想風亭日記new

森暮らし25年、木々の精霊と野鳥の声に命をつないでもらう日々。黒ラブは永遠のわがアイドル。

死という意志

2014-08-27 01:31:21 | Weblog
一匹か、ひとり…か、
ひとりぽっち、ですね。若い猫が母猫の江戸ちゃんから
来ちゃダメと怒られるので、10mくらい離れたところで
ぽつねんと、でも、ねばっているところ。



縁側でママといっしょにいられるのは子猫の特権です。






猫でも犬でも、一緒にすごしていると一匹とか一頭とか
言わないし、ましてや一個とは数えない、ですわよ。
ベイビーといつも「ふたり」でいましたし。
いまもいっしょですし。



東電の原発事故で川俣町山木屋地区から福島市内へ避難
生活を余儀なくされていた渡辺はま子さんは、一時帰宅
した自宅の庭で焼身自殺をした。
はま子さんの夫が東電に賠償を求めた訴訟は注目された。
結果は請求額のほぼ半分余の支払いを東電に命じる判決で
原発事故と自殺の因果関係を認めた。
はま子さんの夫君は会見で「家族の気持ちに配慮された
判決かと思う、はま子に安らかに休んでくれと帰ったら
言います」と語った。

東電側弁護士の判決前の注目されたコメントは
「個体の脆弱性による、必ずしも原発事故が要因とは
限らない」というものだった。
個人ではなく、個体と言った。

脆弱性うんぬんももちろん弱者は死んでもしかたがない
という解釈につながり基本的人権の認識を欠くが、
それよりなによりも、人をさして個体と言ってのけた事
に、東電の体質が明瞭に顕われていた、と思う。
驕りからくる軽口が自分の首を締めることになろうとは
つゆとも思わなかっただろう。

しかし多くの人々といつもは鈍感なマスコミも首をかしげ、
敏感に反応した。
判決は東電に甘すぎるくらいの、中をとったような結果だが
負け知らず東電が今回は折れるしかない結果となった。
当然であるが、その当然が行われないのが東電、原子力ムラ
の裁判だから今回は異例である。

嘆きが深すぎて、怒りの声がくぐもっていた夫君。
ニュースを見て、会ったこともないはま子さんのことが
我が事のように辛かった。
庭先で死んでしまったはま子さんの目に最期に映ったのは
何だったろう、花が咲くのが歓びだったはま子さんは花を
見て泣いただろうと思った。

福島の住人はこの土地の恵みに抱かれて暮らしてきた。
それは目には見えぬ毒で汚されてしまっている今も
愛着が深すぎて諦めきれない。
恵まれて、少し甘えすぎたとはいえ、こんなにも乱暴に
すべてを奪われ、破壊されるのは酷すぎることだ。
耐えよと諦めよと、誰が誰にいえるのだろうか。
それを言えるのは自分自身でしかなく、他の誰かに
強要されることではない。
耐えられなかったはま子さんを弱いと決めつける事は
許されていないはずだ。

はま子さんが日々を愛し、懸命に生きていたことの
裏返しが、幸せを享受した庭先で死ぬことだったのだ。
これは償いを求めた尊い意志であり、弱さではないはずだ。


(森庭から目と鼻の先にコレです)

東電は判決に際し、こころよりご冥福を祈り真摯に
対応しますと述べた。
この判決が他の係争中の、またこれから予想される
訴訟や賠償に良い影響をもたらすことが、
「冥福を祈る」ことだと東電が理解することを
祈っている。
血の通う企業、人のいる企業、同じ人同士である事
を思い出してほしいと祈っている。
金の話ではなく。



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生き延びよ

2014-08-11 14:21:33 | Weblog
 お盆ですね…

(くつろぐ江戸ちゃんの耳)

〈ありのまま〉と〈あるがまま〉と、どう違うんですか、
というコメいただきました。
有り、在ると漢字でかき分けると意味も違ってきますが
この夏の〈ありのまま〉は流行語になってますから意味は
拡大解釈されていることでしょうね、それぞれの思いで。
思いを乗せて言葉を使っているのか、思いついて使って
いるのか、ということでもまた広がる一方です。
先日はあえてあるがままと書いておきましたが、
ありのまま、だともっと個人的、私的になるということ。

あるがままでいい、ありのままでいい、と自然体を肯定
するのは自分自身を自覚している場合だと思います、はい。

犬に教わり、猫を眺め、自意識を修正しながら歳をとって
きた身ですが、歳をとればとるほどに人の卑しさのほうが
目についてカナシイカギリ。



シャアーって言うよ。
チビがママと一緒じゃなく一匹でやってきて、目を合わせ
シャアーと一言。
笑ったら、ミーと小さく鳴いた。



ご飯をゴチ。帰りしなに、ミーと鳴いた。

近くに江戸ちゃんもいるのだろうけど、一匹で来れるように
なったとは驚きでした。
ママからミルクを貰えなくなり、狩りを教わり覚え、やがて
自立していきます。
季節が一巡りした頃、狩りがうまくいかなくてお腹が空いて
縁側に遊びに来ても、ママからフーっと叱られます。

でも、いつまでも甘えてんじゃないわよ、とは聴こえません。
江戸ちゃんは気にかけながら、フーっと叱っているのです。
少し食べ残して行くのは、あの子がまだ近くにいるのを
知っているからだと、ある日気がついたのでした。

そろりそろりと縁側に近づいて、誰もいないとみて
警戒しながら食べる若猫をそっと見ていると、野生の厳しさを
感じます。
自立して、生き延びて欲しいものです。
困ったらくるんだよ、とガラス越しに声をかけると
尖った目でチラとみて、一気に食べて去っていきました。
ほんとうはいつでも来ていいんだよ、と言いたいところ
ですが…
江戸一家の掟、野良猫の掟なのでヒトの勝手は言えません。

この縁側にデカイ君がいた夏は、だんだん遠ざかっていく
けれども、目を閉じれば今も君の気配がすぐそこだね。
ヘラヘラとシッポ振って。
愛を教えてくれたぷ~ちゃん。


















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あるべきようは

2014-08-08 23:05:59 | Weblog
あのマツコが「あるがままってどうかと思うよ」と
言ったそうである。
あるがまま、は前後が問題で、ママ(校正用語)では
通らないことがままあるのでww マツコの言い分は
もっともなことを言ってるなあ、いっつもなあ、と
思った。

それからもうだいぶ日を過ごしたのだが、ヨガマットの
上で脚を無理やりに曲げたり伸ばしたりしていた時、
ふと思い出したのであった。
マツコを思い出したというよりも、あるがままの逆、
あるべきようは、という明恵上人の言葉の方である。

そして、そういえば知ってか知らずかマツコは
「あるべきようは」の反対の方を否定したのだなあと
身体をギュンと折り曲げつつ、気づいたのである。

話はちとずれるが、人間は学び訓練しなければ
人間らしさ、人らしさを身につけることはできないと
いうことを知っている人は意外に少ない。
生まれて育てば誰でも人になった、人である、そう
思い込んでいる人が多い。身体が成長しただけなのに
じゅうぶん大人などと思ってしまっているのだ。
ところが心の方はさっぱりわかっていない。
そして迷いに迷って、あるがままなどと結論づければ
どうなるか?

明恵上人の「あるべきようは」という訓戒は尊い教えで
ある。やさしく、わかりやすく、そして実践するのに
難しい。難しいが実践すれば、生きやすくなる。
そういうものだ。
かたや、あるがまま、を貫いていけばどうなるか?
自分はいいと思っても周囲との軋轢は避けられない。
相手にしなきゃいいのよ、と考えるかもしれないが
それは口でいうほどたやすくはない。
相手にしなきゃいいと思った時点でじゅうぶんに敵対
してしまっている。無視は和解の反対である。
あるがままを浅知恵で行ってしまうとヤバいのである。
気づかぬうちにキョウフの自己中に陥っている。
お山の大将、裸の王様になってとても恥ずかしいことである。

己の分を知る、足るを知る、これは同時に相手や周囲を
理解することでもある。
夫々の立場のあるべきようは、をよくわきまえて行うこと
の大事さを明恵上人が説かれたが、同じようなことを
先代旧事本紀に見出すことができる。
また人含身の祝詞にはあるべきようはが連綿と説かれて
いる。

古代の人はよく知っていたということである。
その智慧にあやかっているのは、人より動物たちの方で
あるなあと今日も思ったのである。
いや、マツコが動物的だという意味では毛頭ない、
マツコはんは素直で賢いお方だという話である…
(回し者ではありません)


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