重な財産を踏みにじろうとしています。文楽への補助金を凍結し、人間国宝、90歳近い7世竹本住大夫を呼びつけ、公開の席で面接させなければ補助金を出さないというのです。
この暴挙に対して、我がブログの常連中の常連、浪速姫様が立ち上がりました。
浪速の文化、ことにこの文楽をこよなく愛する姫の怒りの鉄槌を受けよ、橋下徹大阪市長!
(写真は「国立文楽劇場」ホームページ、産経新聞「文楽に逢う」より、わたくしが選定)
記
まず2012年6月28日に提示された、「大阪市ゆとりとみどり振興局文化部文化振興担当」を作成者とする、大阪市長橋下徹氏の文楽補助金削減についての公式見解を下に示します(太字部分)。
文楽への補助金の見直しについて、「文楽軽視」だ、「文化に対する理解がない」との批判をいただいています。
私は、文楽が大阪発祥の重要な伝統文化であることは、十分に理解していますし、好き嫌いや無理解から、補助金を見直そうとしているのではありません。特定の文化、特定の団体に対してだけ、税を投入して支援することはしないということを原則にしながらも、この間、文楽問題については、担当部局や特別参与と膨大な時間をかけて議論を重ねてきました。
その結果、特に課題と考えた点は次の3点です。
1つ目は、補助金の助成先である文楽協会の改革です。原理原則に立ち返り、マネジメントの対価として、公演収入など売上の中から一定の手数料をもらう仕組みに変える。これによって、自らの収入の中からマネジメント料を支払う技芸員は協会を厳しくチェックし、協会も売り上げ増のため必死でプロモートするという、あるべき姿になります。
今のように、協会職員や技芸員の報酬ありきで、不足は税金を投入するという仕組みそのものを、まず変えなければなりません。
2つ目は、技芸員の収入の適正配分です。収入の範囲内で自分たちの報酬を得るのが原則です。若手技芸員は報酬が少なく生活が厳しいと聞きますが、技芸員全体ではどうでしょうか。まずは、技芸員内での適正配分が必要です。そして、税金で支えることを市民の皆さんに納得してもらうためにも、十分な情報公開が前提です。
3つ目は、最も深刻です。演者である「技芸員」と、劇場での公演を主催する「日本芸術文化振興会」、地方公演を主催し、技芸員をマネジメントする「文楽協会」の3者の間で、コミュニケーションがなく、文楽の振興に誰も責任を負っていないことです。当事者の認識を整理するところに立ち戻り、真に文楽が振興するための仕組みに変えていく必要があります。
文楽界には構造的な欠陥があるのに、分析さえ行わず、行政はこれまで漫然と補助金という形で税の投入を繰り返してきました。そのことが皮肉にも「変革のための努力をしない」事態を招いたのであり、私は文楽が終わってしまうという危機感すら持っています。今のままでは文楽に未来はないのではないでしょうか。
世界無形遺産である文楽の、しかも人間国宝。7世竹本住大夫。
さて文化行政・文楽に関しての橋下氏の発言は、今回初めてではありません。
今年3月16日朝日新聞の朝刊に「橋下流 芸術イズ マネー? 聖域なき文化行政改革」と題して大阪における文化行政の「仕分け」についての記事が載っていましたが、そこで示された橋下氏のそれまでの発言のうちとくに気になったのが、2008年5月の「行政・財界の人は、オーケストラや美術と言うが、お笑いの方が根づいている。」、2009年の「文楽を見たが、2度目は行かない。」の二つです。
前者は、オーケストラや美術を芸術・文化として享受するのは社会の上層部で、市民―庶民は、他者を蔑視し嘲弄(ちょうろう)することで生ずる「嗤(わら)い」を含む「お笑い」のみを享受しているという一面的見解であり、後者は自身の嗜好についての発言であり、公式に述べるべきものではなく施策の根拠となる事柄ではありません(そのことについては、今年3月1半ばの朝日新聞の読者投稿欄「声」への作家赤川次郎氏の「橋下氏、価値観押し付けるな」と題する痛烈な投稿があり、それに賛同する投稿も多かったと聞いています。
文楽に話を絞れば「文楽協会は大阪に人と金を呼ぶ努力をしていない既得権益団体だから補助金を出さない。」ということのようです。
上記の6月28日の言明はそれらとかなり違っています。
まず橋下氏(以後「氏」と略)は、批判を受けた問題点をずらせています。勿体ぶって「ぼくは文化を分かった上で言ってるんだ」という虚勢、無教養な人間と見られたくない見栄からでしょうか。
氏個人が文楽を理解できようができまいがそんなことはどうでもいいのです。各人の嗜好は十人十色ですから。しかし普通の人間は、自身の嗜好と合わぬ芸能があったとしても、それに携わる人々や享受する人々を貶めることはしないものです。(氏はコメンテーター時代「能狂言を観る人間は変質者」と公言しています。氏は悪口として「ばか」「くそ」のほか、性的異常を表す「変態」「変質者」という表現を好むようです。)
ご存じ、近松門左衛門作 曽根崎心中
問題は自身の嗜好・価値観に基づき、市の予算の遣いみちを決める姿勢です。
「私は、文楽が大阪発祥の重要な伝統文化であることは、十分に理解していますし、好き嫌いや無理解から、補助金を見直そうとしているのではありません。」
の言明は、その後ろめたさからの言い訳としか思えません。
府知事時代初めて鑑賞し「2度と見ない」と言い放った人間、ただ一度の自己の経験ー受けた感覚を敷延し、一般的事実として論じる人間、文楽公演の劇場で楽しむ観客の雰囲気に、そして技芸員の精励努力に触れたこともない人間に何が語れるというのでしょうか。事実に基づかない「捏造」で論を立てるのは「維新の会」の得意技でしょうが、そうした人間に「文楽が大阪発祥の重要な伝統文化であることは、十分に理解しています」などとそらぞらしく言ってもらいたくありません。
そして劇場にとって何より大切なのは観客です。氏は、大阪はもちろん東京、地方公演時の巡演地の観客の声を多数聞いたのでしょうか。要望を聞いたのでしょうか。
「とくに課題と考えた」という「3点」で、観客という最重要の存在は一顧だにされていません。
課題「1つ目」には、「補助金の助成先である文楽協会の改革です。原理原則に立ち返り、マネジメントの対価として、公演収入など売上の中から一定の手数料をもらう仕組みに変える。これによって、自らの収入の中からマネジメント料を支払う技芸員は協会を厳しくチェックし、協会も売り上げ増のため必死でプロモートするという、あるべき姿になります。」とありますが、「原理原則」とは何の「原理原則」ですか?
平清盛でおなじみ、平氏の末路を描いた「壇浦兜軍記(阿古屋琴責の段)」
また文楽協会、技芸員、が「売上増」、というより観客増のためになんの努力もせず漫然と補助金を当てに「居食い」をしているというのでしょうか。技芸員の方々のその技芸の上達・錬磨のための血の滲むような稽古の様子、区役所などでのミニ講座の実施の努力は少しでも文楽に触れ関心を持った者ならだれしもが知るところです。
「金儲け・利潤追求」を至上命題とするのが「衆人愛敬」の文化の「あるべき姿」なのでしょうか。その努力を支援するのが地方自治の本旨である「住民の福祉の増進」の一環としての「文化行政」の為すべきことであり、「補助金」はそれが形として現れたものです。市長自ら文楽の広宣のチラシを撒いたり技芸員に稽古をつけたりするわけにはいきますまい。
美術館・図書 館で参観者・閲覧者の数に応じて美術品や書籍の保存のための費用を増減するなどということはありますまい。
さて、基本に戻りますが、各種芸能がそこで提供される「劇場」という施設は都市が成立して初めて存在します。
古くは古代ギリシャの都市国家や古代ローマ諸都市における「円形劇場」、室町期の能舞台、近世イギリス、とくにロンドンの劇場、そして江戸期の諸座は、旧来の血縁・地縁共同体から切り離された人々が「都市」という分業に基づく新たな生活環境の中で生き延び生産活動を営むために必要だったのは、「適応機制」でいう「所属の願望」を充足させる場、つまり「絆」を実感できる-共感・共歓・交感・交歓の場、すなわち「マツリ」です。
それは、始原、人類が過酷な自然環境のなかで生存を維持するために結束し、そして生死にかかわる厳しい緊張状態からしばし解放されて活性化するべ く祭祀―マツリとして行われた歌舞・共同飲食に起源を持ち、それはDNAに刷り込まれています。ロックのライブに集う若者たちと文楽の舞台を楽しむ人々の間に何の違いもありはしません。ジャズ・サックスの演奏を聴いた翌日、能の鑑賞に行く人も少なくはない。
舞台稽古で「日本振袖始・大蛇退治の段」を演奏する文楽三味線の人間国宝、鶴澤清治
「村落共同体」から切り離された人々はその「マツリ」の場を「劇場」にもとめました。近世大坂そして江戸の繁栄はそうした場によって醸成された庶人の活気に支えられてきたのです。もちろん歴史の中で泡沫のように消え去った芸能もあるでしょう。
しかし、「古典・伝統芸能」として継承されてきたものは、「源氏物語」などの古典と同様、多くの人間がそれを享受し長く受け入れ、継承することで「古典・伝統」となったと同様のです。つまり「古典」を「古典」たらしめ「伝統」を「伝統」としたのは社会の多層的な享受者、それこそ民意なのです。1部の上層階級の享受だけではそれは無理だったはずです。
また「技芸員」という言葉が上記の3点でよく出てきますが、技芸員の方々と親しく、しかし真摯に言葉を交わし、率直に語り合ったことが氏にはあるのでしょうか。
「2つ目」で「若手技芸員は報酬が少なく生活が厳しいと聞きますが、技芸員全体ではどうでしょうか。まずは、技芸員内での適正配分が必要です。」とありますが、少し親しく話をすればそんなことは直ぐ分かります。それを今になって「~と聞いていますが」や「どうでしょうか。」という不確かな言明自体、論を立てる根拠として極めて脆弱です。
それと氏は「人形浄瑠璃―文楽」を大阪市だけにかかわるものとしかとらえていない、その存続を大阪市長の思うままにしてよいものと思っていることも問題です。
人類の人類たる営為として築かれた文化として、歴史において大きな役割を果たし、現在なお多くの人々に享受され、生きる意欲を喚起し、心を憩わせ、或いは精神を高める活動である「無形文化遺産」Intangible Cultural Heritageの一つとして国連の専門機関ユネスコに認定されています。
文楽は確かに大阪を発祥地・本拠としておりますが、それを楽しみ、ときに心が救われたとする人々は日本全国に決して少なくなく、海外公演においても各国の人々の心を捉えているーすなわち日本のそして世界の「宝」であり、Heritageは「遺産」と訳されますが「継承されるべきもの、受け継ぐべきもの」という意味を持っております。
同じく「日本振袖始」から、大蛇となり橋下市長を喰らわんとする浪速姫?!(失礼!)
その保護・振興のための「補助金」という形での、継承のための施策を放棄することは、大阪は世界に対しその責任を果たさぬ都市ということになり、大きな恥を曝すことになるでしょう。大阪人はそんな屈辱に耐えられません。またそんな都市に観光客がくるでしょうか。世界の「無形文化遺産」を守り振興することに尽力する都市であることこそ世界に対し「文化都市大阪」を発信する強力なアピールです。
さらに
「文楽界には構造的な欠陥があるのに、分析さえ行わず、行政はこれまで漫然と補助金という形で税の投入を繰り返してきました。そのことが皮肉にも「変革のための努力をしない」事態を招いたのであり、私は文楽が終わってしまうという危機感すら持っています。今のままでは文楽に未来はないのではないでしょうか。」
の言明の「文楽界」の「構造的な欠陥」とはどういうことを指すのでしょうか。
「文楽協会には構造的欠陥がある」というのならまだ筋道は立ちます。「文楽界には」とはどういうことなのか?
「~界」という語は「音楽界」「文学界」「スポーツ界」「医学界」……というように極めて広い抽象的範囲を一括して述べるものです。そこには享受者の在り方も含まれる。抽象的なものの「構造」とは具体的にどういうものなのでしょう?
言いだした氏にはそれを明示する責任があります。とくに観客とのかかわりについて。
また 芸能の世界ー能楽であれ、歌舞伎であれ、あるいは大衆演劇であれーその技芸に精励努力し「衆人愛敬」を図るのに、機械的な「マネジメント」構造があるというのでしょうか。
「『変革のための努力をしない』事態」の内容も不明です。「変革」とは何をどう良くするための「変革」ですか。それも不明です。享受者の意見も聞かずに「変革」と言われても困ります。商品が売れない場合企業はまず消費者の意見を求めるものです。自身がおもしろくないと思ったのは相手が「努力していない」からだというほどに愚昧・短絡的な氏とは思いたくないのですが……。
大阪市西成区の市立千本小学校で行われた「小・中学生のための芸術体験授業」
文楽は様々な方法で内外の市民に文楽と親しんでもらう努力をしている。
なぜ、文楽の公演に観客が集まらないのか。真摯にその原因追及をすべきです。
文楽を観た時、伝統を守り続ける芸の素晴らしさを感じました。しかし、同時に、変化し続ける時代を意識し、どうすれば初めて文楽を観る人に「もう一度見たい」と思わせることができるのか、そういった創意工夫が舞台からは感じられませんでした。
観客重視、観客を楽しませることが第一という、ジャンルを問わず「公演」である以上当たり前の姿勢が弱いから、現に、若い人たちに新たな文楽ファンが増えていないのでしょう。
実際、問題提起の意味を込め、あえて「もう一度見たいと思わない」と言うと「文楽の文化性を理解できていない」と批判されました。公演が評価されなかったことを観客のせいにする、一般市民の感覚からおよそかけ離れた世界です。これでは、新たなファンの獲得など、できるわけがありません。観客が集まらない原因は自分たちにあると、なぜ考えないのでしょう。
大衆文化だったはずの文楽が、いつのまにかこのように根深い特権意識を持つようになったのは、補助金など公的な支援を当然として収入が保障されてきたからです。「補助の継続によって文楽を守れ」と言うだけの「文化人」も、私からすれば同罪です。なぜ、口に苦いクレームや批判を行い、文楽の振興にむけた建設的で具体的な提案を行わないのでしょうか。
上記Ⅱはまったくもっての私見であり、かつ虚偽・捏造に溢れています。あるいは名誉棄損にあてはまる言明です。
「しかし、同時に、変化し続ける時代を意識し、どうすれば初めて文楽を観る人に『もう一度見たい』と思わせることができるのか、そういった創意工夫が舞台からは感じられませんでした。」に対しては、初見で「感動しろ。いいなあと言え」と誰も申しません。「つまらない」と言う人があってもそれは個々人の嗜好に基づく感想ですから。ロックのライブを「わたしには喧しいだけや」という人もあるかもしれませんが、それはそれで一つの感想です。
大阪公演では長年にわたり1公演につき幕見も含め5・6回、年4回の東京公演、さらに日程が合う限り春・秋の地方公演にも行く人もいます。東京公演はチケット発売が始まるや即完売が多く(近畿から行く観客も多いのですが)、キャンセル待ちで早朝からチケット売り場に並ぶ人もよく見かけます。
またどこであれ、観客には様々の服装の老若男女がおり、劇場は「舞台を楽しむ」という一点で集う都市民の交流・交感・交歓の場になっています。見知らぬ隣席のかたとさえ「よかったですね」「今日の~大夫の語りはとくに艶がありましたね。」と幕間にふと言葉を交せる。氏はそうした劇場の雰囲気に親しく接したのでしょうか?
国立文楽劇場にて鏡開き 人形浄瑠璃文楽の初春公演初日に振る舞い酒を頂く、街行く人々
「観客重視、観客を楽しませることが第一という、ジャンルを問わず『公演』である以上当たり前の姿勢が弱いから、現に、若い人たちに新たな文楽ファンが増えていないのでしょう。」は事実を踏まえぬ、誤った私見です。
氏の
「実際、問題提起の意味を込め、あえて『もう一度見たいと思わない』と言うと『文楽の文化性を理解できていない』と批判されました。公演が評価されなかったことを観客のせいにする、一般市民の感覚からおよそかけ離れた世界です。」
の言明は、「観客」を「ぼく」というべきところです。
「自身」=「全観客」のように述べるのは「ぼくの意思」=「民意」と言い換える氏の常套手段ですが。「観客」である市民をすこぶる馬鹿にしています。自分の言うことを聞かなかったら、相手をバカ呼ばわりする氏のほうが「一般市民の感覚から」遥かにかけ離れています。
「大衆文化だったはずの文楽が、いつのまにかこのように根深い特権意識を持つようになったのは、補助金など公的な支援を当然として収入が保障されてきたからです。」
の言明もまったくの虚偽です。
文楽関係の人々が観客を軽んじ、尊大に構える姿勢などに1度たりともまた微塵も触れたことはありません。技芸員の方に感想を述べると実に真剣に聞いてくださいます。劇場への投書に対しても誠実な回答や改善があります。
そして、「収入さえ保証されたら特権階級としてのんべんだらりと過ごす」という発想は普通一般人にはないものです。氏自身にはそういう発想があるのでしょうか。
第一、『文楽の文化性を理解できていない』という批判は文楽の世界の人間が言った言葉ですか?
日本文学研究者ドナルド・キ―ン氏 作家の赤川次郎氏をふくめ伝統文化を愛し守り進行しようとする人間による批判です。それをあたかも文楽の世界の人間がいったかのように捻じ曲げ、公式の言明で述べるのはもはや「名誉棄損」の罪に値します。いや「嘘つき」という人倫にもとる所業です。
(後半に続く)
この夏休み。行ってみませんか?
大阪市の橋下徹市長が文楽協会への補助金の全額凍結を表明した問題で、人形浄瑠璃文楽の技芸員(演者)は10日、国立文楽劇場(大阪市中央区)で協議し、市長に非公開での意見交換を再要請する方針を決めた。
協会などによると、協会所属の太夫、三味線、人形遣い計82人のうち58人が出席。大半の技芸員が対話を望む一方で 「個人の意見が文楽界の総意として独り歩きする恐れがある」「カメラや記者に囲まれると緊張して話せない」との声も上がり、賛成多数で再度、非公開での面 談を要請することが決まった。
終了後、三味線の人間国宝、鶴沢清治さん(66)は「技芸員代表としては公開でお会いできないが、私個人としては市長に直接手紙を書き、公開の場 で会っていただくつもり」と話し、文楽界トップで人間国宝の竹本住大夫さん(87)も「文楽代表ではなく一技芸員としてぜひ会いたい」と同調した。
一方、橋下市長はこの日の協議結果を受け、「公開、非公開は市民を代表する僕に沿ってもらわないといけない。そうでなければ、税金を使わずやってもらうしかない」と述べ、公開による討論が実現しなければ、補助金を凍結する意向を改めて示した。
(2012年7月11日10時44分 読売新聞)
観客のためにも、技芸員の方々の不断の精励を妨げず、佳き舞台を提供できるよう、「文楽協会」の理事長(近畿日本鉄道・近鉄百貨店・近畿日本ツーリストの代表取締役会長で 近鉄の前社長、大阪商工会議所の常議員でもいらっしゃる)山口昌紀氏初め協会の役員の皆さまは積極的に動いていらっしゃるのでしょうか。
橋下大阪市長は「文楽協会」のあり方を一方的に批判しています。観客の1人である当方としても現状のままでよいとは必ずしも思いません。「話し合い」についての技芸員の方との連絡の齟齬はその1例です。しかし、よりよくする努力は常に為すことができます。
そのために協会がまず聞くべきは観客の意見であり、感想であり、見解です。一度見てもう2度と見ないと言って憚らぬ人物の意見ではありません。入場料を払い、舞台を楽しもうという全国の観客の声です。
もし「改革」が必要ならその声を汲んでのものであるべきですし、その声に支えられた方針は何よりも強い説得力を持つはずです。いかに独善的な市長といえどもそれには逆らえるはずはありません。
観客の声を踏まえ、それに基づいて技芸員の方と協議し、そのうえで市・市長との「話し合い」に臨むべきです。というより「補助金削減・停止について承りたいことがある。」と市長を呼びつけるべきです。不当な理由による「補助金削減・停止」は国民の「文化的生活を営む権利」の侵害だからです。
、「公開、非公開は市民を代表する僕に沿ってもらわないといけない。そうでなければ、税金を使わずやってもらうしかない」は、「補助金が欲しければいうことを聞け。」という恫喝に近いものです。真摯な話し合いが1度で済むとは思いません。まずは腹蔵なく(=オープンに)話し合うためには余人を交えず話し合うことも必要です。その意味で非公開の要望は誤っているとは思いません。むしろ非公開の要望を、自分のいうことに従わぬからといって、話し合いの機会を避け、補助金停止の理由とする市長こそ、世界無形文化遺産として世界から託された宝を守る責任を放棄する罪を犯し、大阪を世界の笑い物とする張本人といえましょう。
いくら自身が「お笑い」が好きだからと言って、大阪を「笑い物」にする権利はだれにもありません。
理事長はじめ経営・組織運営に優れた手腕と見識をお持ちの役員の皆さま、その主張が正当かつほんとうに文楽を守る毅然たる意志の表れであるなら、市民は協会を支持します。全国の、世界の、伝統文化を守り発展させようとする人間が支持します。決して見捨てません。
今からでも遅くありません。断固主張すべきは主張してください。観客に支援を求めるなら求めてください。
協会は文化を守る旗手であってください。
それは名誉ある役割です。
では、その補助金は、誰が出したお金なのでしょう?
それは、大阪府民が出したものであり税金という形で徴収されたものでしょう。税金がベースなら監査が入るのは当然でしょう。
橋下さんという厳しい監査官が審議します。ということで、何をビビッているのですか?
文化だといっているのなら、その文化論を橋下さんにご自分たちの文化論をぶつけてみてはどうですか?彼は、密室で判断するより公開で討論して、それを税金を出した人に公開しようとしているだけじゃないですか?
それとも、文楽を生業としている人たちの文化論とは、一般の人にはもったいなくて聞かせられないようなものなのですか?納税者が、この文化事業には税金を投入して良いという判断は絶対にもらえないと最初から負け犬になっているのですか?
本当に大事な文化だというなら、例えば、東京の石原都知事が尖閣を買い取ろうと思うから寄付金を…といっただけで、寄付金が13億も集まったではないですか。文楽の危機なので、寄付金を…と言ったら、いくら集まるんでしょうね?日本中の人が文楽の危機と感じていくら出してくれるんでしょうね?
そもそも文楽って、宮中文化なんですか?私は大衆・民間の文化だと思っていますが。大衆・民間の文化は時代を反映させて進化しても良いのではないでしょうか?江戸時代を含め、それ以前の出し物だけに固執する余り、進化を忘れてしまったのですかね?だとすれば、進化を止めたものは滅びる。という、自然の摂理に従っているのではないでしょうか?
色々書きましたが、
1.税金から補助金を出してもらいたいなら、納税者の納得の行くようにプレゼンテーションするべきではないですか?
2.古典を守ることが文化と言うのはかまいません。ですが、それだけなのですか?何の進化も無いのですか?
3.後援会の方たちは随分と偉い方たちがいますね。その人たちは、活動資金を得るために何をしているのですか?場合によっては、自腹を切られてもよいのではないですか?
ray先生と浪速姫さんの,この記事の続編『世界無形文化遺産の文楽を滅ぼそうとする橋下大阪市長は浪速のタリバンなのか』
の下方にも,オリジナルイラストを含め全部載せて下さっていますが,小田嶋隆さんの書かれた文のなかに,この答が書かれていますので,ぜひお読みくださいませ。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20120712/234415/?top_updt&rt=nocnt
姫さまは文楽愛好者だと書いておられますが,小田嶋さんは文楽をごらんになったことはないそうです。
でも,感情的な好悪を抜きにしても,尊重するべきという彼の結論が出るのに充分な理由があるのです(読めばわかると思います)。
ですから,まず1は却下。
2→古典芸能としての人形浄瑠璃を守りつつ(これは進化しないもの,進化すべきではないものだそうです),
一方で大夫さんらは色々新しいアイディアを取り入れて,(昔から)トライされているようです(木下順二,井上ひさし,シェイクスピア等の作品ほか)。一番新しいところでは三谷幸喜さんの作品も。詳細は犬丸治さんのweb pageをご覧になって下さい。
3. 劇場によく足を運ばれているのではないでしょうか?
個人的には,後援団体ができると,一般人も協力し易くなると思いますし,それから,,,国が援助してくれるといいなと思っています(『日本』が誇る世界無形文化遺産ということで)。
なるほど、確かに市長は全権を白紙委任されたわけでもない。だから「大阪市民が補助金を望んでいる」という意見はありうる。だが、そこまで言うなら、どうやって補助金を出すか、出さないかを決めればいいのか?
「大阪市民・府民が熱望している」というなら、住民投票などで証明するべきだ。
例えば、「文楽なんで絶対に観たくない。死んでも見たくない」という市民が多数派だったとしたら? 絶対に観たくないほど嫌いだという市民に対して、強制的に血税を取り上げ、補助金を出す、というなら、ただ単に古いから、伝統だからという理由でそんな権威があるんですか? 仮に、全裸で道頓堀を泳ぐという伝統芸があったら、市民はそれに税金を払わなければならないのだろうか?
もっとも疑問なのは、橋下を親の仇のように罵ってまで文楽を擁護する人々(中には高所得の文化人も多い)が、なぜ文楽に寄付しないのだろうか?
自分が払いたくないものを、市民全体には払え、というのはおかしい。
やや文脈が不明です。「補助金を貰う」のは誰で、「当然の権利」とは誰のですか。そしって「感じます」の主語は?
少し補わせていただくと「コメントを読んでいると、文楽協会が補助金を貰うのは文楽協会の当然の権利のように感じます。」となり、貴殿は「文楽協会が補助金を貰うのは文楽協会の当然の権利」と感じていらっしゃることの言明になりますね。
あ、それと全文、誰に向けてのものですか?
これも不明です。当方にですか、文楽協会にですか、それとも文楽の技芸員に向けてですか?
さて御存知かと思いますが、国・および地方自治体が、日本国憲法第25条にある「国民」の「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」を守るのは当然の責務であり、その中に「文化行政」の推進も含まれます。そして、市民にはその施策の遂行を要求する権利があります。
「補助金」はその文化行政施行が「金銭」という形で現れたものにほかなりません。
政府が作成した「観光日本」を海外にアピールするプロモーションフィルムに「文楽」は取り上げられているのは御存じですね。
「文楽」は、畏れ多くも2度の天覧を忝うし、重要な「日本文化」として世界文化の一環として世界で評価される芸能です。
それを保護し振興することは大阪の名誉ある責務です。そのために税が用いられるのは至当なことです。「税金がベースなら監査が入るのは当然でしょう。」これは正論ですね。で、どう不正に使われていたのですか? 正式に「監査」の手続きを取り、担当部局によって「監査」を行えばいいでしょう。住民の直接請求権として「監査請求」を行ってもいいですね。
「橋下さんという厳しい監査官が審議」?
政務調査費を自派の選挙活動や私的使用の家具・什器の購入に用い、使途について規制する「規則のほうが間違っている」と居直るお人が「厳しい監査官」? いつどう正式手続きによって「監査」したのでしょう。
「文化だといっているのなら、その文化論を橋下さんにご自分たちの文化論をぶつけてみてはどうですか?」
誰に対しての提案ですか?
もし文楽協会。文楽技芸員に対してなら、
それらの人々が「文化だから守る金を出せ」と言ったことになりますが、事実ですか?
第一「文楽を生業としている人たちの文化論」とありますが、その人たちは「文化だから携わっている」のではありませんよ。「衆人愛敬」-多くの人に楽しんでもらうために携わっているのです。「文化論」という理屈で芸はできません。文楽を「文化」としたのは、また文楽についての「文化論」を展開してきたのは、「享受者」です。
「享受者」としての当方の「文化論」はブログ本文で述べてあります。
「私は大衆・民間の文化だと思っていますが。大衆・民間の文化は時代を反映させて進化しても良いのではないでしょうか?江戸時代を含め、それ以前の出し物だけに固執する余り進化を忘れてしまったのですかね?」とありますが、「進化」と「変貌」は違いますよ。「芸能の進化」とはどういうことですか?ぜひとも 御教示願いたい。 人間行動と生物進化を結び付ける「決定論」はracismの正当化のための理論です。
そして文楽の上演形態自体、草創期から時代状況によりかなりの変貌を遂げています。まさか成立時そのままと思っていらっしゃったわけではないですよね。まさかねえ。新しい題材を扱えば「進化」だとでも。
われわれは紀元前のギリシャ悲劇・喜劇、ローマ喜劇にも感動し、16~17世紀イギリスのシェークスピア劇、17世紀のラシーヌやコルネイユのフランス古典悲劇、モリエールの喜劇にも感動します。はるか時空を隔ててさえ通じる普遍的な人間の営み、人間というものを深く知らしめ、アリストテレスによれば共感し心を揺さぶられることで「カタルシスを味わい、発散し、生きる活力を得るのです。
人間存在の普遍性を感じるのには当時の作品そのものに触れるのが最短の道です。あるいはイタリアの碩学B・クローチェが「すべての歴史は現代の歴史である」と述べているように、歴史ー各時代状況のなかでの人間の姿を捉えることが自身の今ある状況を考える最良の方法です。
昔作られた作品を上演しているからダメだとなれば、近松より古いシェークスピア劇を上演することが主のイギリスのロイヤル・シェイクスピア・カンパニー はどういうでしょう。
「古典を守ることが文化と言うのはかまいません。」そんなこと、誰も言ってませんてば。
勝手に話を作らないこと。
「後援会の方たちは随分と偉い方たちがいますね。」とは、何のこと?
そんなものあったっけ? あったら教えて下さい。第一、政財界の偉いさんによる後援会があったら、橋下氏は即入会していたでしょうね。
要約すれば、論を挑むときは、誰に向かってなのかを明確にしましょう。
事実を論拠として、意見を述べましょう。説得力がでますよ。
文楽補助金問題が、橋下氏の予算拠出恣意的決定権掌握のきっかけとなる惧れを考えましょう。「一事が万事」ということばがあります。
そうそう、公開を「話し合い」の必須条件とするなら、最重要の「観客ー市民」をその席に着かせるのが当然ですね。ほんとの「市民に開かれた論議」になります。
また味方なら引用は正確に行いましょう。橋下さん「僕、そんなこと言ってない。」って泣きますよ。かれは 「どんな理由で文楽だけが問題点を追及されずに無条件に金を使えると言うのか」(「橋下日記」)と言ってるんです。
ここでまたかれは論点をずらせてますね。「問題点」について話し合うのを誰も拒んでいない。それに「文楽」って? 桂文楽さんのこと? 「文楽協会・文楽関係者」というのなら分かるけれど。
第一「文楽だけが問題点を追及されずに無条件に金を使える」は誰の言ったことというのでしょう。
だれも言ってないことを言ったかのように捏造し、攻撃するのは橋下氏一派の常套手段ですが。
(なるほど、確かに市長は全権を白紙委任されたわけでもない。)→その通り!
(だから「大阪市民が補助金を望んでいる」という意見はありうる。だが、そこまで言うなら、どうやって補助金を出すか、出さないかを決めればいいのか?「大阪市民・府民が熱望している」というなら、住民投票などで証明するべきだ。)→これは話のすり替えですね。自身が予想した意見について「そこまで言うなら」とあたかも事実のように述べる。
(「大阪市民・府民が熱望している」というなら)→と誰が言ったというのでしょうね。
(「住民投票などで証明するべきだ」。)→あのねえ、「住民投票」についてもう少し勉強しましょうね。日本においての住民投票は、日本国憲法の規定に基づく住民投票、地方自治法の規定に基づく地方議会の解散あるいは首長・議員の解職請求に関する住民投票、そして地方自治体が定める条例に基づく住民投票に大別される
んですよ。個々の事案について、たとえば「~町のスポーツセンターへの市の支出は~町の人間のためだけのものだ。~町のスポーツ振興など要らぬこと。さあ、府民・市民全体の住民投票で決めよう」となれば、毎日が「住民投票」になりますよ。
(例えば、「文楽なんで絶対に観たくない。死んでも見たくない」という市民が多数派だったとしたら?)→あのねえ、「住民投票」って市民の嗜好を調べるものなの? そりゃ憲法違反だ。
(絶対に観たくないほど嫌いだという市民に対して、強制的に血税を取り上げ、補助金を出すというなら、ただ単に古いから、伝統だからという理由でそんな権威があるんですか?)→徴税・財政支出は行政の役目です。文楽協会が徴税するんですかね。文の前半と後半の主語がまったく不明。
(仮に、全裸で道頓堀を泳ぐという伝統芸があったら、市民はそれに税金を払わなければならないのだろうか?)→それが人々を活性化させる文化として世界に認定されたらその振興の施策は取られるべきですね。古代のオリンピックは全裸で行われましたし。
(もっとも疑問なのは、橋下を親の仇のように罵ってまで文楽を擁護する人々(中には高所得の文化人も多い)が、なぜ文楽に寄付しないのだろうか?)→これまた、あのねえ、行政の文化施策についての論議に個人の活動がでてくるの?
(自分が払いたくないものを、市民全体には払え、というのはおかしい。)→自費で購入すべきものを、市民の税からの「政調費」で買うのはおかしい。
あなたも,私が↑で紹介させていただいた,小田嶋さんの文章を読まれるといいと思います。あなたが浪速姫さまに(コメント冒頭で)問われた質問の答も,すごく明確に後半に書いてあるし(↓にも答だけ載せますが),納得できる理由です。ぜひぜひ,丁寧に最後までお読み下さい。(姫さまの,この記事の続編に全文載っています。)
>「文楽だけを特別扱いにするのか」と、橋下さんは言うかもしれない。 その通り。特別扱いにするのである。
でも,この結論部分だけを読んでもダメですからね~。彼のコラムの文はとても長いけど,全部繋がっていて,全部読んで「なるほど~」となるので,全部読んで下さいね。
それから…「全裸で道頓堀を泳ぐ」という行為はそもそも『芸術』ではなく,(吉本興業の,「観客を笑わせることを目的とする」芸人さんの『芸』でもなく),単なる迷惑行為で,しかも迷惑すぎて公然猥褻罪で逮捕される犯罪行為じゃないですか。
そんな行為をこの文脈で例えとして出してくること自体,不適切の極みで文楽に非礼だし,書いたあなたも大恥かいていることになるので,撤回された方がよいと思います。
あと…「住民投票」,これ1回にかかる費用だけで,現在文楽に出すか出さないかでモメている補助金の額の,10年分程度の費用がかかること,ご存知ですか?
つまり,やれば反って税金の無駄遣いになります。
これに関しても,小田嶋さんの文章に「それぞれの芸術,文化の愛好者の数は少数」であることが丁寧に説明され「どんな作品であっても、単純な多数決を取れば、必ず必要ないに投票する人間が多数を占める。そういうものなのだ」と書いてあります。
そういう論理展開になっても(=多数が不要と投票しても),それでもなお,彼が「文楽を特別扱いすべき」との結論を出しておられるのはなぜか,彼の文章を理解すれば,住民投票で決めるという発想は,(投票にかかる費用の膨大さを知らなくても)出てこなくなると思います。
最後に…言うまでもないことですが,もともと税金には「単独では採算が取れないが必要なもの」を補う役割があります。
図書館にほとんど行かない人も,市民プールを使ったことも,今後使う予定もなく,個人でお金を払ってスポーツクラブのプールだけを使っている人々もいるけど,そんな人々が払った税金も,それら公共施設の維持に使われるし,
子を持たない人が払う税金の一部も,子のための公共施設(学校や保育所)の維持のために,普通に使われているのです。
自分は他のプールを使ってるから,市民プール維持に使うお金は払いたくないって…言ってる人,いますか?
<姫さまに追伸>姫さまの返答があるのに,横から+α返答をしてしまいごめんなさい。
私ね,文楽愛好者でなく,一度も舞台を見たことのない小田嶋さんの,この「文楽の弁護」がとても嬉しかったんです。
私も恥ずかしながら見たことなくて,でも『滅ぼすのは絶対ダメだ(罪だ)』と強く思ってたのに,うまく理由が言えなくて悔しかったものですから。
[注]もちろん,文楽協会の非常勤職員多数の体制や広報のしくみなど,改善すべき点もあるとは思いますし(橋下さんも,以前は『文楽協会はつぶすけど,文楽はつぶさない』と発言したのに,どうして言うことがこうどんどん変わるのかしら?),世界無形文化遺産にまでなってるものを自らの手でつぶすのは,国の恥で蛮行と言われても仕方ないと思います。
民主主義で決めずに税金を使うとすると、文楽協会が税金をくれと言ったら無条件で税金を払わなければならないのか。だとすると文楽協会は絶対王政下の国王、納税者は権利のない奴隷か。
民主的な決定のみが税金の使い方を正当化する、というが今のルール。
市民(実務的には市民に選ばれた市長・議会)が何と言おうが金出せて言うなら、市民権が一切存在しない独裁国家に行けばいい
私は納税者の一人として文楽助成に反対することを表明し、市長の見解を支持する。
貴殿の言いたいのはこの1文ですよね。
それだけ言っておけば、内容の当否は別としてスッキリした分かりやすい主張になったものを。さらに「市長の見解」の前に、「~という」というその見解内容の要旨をつけておけばもっとよかった。
そうなのに、自分はこんなに歴史や政治を知ってるんだと虚勢を張ったために、支離滅裂な、文脈不明、非論理的な文になってしまったのは残念です。そうした貴殿の自己顕示欲は、子どもっぽくってカワイーイ。
(「民主主義で決めずに税金を使うとすると、文楽協会が税金をくれと言ったら無条件で税金を払わなければならないのか。」)⇒「市民・議会に諮らずに市長が税金の使途を決めるとすると、文楽協会が補助金を求めたら市長は無条件に拒否してよいのか。」と出来ますな。
(「だとすると文楽協会は絶対王政下の国王、納税者は権利のない奴隷か。」)⇒とてつもない比喩だねえ。あのねえ、「絶対王政」って何か分かってるの? 教えといたげる。
「絶対王政」=資本の原始蓄積(資本主義的生産様式成立の歴史的過程。賃労働と資本の蓄積が生まれる)期の過渡的な政治形態。滅びつつある封建的勢力と勃興しつつある資本家的勢力の均衡の上に、国税・官僚・常備軍を握る国王が絶対権をふるうのでこの名がある。
つまりね、絶対王政下の国王てのは封建勢力を抑え重商主義政策によって商業資本の活動を
支援したのよ。徴税についても一応は協賛機関である「議会」ー例フランス「三部会」ーに諮ってる。
補助を求める側の文楽協会が、徴税権・財政支出決定権を持ってるのかね。
(「民主的な決定のみが税金の使い方を正当化する、というが今のルール。」)⇒これは正論。ただし「民主的に審議された結果決められた施策方針のみが予算配分の根拠となる。」としたほうがいいですよ。「正当化」は普通、「正当であると認められるようにすること」。
例「市長は『民意』を振りかざして自分の立場を正当化しようとした。」
「市民(実務的には市民に選ばれた市長・議会)が何と言おうが金出せて言うなら、市民権が一切存在しない独裁国家に行けばいい」⇒あのねえ、まだ前半は貴殿のこれまでの論旨―「文楽協会は権威を盾に補助を強要している」ーから意味がわかる。しかし、後半とはどうつながるんですかねえ。
「独裁国家」ならその「独裁者」の意向に従って恣意的に財政支出の配分が決められるんでしょ。補助金求めるならそんなところに行けって? わかんなーい。
あ、念のため言っておくと当方は橋下氏を「独裁者」なんて微塵も思ってません。そんな大者じゃないし、カリスマ性もないから。
でも小さな砂粒でも目に入ったら鬱陶しいのは事実です。
mimozaさま
言うべきことを筋道だった文章でしっかり述べてくださいました。
補助金停止が文楽以外の他の文化事業に対してであっても反対・論議します。
イジメは見て見ぬふり・他人事と座視することで蔓延し、自身にも及びますから。
今後とも宜しく御教示くださいませ。
。
心を尽くして説明させていただきましたが,「へえ…そういう考え方もあるんだ…古典文化って特別扱いされてもいいくらいの大切なものなんだ…なるほど」レベルでの,少しのご理解もいただけなかったようで,大変残念です。
大阪城やブロッコリの例は,とてもわかりやすいと思ったのですが…。
でも,個人の考え方にはそれぞれ相違があって当然ですので,あなたに「文楽の補助に税金が使われることに反対する」権利,そして「市長の見解を支持する」自由があるということについて,もちろん,私に異論はありません。
しかし,あなたが少なくない点において,相手側が言ってもいないこと・意図してもいないことを,まるで言ったか意図したかのように受け取って,悪い意味を持つ言葉でラベリングして断じていることは,見過ごせません(烈士さんの初回のコメント分も,浪花姫さまに多々指摘されておいででしたが…)。なぜならそれは誤解だし,さらなる誤解のもとだからです。
ですので,浪花姫さま同様,私も,あなたの貼る「誤ったラベル」を修正することだけは,最後にさせていただきますね。これがいっぱいあるんやわ…泣。
>民主主義で決めずに税金を使うとすると、→1.
>文楽協会が税金をくれと言ったら →2.
>無条件で税金を払わなければならないのか →3.
1.→今回,文楽への補助金については議会で既にその必要性が認められ,もう議会を通っちゃってるんです(減額されたけど)。つまり,もう民主主義で決められた事項。もちろん,案を議会に出す前に,橋下さんも了解済みです。
だから,この1.の条件はあり得ない条件なので,ありえそうに言わないで下さい。
知らない人には,まるで文楽側がそんなことしてるみたいに聞こえるから(無実)。
つまり「議会で支出OKとなったものを,個人の判断で凍結する」などという『反民主的』な独断をぶちかまして,実際に補助金の支出を執行せず,この先も「執行しないまま(=出金せず)」にするつもりもあるかのように見えるのは,他ならぬ橋下さんの方です。本当に反民主的なのは誰やねん!?て話。
http://ameblo.jp/jiji-an/entry-11300020940.html ←熟読おススメします!
2.→文楽協会は「税金をくれ」とは,言っていません。
3.→「無条件で税金を払わねばならない」とも,協会は言ってません。
ここは,小田嶋さんの文でも,
>なかでもとりわけ、文楽のように何百年の時代をくぐり抜けてきた技芸は、さらに別の枠組みで考えてあげないといけない。
さらに別の枠組みで「考えてあげないといけない」となっています。相手を尊重した気持ちがこもっており,文楽を上に置いて,市民に対し上から目線で「無条件で」「補助せねばならない」などと絶対的な義務を申し渡しているのではない。あ,私が森羅万象さん宛に書いたコメントのタイトルが,ややまずかったかも(→「古い文化が無条件に保護されるべき理由」)。すいません。でも「無条件に保護されるべき」は,あなたがここで書いた文脈(内容)やニュアンスと違うことは,わかっていただけますか。無条件で税金払えと=にはなりません。保護されることは当然(なので,他の新しいものと同じ土俵に上げるべきではない,つまり別枠で考えてあげないといけない)ということです。
>(↑の1, 2, 3に続く文で,)だとすると文楽協会は絶対王政下の国王、納税者は権利のない奴隷か。
いや,だからあなたの言う「絶対王政下の国王」のごとき振舞いをしているのは,決して文楽側ではなく,むしろ『既に議会で(民主主義に乗っ取って)議決し,決定された事項』を尊重せず,支出を執行しない橋下さんの方でしょ。彼は文楽に関して寄せられたパブリックコメントも読まないらしいし,ホント,じゅーぶん専横的じゃん。(注:パブリックコメント=『民意』の一部で,公募に応じて文書投稿があったもの。首長は,せめて一通り読むべきものでしょう。)
>市民(実務的には市民に選ばれた市長・議会)が何と言おうが金出せて言うなら、市民権が一切存在しない独裁国家に行けばいい
姫さまと同じで,私にも,ココの後半は理解不能でした。
前半も『議会がなんと言おうが,(文楽協会が)金だせって言うなら』のとこ,現実は,議会は「お金出すよ」とOKしているのだから,協会はさらに「金出せ」とは言いません,言ってません。またまたあり得ない仮定というのか。
以上,烈士さんは,橋下さんに肩入れしすぎだからか,彼に同調して文楽を目の敵にしているからか,あるいは「その双方」が原因で,歪められた事実を本当の事実と誤認し,極端に考える傾向があるのでは。それはよくないです。
そのことで,「本来はそれほど悪意を感じなくてもいい対象」に悪意を感じる方向にスイッチが入るようで,あなたの精神衛生上も,よくないと思いました。
対立している場合は,盲目的に一方だけを信じることがないように心がけて,まずは現実を正確に知るようになさってはいかがででしょうか。
私も,今回のこの騒動の長期化のお陰で,色々調べたり読んだり,人の話を聴いたりするうち,ゼンゼン知らなかった文楽のことをいろいろ知ることができました。今度見にでかけてみようと思っています。これでまた自分の世界が広がるかもしれません。姫さま,その折は,また今後も,こちらこそぜひよろしくお願い致します。