「いっぺん小さい頃を過ごした天塚町へ行ってみたい」
N子さんが時々口にする言葉であった。
そこで、今日N子さんの生家を尋ねて名古屋市の西区天塚町へ向かった。西区は私にとって初めて足を踏み入れる土地である。天気はよし。のんびりと天塚町界隈を歩いてみようと思った。
栄のバスターミナルに向かおうとしたところ、オアシス21に「CAFÈ de CRIÈ」という小洒落た店があった。もう昼だったので一寸立ち寄ることにした。まず喫煙室があることにびっくり。私もN子さんもイタリアンハムと卵のサンドイッチとコーヒーを注文。これがまた非常にうまくて満足した。
安井町西(名古屋城正門前経由)行きのバスだというので、それに乗った。カードMANAKAが使えて便利だった。しかし、このカードの発効日が今年の2月11日だったことには誰も異議を唱えなかったようである。新方式導入の日をわざわざ建国記念の日にするセンスの悪さ。この選択には特別の意味がこめられているのか、今も嫌悪感が消えない。
バスは「平六通」という愛嬌たっぷりの名前を持った道を走って、天塚町で私たちは降りた。バス停を少し戻ったところで、N子さんが叫んだ。
「あった。あけぼの保育園だ!」
通ったのはほんの短い間のことで、すぐ国風第一幼稚園へ行ったそうだ。けれど、幼少時代にいじめられていると必ず誰かが「止めやあー」と言って助けてくれたのは、ここに始まるという。もっとも後から思えば、意地悪されていることに気づいていなかったことも多かったみたいだとも言った。
そこからN子さんは左右に延びる道筋に注意を払いながら、北へ向かって歩いた。
「ここにお米屋さんがあったと思うけど」
などと呟くように言うが、私にはわからない。
このあたりは道が碁盤の目のようになっており、いたるところ路地といった趣である。戦前からの建物らしく古びた木造家屋もぱらぱらと見える。空襲にはあっていないのだろうか。炎上した名古屋城からそれほど遠くないところだが。
ようやくN子さんは自分の家があったらしいところにやってきた。平六通から少し入ったところの家並みを行ったり来たり、表札の前に立ったりして、
「この辺だった」
と言った。二、三軒、昔近所付き合いのあった家、遊ばせてもらった家が外観は変わってしまったけれど確認できた模様である。
「あそこの家からすごくきれいなお嫁さんが出てきたんだよ」
とも言った。しかし、自分の家の所在を断定できないようであった。
「稲生小学校へ行ってみる」
N子さんはそう言うと勝手にどんどん歩き出した。香呑(こうのみ)町の交差点を右に曲がるとすぐその小学校はあった。建物も玄関の位置も変わっているらしかった。50年も前の記憶がまざまざと甦っているらしい。N子さんは呆然としていた。
それからもう一度天塚町の生家周辺へ戻って、
「ここだ。やっぱりここだわ」
と言って、駐車場つきのマンションを指差した。当時そこは長屋のようになっていて、間口狭く奥行きのある家が連なっており、その一軒がN子さんの住居だったそうだ。
「板塀で囲われていた。その中でシェパードを飼っていてね。だけど、鳴き声はご近所にずいぶん迷惑だったかも」
としみじみ言った。伊勢湾台風のとき、その板塀は遠くまで吹き飛ばされていたそうである。家の前を指差して、
「そこにカンショがあったのよ」
「カンショ?」
家と家との間の通り道をいうらしいが、もう昔の面影はなかった。
庄内通りを渡って国風第一幼稚園を訪ねた。
「お寺がやっていたと思うけど」
「お寺はなさそうだね。昔はお寺が幼稚園を経営しているパターンは、よくあったけど」
それにしても「国風」とはいかにも戦前的である。が、建物は洋風のコンクリート造りで玄関は鮮やかなオレンジ色。その前で子どもを迎えに来た若い母親が話し込んでいた。
「せっかくここまで来たんだからシャチハタも見ておこう」
N子さんは、また大通りを渡るという。さっきは信号にせかされてー私は変なものを見たとしか思えなかったが、今度は分離帯に丸石がぎっしり並べられているのを見た。まるで無数のお地蔵さんのようで不気味だった。シャチハタはすぐ見つかった。
「短大時代にアルバイトしていたとこ。そのお金で教科書を買った。」
「スタンプ台といったらシャチハタだった。シャチハタ全盛時代だったかな、当時は。遠いところから通ってきたね」
「学校で紹介されたから。でも、2年目は案内がなくて。聞きに行ったら、今年は採用しないと言われたわ」
再び庄内通に引き返し、それからどんどん北へ向かって歩き、国風第二幼稚園へ。N子さんの記憶では、幼稚園はお寺がやっていたとのことであったが、それはこちらだった。通っていたのは「第一幼稚園」で、「第二」は何かの行事で来たぐらいだそうだから、このお寺の印象がよほど強かったのだろう、錯覚を起こしていた。
地図を見ると、もうすぐ裏を庄内川が流れていることになっていた。庄内川の上流に春日井市がある。そこが私の故郷である。
急にこのあたりを流れる庄内川を見たくなった。長く放置されているような公園の階段を上り、庄内川橋に立った。雄大な眺めである。川幅も橋の長さも春日井の松川橋をはるかに越えているようだった。川面をユリカモメが舞っていた。先日の豪雨の痕が河川敷のなぎ倒された木や草にはっきり見えた。下流の空に広がる夕焼けが美しかった。
「愛工って、ここから近いんだ。知らなかった」
三番目と四番目の兄は、愛知県立工業高校出身である。特に四兄は昼間は会社で働き、夜は定時制に通い、家計を助けたものである。冬の夜など母は火鉢にもたれ、四兄の帰りをじっと待っていた。そして、自転車の音を聞きつけるといそいそと夕食の支度を始めるのだった。寒風を突いて庄内川の堤防を走ってくるように聞いていた。貧乏のどん底時代だったように思う。
そろそろ夕闇が迫ってきていた。見るべきものは見たという思いで帰ることにした。名塚町の「コメダ」で一服し、地下鉄鶴舞線の庄内通駅に向かった。街には明かりがともり始めていた。