想風亭日記new

森暮らし25年、木々の精霊と野鳥の声に命をつないでもらう日々。黒ラブは永遠のわがアイドル。

こころもよう

2010-08-31 08:38:39 | 

木に映したり、空に映したり、川面をのぞいたり、あるいは人に。
自分のことは自分以外のところに表れる。
単純なことを単純すぎるがゆえに、曲解し、せっかくの写しが
見えなくなることを、策に溺れるという。

自分が思い考える通りに人も思うはずだという思い込みがその
原因となる。
悪人の思考を書いたものを見ると、あるいは事件調書を読むと、
ほとんどの者が失敗するとは考えず、むしろうまくいくと思って
行動を起こしている。

冷静に考えれば起こりうると予測できることも想像できないで
やってしまうのである。これはなにも悪人に限ったことではない。
犯人は脳を支配する利己的遺伝子である。
つまり、誰にでも起こりうることだ。

コフクセイキョウ。いにしえ(古)の書にある。
深呼吸して、腹のうちを空っぽに清らかにせよと。
そうすればおのずと道は目の前にあることが見えてくると。
「虚腹清胸は道を成す象(かたち)なり」
(「旧事本紀大成経」所収、宗徳経かんつもとのおしえぶみ)

苦しい、不安、痛い、これらを超えるに、我慢してもできない
時、それは我慢という段階に私があるからである。
「私」があれば、痛いと思う私がそこにいるのだから超えようがない。
我慢と滅すは異なる段階である。
ではどうしたら滅すことができるのか?

そこで、虚腹清胸。まず深呼吸し、握りしめた手のひらを解け。
体を縛る力を抜け。さらに頭を走り続ける諸々の言葉を読むなかれ。

それができないのでどうしたいいかと尋ねているのだ、と我の強い
人は繰り返し問うてしまう。
どうしたら、どうしたら、どうしたら、と尋ねる。
頭の中から湧いてくる、どうしたらという言葉。防衛する為の利己的な
言葉である。何を守りたいのか?
守りたい我を、しかと見たうえか?

我を滅すために、いにしえの僧たちは座してひたすら経文を唱えた。
経文の音が耳から脳へと入り、その波が海の音のように単純に意味を
なさない渦となり、自らの身体を支える体幹の感覚が消えたころ、
座しているのか、浮いているのか、漂うアワとなる。

傷も傷みもそのまま消えてはいないが、「私」の執着がそこにない。
よって、痛みを覚えることもなくなる。
かゆみの研究をしている医者が、かゆみを感じなくするには原因から
遠いところを冷やせと教えるのは理にかなっている。脳とはそういう
ものであるから。

人のこころもようも、同じようなものである。
こころにもようが波打っているうちは、心というより感情の波だ。
それを止めて映すことなどできない。無常であるから。
先の先の先を読んだつもりでも、読む端から動くものなのだから。

動かぬ部分を捉え、そこに周波を合わせる、コフクセイキョウ。
これはまだ、序の段、おおまかなる方法だ。
けれど煩雑かつ魑魅魍魎の日常のなか、平穏を保ちつつ生き抜くのに
役立つことうけあいである。













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放蕩娘ご帰還

2010-08-30 12:33:33 | Weblog

娘って歳ではありまへん、もちろん。子持ちです。
約一ヶ月ぶりに顔を見せたシマコ。ミャ~とやわらかな声でカメを
呼ぶのです。あたしにはシャーッと言ったくせに、です。

洗面所の馬油入り石けんがギザギザに縁取られていたので、はては
ネズ公がやってきたな、シマコが留守の間に一族が復活したのか?
先日そう思っていたところへミャ~の鳴き声、ひとハタラキ願いたい。
ミルクを振舞ったら、シャーッと言わなくなったところなんざ、
ちゃっかりぶり健在で、なんだか安心しました。
縁側の風景に、なくてはならない存在であります。



少しづつ、秋が始まっている森。
栗の左上に黒いものが見える?
そばでクンクンしているあいつのつま先、でっかいつま先。
初めて森の道を歩いたのが秋の始めのころで、まだ柔らかな肉球に
栗のイガイガ、トゲが刺さった。痛がって、歩けなくなって
小さかったなあと思い出す。
いまではどんなところも、ガシガシとふんづけて歩くカイジュウ。

育つ、熟す、老いる。
彼は彼でさまざまに学んで智恵をつけてきた。
老犬と過ごすのは子犬といるより楽しいと言う話を時々聞くが、
そうだなあと共感することがこのごろ増えた。
彼はいい歳の取り方をしている。

アンチエイジングやips細胞の研究が進めば進むほど、老いや病の
意味が不確かな曖昧な、あるいは忌避されるものになってきている。
生命というよりヒトはモノに近づいているのではないだろうか。
究極のモノを求めるところに、尊厳はない。
モノに敬う心を向けようはずもなく、賞賛は似て非なる所有欲の裏返し
でしかない。
敬うがなければ、礼もまた消えるのであるから、そういう社会を想像
すると恐ろしい気がする。

ベイビーは、礼儀正しい犬。おだやかでやさしい関係が深まっていく。






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水浴び

2010-08-29 18:15:00 | Weblog
夕立がくるまで待ちきれないんである。
一日、カメの手伝いをして庭の草むしりに
励んだU君もだいぶ腰にきてたな。
那須の奥まったところの温泉宿へ行くと、
バイクで発った。夏の夕暮れ、あとはシマコのご接待。
久々のお出ましだから。
(ケータイから更新)また後ほど。
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愛と糸瓜(ヘチマ)の車谷長吉

2010-08-27 00:15:00 | 
「私は愛がどうの糸瓜がどうのと言いたがる女が嫌いである。」
どひゃーん、一発でぶん殴られた気がする書き出しは、車谷長吉。
(文士の魂「愛の小説」新潮社刊)このお方が苦手であります。
苦手というにもいろいろあって、いわゆる好きすぎて苦手という
類いのほうであります。

ときどき愛という字を使うので、どひゃーんと衝撃を受けたけど
言っとくけど、いや、書いとくけど、わたしは「言いたがる女」
ではないよ、そういうの嫌いなタチなんだ、言わないね。
そう、言わないのである。
書いているだけである。言わないから書く、書くから言わない、
そこんとこ、どっちだか自分でもわからないが。いずれにしても
言いたがらない人である。

なぜかって? めんどくさい。それ、口にすればうたかた。
愛がどうの糸瓜がどうのという言い回し、あまりに小気味いい。
いいから読み流しそうだけど、どうして糸瓜なのか?
それを考えてしまった。

ま、それは置いておいて、最初の一行はつまるところ車谷氏に
とって愛とは何かに収斂していくので、車谷氏ほど愛を知る男も
いないといっていい。奥さんの高橋順子さんを大事に思っている
ことが行間からにじみ出ている。いつもそうである。

マジメである。糞がつく真面目なので、そこんとこが苦手で恐くて、
そして好きである。
遠い遠い孤高にそびえる人である。
わたしは真面目でない人が嫌いである。

愛も糸瓜も口には出さない日々、昼間の人の声が頭を離れないので
外を見ると、月明かりがきれいだ。
樹々の影が映る芝生を窓から眺めていたら、外を歩きたくなった。




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人が変わるとき

2010-08-25 00:15:00 | Weblog

ベイビーに合わせてサマータイムモードで寝起きしているこの夏、
朝陽を見る機会が増えた。
これが秋になっても寒い冬が来ても、続くかどうかははなはだ疑問
である。うさぎは寒がりである。
いや、うさぎなら雪上を駆けるが毛皮のないうさこはチョーがつく
ほどの寒がりだ、夏が終われば逆戻りか‥、それにしても朝はいい。

十代の頃から寝起きが悪くて母の手を焼かせ、それが大人になっても
変わらず夜型で長らく生活してきた。
でもこうやって光の中で元気な顔をしているベイビーを見ると、
早起きしてよかったといつも思う。

人は誰かを愛しいと思えば、変わることができる。
わたしは、自分がどうしたいという目標や希望を持ってもそれを
達成したことなどまるでなく、ほとんど自分以外の誰かを思うことに
促されて行動する。

そして、自分がいい目に逢っているのである。
欲のないいい人ぶって言っていると思われると誤解である。
そんなお利口さんな話ではなく、逆である。
バカでもアホでも、だれかを愛することで、自分を変えて行くことは
できるということだ。
そうでもないなら我慢などできないタチなのだ。

愛とは愛されるのではなく、愛することが本義であろうかと思う。
受け取る側もまた、受けているのではなくおそらく相手を想うので
愛を返すことに結果的になるのだから。



何かが足りない、足りないものがある人のほうが、愛を覚りやすい。
神さまは、足りないところへ降りてくる。

ナルキッソスの神話を引くまでもなく、自信満々で自分を好きな人に
愛など不必要である。ナルシシストの執着は心よりモノへ向かう。
モノフェチに愛は通じない。

人が変わるとは、易という字を用いる。その場合、成熟と極まりをさす。
変を宛てるカワルは、定まることがなく悲運に逢うことも含む。
悪くなったり良くなったり一時的に枝葉に別れ脈絡がない変。
人が愛によってカワルのは、易わるでなければ単なる気まぐれだ。
さて、朝型になったうさこ、寒くなって寝坊するときはプーちゃんも
一緒にな。ならいいだろ?
(プーとはベイビーの二つ名です)
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帰り道の夕景色

2010-08-24 09:05:54 | Weblog
車のフロントガラス越しの一枚。
美しい色に染まっていく瞬間を、ちょっとブレーキを踏んで撮った。
田舎道だからできることであった。

この後もっと撮りたかったが、もうあの色は消え失せどちらを向いても
薄暗い雲が暮れゆく空に浮かぶばかりであった。
帰ってカメラを確かめて、たった一枚が美しかったのに驚いた。

美を創る人は、こういう色を頭の中に描き出す。
そういう人の目にはいつも何が映っているのだろう。
世間の塵芥の色は排除されているのだろうか。
いや、それはかえって幼稚で興ざめなことだから、知らんふりして
呑み込めるのではないか。

知っていて、呑み込んでしまい、手品のように美しく変えてしまうこと。
それができるのがオトナなんじゃないか、成熟とはそういうことでは
ないかとやっと思えてきた。

20年も前からずっと思ってきたのは、カメがいわゆる感情的な思いを
語らない人であるのはどうしてだろうということであった。
教えは私を滅すであるにしても、教える師もまた人である。
人には質や品があるので、カメが自分らと同じ質であるはずがなく、
わたしにはない品があることなど承知だ。
しかし、静かで強く、表れるときは柔かな態度は変わることがない。
それが不思議であった。激してもいい場面でも変わらないからである。

ワタミグループのワタミ会長の叱り方が話題になって、というより
俎上に乗せられ色々と言われている。
叱ることができない上司が増える中で賛否両論のようだけれど、
カメに叱られたと思う人はどのくらいいるのだろうか。

叱るときも、叱らないときも、それほど変わらない言葉の強さなら
受ける側の品が問われるのではないだろうか。

ワタミ会長に「ここから飛び降りろ」と9階だか8階だかの会議室で
言われ、それをパワハラだと思う社員はおそらく会社にいられないだろう。
追い出されるのではなく、いずれ仕事をしくじるか、何らかの失敗を
するだろうし、自らの感情を収めることはできないだろう。
そういう人は自分を振り返ることはしないから被害者意識を持ちやすい。

グジグジと根に持つ。根に持ってはいないと思いながら、今に見てろと
いう暗いモチベーションで頭の中はいっぱいになったまま仕事をする。
それがうまく運ぶはずがなく、たとえうまくいったように見えても一時の
ことにすぎない。
物事をみるとき、どこが完結かを見定めることができるかどうか、
それは最も重要な能力である。
私情はえてしてそれを誤らせるのである。

感情的な人は人の言葉を感情でしか受け取らない。
発する言葉に「言霊」つまり心があっても、受け取る側にそれを感じる
繊細さがなければはじき返すだけのことである。
バンバンと壁打ちテニスの球のように、打ち返そうという感情が妨げて
誰にもあるはずの心に、魂に、言葉が届かない。

人のそうした情の部分を熟知した上で、カメが静かなる人なのかどうか
それはわからないが、ただ以前ほど、そのことを不思議とは思わずに
いられるようになった。
なったが、しかし、わたしの場合にはなにせうさこであるからして、
うさぎがちょっと黙っているからといって、「どうかした?」と
ツッコミされるくらいがオチであるが。







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どこ見てんのよ

2010-08-21 09:51:58 | Weblog
時は流れ、忘れ去られるギャグの数々でありますが
「どこ見てんのよ!」はふだん使いされ、そのつど
人によってはアオキサヤカのあのポスターが脳裏を
よぎるのかもしれません。幸か不幸か…。

そして、物置き小屋の屋根の上から同じ言葉の波動を
するどく放っているのは、シマコの子コブチャです。
10メートル離れてズームレンズで撮ったもの。近寄る
と怖がると思うので、たぶん。
このひと月、シマコはすっかり姿を見せなくなって、
子ども代理出勤、おっかあの近況はどうでしょう?
それにしてもデカイなあ、コブ。

デブかマッチョか、意見の分かれることってままある
ことではないでしょうか。

男子の場合はデブorマッチョ?
女子の場合はデブorグラマー?
私情が挟まるぶんだけ、見解の相違となります。
で、ベイビーをマッチョだと言い張っていたうさこは、
「お、太ってんなあ、この犬」と言う人に内心抵抗し、
痩せさせろとはっきり言う獣医にはマッチョなんつって
とボヤいてごまかしてきました。

体重4キロ減り34キロです。ラブラドールでも30キロに
満たない犬が増えてるけど、血統書付の優良犬は35キロ
前後かそれ以上ではないでしょうか。
減ったのは病気のせいではなくメニューを大きく変え、
量も減らしたからです。

見よ、この絞られたウエスト! と言いたいけど、
獣医に言わせれば、やっと腰がわかるようになったねだと。
こうしてみれば痩せても筋肉は残っていて、やっぱり
ベイビーはマッチョじゃない?(私情丸出し)

一方、昆布茶、いやコブチャのだら~んとした体形は
シマコに似ず、太い。太い上に腹が減っているのか、
伸びきっている。家猫になってくれれば、りっぱに
デブ猫へ変貌できる素質じゅうぶんと見えます。
栄養が偏っているのか、びろ~んと伸びてグラマラス
にはほど遠く、早く距離を縮めて私情をめいっぱい
挟みたいところです。
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木、キ

2010-08-20 08:08:17 | Weblog
木、気、樹、機。
来、鬼、奇、帰。
紀、期、基、器。

縦読み、横読み、どちらも面白い。
漢字から感じを即座に読み取り、連想する。
一生お勉強しても終わりがない奥の深さである。
白川静先生に化けて出てきて講釈していただきたいものだ。
カメと対談、なんてしていただけたら素晴らしい。
すぐれた研究者は感性で仕事している。感性は知性で培われるが。

ところで‥。
還暦を迎えた知人の趣味は文学、かと思っていたら違った。
彼はお勉強が好きなのであった。
○○学というのを何かしら、やっていて、たいへんたいへんと言う。
時々くたびれると言うから、楽しいでしょ、やってるときは。
そう言ったら、そりゃそうだけど、何になるんだろって思う時が
ないわけじゃないよ、とくる。

教養はなんのためでもないから教養なのだ。
銭のためにしか何事もやらない、やれないってのが庶民の暮らし
だけど、でも人ってそれだけじゃ生きづらいから、習い事なんて
始める。礼儀作法ってそういうことの一つだし、人でありたいと
願うから。
江戸時代の庶民は習い事フィーバーだったらしい。お免状花盛り
だったらしいというのもなんだか今と似てるな。

覚えたこと知ったことをすぐに飯のタネにしようと考えるほど
生活に困ってビンボーしてるかって?
いや、してない人ほどそういう思考回路らしくて、なんだか変。

教養は隠れて見えない、けれどその人の裏付けとなるのである。
金に変えようとするってことはモロ見せ、露出趣味ですね。
それはハズカシイナア。
そうは見えないのに意外や意外ってのがオサレですねー。
いや、なんとなく気配はしてたんだけど、やっぱそうかーって
ほうがもっといいかもな。とにかく露出はビンボーたらしい。

やろうやろうと思っててやれなかった事を今ごろやっとやり始め!
そうボヤイたらカメに言われてしまった。
「みーんなそう言うんだよ、やり始めたらね、やればすぐだって
気づいて悔しがるのさ、はははは」
悔しがるほど出来ないんですけど~と言い訳した。
お勉強は楽しい。
知るは楽しい、それは子どもの特権ではないんだ。

さて、漢字並べて遊んだら話がどっかへ飛んじゃいました、
いつものことです、はい。では出かけます。

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夏の、森の朝

2010-08-19 00:10:00 | Weblog
朝6時半くらい、朝方まで降った雨で地面も木の葉も濡れて光ってた。



この後、十分かそこらで光は強くなり、空は雲が切れて青くなった。
移ろいやすい空模様の、そのちょっと手前のなんだかくるぞ~っと
いう気配を感じる。それで手を休めたり、急いだり、する。
そういう暮らしかたは、都市型になった生活では考えられない。

ヒト様のすることは決まってて、天気なんかに左右されてはイカンと
いうことである。で然るべくヒトは脳内劇場から出られない。
人生は脳内で展開するだけになってしまう。

脳に取り込まれない外界と、皮膚の外で行き来してらわかるのは、
脳があんがいアホで単純だってこと。複雑系なのは脳ではなく
心なのです。脳の研究しても、心のことはわからない。脳を調べて
わかるのは感情。感情は心とは別である。

固まった感情、頑固な感情、それと暮らし方って密接な関係があるはず。
わかっていても、銭のために生活を変えられない悲しさよ。

それで犬猫飼って癒される~って言ってるのって、さらに悲しいかも。
犬猫を癒してあげようと思えないところが、さ。

今夜は鍵を置き忘れて部屋へ入れなくなった知人と、鍵屋さんを待つのに
つきあって、熱帯夜のぬるい空気の中で、たあいもない話をして時間を
過ごした。たあいもない話しかできない、澱んだ空気のなかに立ち、
その人は終始、明るかった。そう振まうのがとてもカマボコであった。
(はい、オヤジ)大手企業で楽してるかと思ってたら、外回り、営業職に
移ったから毎日暑くて、もう身の置き場がないって外なのにと笑っていた。

鍵屋は40分待たせてやっと来た。知人は部屋に戻れて一日がやっと
終わるのだろう。
その人がギャーオーっと叫んだりするのも見てみたい気もした。


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常ナルマコト

2010-08-16 16:57:33 | Weblog

私をメッス、なんて言ってて君を叱ってごめんね。
叱る理由、どう考えてもうさこのエテカッテですから。
人間の都合を犬に押し付けてたんだわ。
犬も大人になって、さらに歳をとって、カンロクをつけて
それから今では時々ボンヤリと省エネモードで長生きしてる。
その君にステイステイと大声で言ってる方がどうかしてた。

朝もやの中を散歩しながら怒鳴っている自分にうんざり。
大声出すより手を延べる距離に近寄った方が早いのであった。
子犬の頃、そうやって育ててきたことを言ってしまってから
思い出した。

彼はすっかり大人になってもう手がかからなくなったけど
老齢には幼い頃とまた違ったあぶなっかしさがあって心配も多い。
けれども叱ることではないのであった。
あ~、ダメですね。

でも怒られてもスリスリと寄ってくる君はあいかわらず。
ひっつき虫でいてくれて、ほんにありがとう。
ヒトみたいに根に持ったりしないんだもの、それは昔からそう。
それを弱い立場だからなんて言う人がいるけど、そうではないよね。
そんなかけひきじゃないことは長く一緒にいてよくわかっているよ。

人の感情は移ろいやすい。確たるものもないのに激して消える。
気化したみたいに消える思い。
その上、形ある物も壊れる。

諸行無常という仏の教えは執着から人を解き放つための諭しだけど、
子どもの頃からカタチを信じないタチだったうさこにその説法の
効き目はなかった。そういう人、多いんじゃないだろうか‥。
カタチなど最初からない貧しさの中に生きるとき、人はかえって
純粋なるものを求める。強固なる純粋さだ。

人は意味なく威張っている存在だが、人の世ほど陳腐なものもない。
なのに、そこに万の命があって、その数の分だけ喜びもある。
諸行無常ゆえに、常なるものを探す。それを意識せずとも人は求める。
捨てよと言うより先に、常なる信を示せよ、そう渇望した若かった日々。
そのことを忘れたくない。

常なるものを、神とも呼ぶ。
うちの神さま、犬の形をして現れます。

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歳月は待ってくれない

2010-08-15 13:20:43 | Weblog

お盆最後の日、旧友が訪ねてきた。
いつもながら全訳(旧事本紀)を早くしろと催促して
帰っていった。

お互いに歳をとったが、向こうは以前より元気で
口では言わないがやる気満々な感じである。
歳をとって元気になる人の特徴は、好奇心を絶やさない
ことのようだ。
帰り際、なんか面白い本あったらおせーろよ、と言った。
なんかもう感動する本探すのってけっこう大変なんだよ、
と言う。うん、ないもんね。

そういう人は旧事本紀を読めばいいわけだが、
そこんとこ、難しい。関連書はあってもまともな原書が
ない。雑誌に訳文が載ったりしたが、あれはあれ、
これではないからなあ。

歳月を数えるのはいやだから、はたらくとしよう。
背中を押したりつついたりしてくれる友に感謝。
あの人、いわな釣りが趣味だから川の神さまの話なんか
して、よく聞くとアブのことなんだけど。
友自身が神さまのお使いみたいな顔をして、ふらりと
やってきた。

民俗学のフィールドワーク、その原点の神話をどう解釈
するか。歩きまわって、たまに顔をみせると珍しい話を
たくさんしていく。いつも結論は同じで、モノではない、
モノを見透すには、心が必要だということになる。
その心がわかんないから歩きまわっている気がすると
言っていた。

じゃあ座れよと言ってあげればよかったなあ、そろそろ
座りたくなったのかもしれない。
カメ先生は忙しいのかと聞いてたなあ。

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夏の庭2

2010-08-13 18:16:59 | Weblog

寝不足なのだ。で、昼寝してやるぞーと思うが
これがなかなか寝付かない。
寝ていい時に限って眠らない。本を読むとまたまた
寝ないから読まない。
腰痛のためにも横になったほうがいいから、寝ろ!
と言い聞かせるが、いろいろ思いついて動きまわる。
こういうのをビンボー症というなあと思う。

台所のコバエはいったいどこから出てくるのか、
突きとめてやろうと掃除を始める。

ベイビーの寝床をこの際だから拭き掃除してマットも
日干しするとして、ついでにベイビーもゴシゴシする。

周囲を拭いてまわってもまだ体力が余って、庭へ出る。
キッチンバサミを持参してプチ菜園から収穫するべく
生り具合を見る。おおおお、ピーマンが育っていた。
オクラが生りすぎている。全部採ってしまおう。
買い物へ行かなくてすむしな、山下りるの嫌だしな。
トマトは昨日採ったのでまだ青いのばっかり。
ざるをそこへ置いたまま、ツレと散歩するか。

かたわらにツレがいて、いつでもついてくる。
憑いてくる、じゃないよ。随の方、生きてるからね。
お盆でもここには帰ってくる人いないですから。

一巡りして、ああああ、眠いの飛んでしまった。
寝そびれたついでに、料理しよう。
で、キッチンで野菜を洗う。水が冷たくて(井戸水)
気持ちいい。水道代がいらないので流しっぱなしにして
しばし水を眺めた。

そんで、おなかがすいていないことに気づいて、
やっぱ眠気が襲ってきたので、急いで座敷でごろ寝する。
どうしても眠りたいのである。
眠らないと早死にすると思うからではない。
本当は眠くて眠くて、睡眠不足のせいで躁状態になって
いるんである。

で、さっき起きたのでこれを書いているのだが、
読まれた方、アホらしい話でごめんなさい。
夏休みっぽいでしょ。腰痛、治りました。






















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夏の庭1

2010-08-13 11:38:08 | Weblog
裏をかいたつもりがあえなく失敗である。
午前5時には首都高に乗ってまばゆい朝陽を受けながら
スイスイと走っていた。
浦和の料金所を過ぎたあたりから予想以上に車が多いなあ
と思ったが、カーナビに表示されていたのは35キロ渋滞。
高速道路を時速40キロ以下でブレーキ踏みつつ走るのは
とてもくたびれる。

根気強いのだろうか?
それともしかたがないということか?
日本で年に二度くりかえされるこの風景は外から見たらどう
映るのだろうか、と思う。
自然災害の非常時にも暴動や暴行、略奪といった犯罪行為が
ほとんどの報道されない国である。
人々はおだやかで倫理的なのであるか?

渋滞時の反則は路肩走行による追い越しである。
これはしょっちゅうみかける。バイクならまだしも車。
数年前の盆休みの真っ只中、国会議員の乗った黒塗りの
乗用車がそれをやって問題になったことがあった。
言い訳は選挙中、応援演説へ向かうために時間の制約が
あったからということだった。ニュースになったが、
バカらしい話で、議員の名前を知ってもっとアホらしいと
思った。

正論を言うのはたやすいが、行うこと、それを続ける事は
そう簡単なことではない。
だからといって少しくらい、たまたまだからと許されない。
勢いのあったくだんの議員は、その後、急転直下の失脚で
あれはもちろん党内政局での醜い策略に負けてのことだが
わたしには調子のよかったころからの続きのような気が
してならない。


  (おでかけ前のベイビー、ごきげんだった)

さて、ネットで何度も「渋滞予報」を確かめ、夢見の悪い
寝覚めのまま出発し、どーんと35キロ渋滞にぶつかった。
日々の行いが悪いんじゃないか?うさこ、どうだ?
なんて思案しながらその先100キロをどうしようと考えた。

事故渋滞の表示を見て手前のICで降りることにした。
数台の車が一緒に下りていった。事故は予報には出ない。
不測の事態も計算して予定は立てよ、そう学んだはず。
朝の悪夢の中身はといえば…車の事故であった。

ドジの自覚が自虐まで行くと第六感も虫の知らせも
自我の前で消滅する、これも何度も経験してるんだが。
一般道路から再び高速へ戻り、残り約10キロの渋滞に
耐え、ふだんの二倍の時間をかけてようやく帰ってきた。

ベイビーもぐったりちゃんで、雨あがりの芝生の上で
一息ついていた。
夏の匂いの吹きぬける庭で思う。

ふるさとに着いたとたん、空気と土の感触、懐かしい音。
記憶に溶け込んでいたそれらが今直接自分に触れてくる。
その瞬間、からだの奥のほうで喜ぶ何かがある。
来てよかった、かえってきてよかった、そう思うのは
瞬間のことなんだろうが…、大渋滞を承知で繰り返すのは
その一瞬の記憶があるからではなかろうか。
一瞬と永遠、ある意味同じであるからなあ。

本日は腰痛。ドライブ大好きだが、渋滞はやっぱムリ。






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飛沫(しぶき)

2010-08-11 09:04:54 | Weblog


盆休みにすでに入っているようで東京は空いている。
それでも田舎から来るとびっくりするくらい人は多いが。
空いている電車、ノロノロと歩く人、ふだんとぜんぜん違う。

そういうわたしも仕事を終えたら山へゴー。
帰りますけんね。高円寺の夜も満喫したし、はかどらない
仕事を抱え、明けがたの空いている時間を狙って高速を走る予定。
ふだんから行き来せねばならぬ生活をしている身には連休の渋滞
は予定変更を余儀なくされるのでメーワクなんだが、盆休みなら
しかたがない。

でもお盆、なんのためのお盆、おぼんこぼんじゃないぜよ~。
ご先祖さまのご供養の三日間ですけんね、行楽ばかりに
気をとられると、事故らないともかぎらないからご用心あれ。

本来ならば家でじっと静かに過ごすべき日なんだけど、家を
失くした核家族、故郷を目指して大騒動。
まるで鮭の遡行みたいだが、実のところ連休だから遠出する人が
多いのだろうなあ。マズシイなあ。

親を想う、そのまた親を想う三日間、おだやかに過ごしたい。




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ソウル・ノスタルジックツアーin高円寺

2010-08-10 18:20:30 | Weblog
   (水を撒くカメ、この方も群れない、群がられても群れない)

何年振りかにJR中央線高円寺へでかけた。この街は8月は阿波踊りで
賑わう。吉田拓郎の歌「高円寺」が頭を過るけど、そのていどの超乏しい
情報で、とりあえず駅前商店街を歩き始めた。

中通商栄会の小路へ入って行く。
隣同士ひしめくようにくっついて並んだ店は営業中の札は出ているが、
時間を止めたような30年前の風景である。
間口が1間かそれ以下で、居酒屋、寿司屋、ラーメン屋、定食の店、
総菜屋らしき店、パン屋、ハンバーグ専門店、古本屋、コーヒーとケーキの
店という喫茶店、カフェみたいでカフェじゃないオープン居酒屋。そこだけ
ちょっと広めで新しくて、まだ宵の口なのにすでに客が入っていた。
飲み屋は賑わう場所か…。

目的の店はライブハウスShowboat。商店が途切れたあたりのビルの
地下にあった。目当ては新井英一
1か月前からチケット予約して、楽しみにしていたのである。

客席の明かりが消えて舞台に登場してきたのが、共演の小田原豊(dr)でも
渋いジャズマン金沢英明(b)でもなく、ガタイのいいアンちゃん達であった。
どうみたって素人の青年団としか見えないので、いったい何が始まるかと
いう戸惑いやら煩わしさ。しかたないので、ひいふうみいよーと数えてみたら
10人いた。ニコニコしている人や緊張しぃの人、あきらかに一杯ひっかけて
出てきてぞという顔もあった。

そして歌い始めたのが、「イムジン河」、コーラスもソロも想像を上回る巧さ。
いい声で情感たっぷりに歌いあげた。最初の思いは消えしっかりと拍手した。
半島を分断している臨津川(リムジン川)を歌った北の朝鮮民謡だが、日本
では、加藤和彦フォーク・クルセイダーズの歌や最近では映画「パッチギ」で
よく知られた歌である。

グループ名はアエ・ユニットといった。
在日コリアンの青年達が、自分たちの子どもに何かを伝えたい、何かを遺し
たいという気持ちで始めたコーラスサークルで、アエとは「愛児」と書くのだと
紹介された。
初舞台で、それも新井英一と共演! どエライことなんだとわかっているふう
でもなかった。 

「さわやかな青年たち、焼酎飲んでる、マッコリ飲んでる兄さんたちだったね」
そう彼らを称賛しながら登場した新井英一はおだやかに歌い始めた。
隣にいる高橋望のギターの音が鮮烈!
「清河への道」以後の歌、昨年再び清河を訪れて作ったという新曲も歌った。

生きること、生き続け、連なっていく、自分の命が過去からの贈り物である
こと、国境も壁も海峡も超えて、ただ血がつながり、命を連ねていくこと。
その命を感じる、それを歌っていた。
故郷の朽ちた家の土壁を前にして、命を感じた詩人が空気を震わせる太い
声で歌っていた。

振り向いても、横を向いても、前にも、みっしりとある人垣はマッコリの味を
知る人たちだった。騒がしくとても騒がしく、身内の晴れの夜を楽しんでいる
のが伝わってきた。

異邦人のノスタルジアを、怨讐を、歌に託するアーチストと、仲間の初舞台を
喜びはしゃいで盛り上がる集団の間に温度差があることを感じていたのは
どちらでもないまったくの観客であるわたしたちだけのようだった。

熱くて悲壮な新井英一の歌は、CDでも生でも同じように胸を打つ。
それを知りたくて行ったのだったが、アンコールの後もアンコールと声を
はりあげ騒ぐ人を後ろにさっさとドアを押して、階段を昇った。

コリアンジャパニーズ、在日コリアン、そしてジャパニーズ、それぞれの思いを
高円寺のノスタルジックな街並みがぐるぐる巻きにして、飲みこんでくれた。

タイムスリップと半島の旅、一挙両得かつ、情けない日本人にならぬよう
気合いを入れた夜であった。

そして今朝、シャンソンのCD新井英一の「オオカミ狩り」パリの男たちを
聴いた。ゆうべと同じ声だけど、マッコリではなくカフェオレの香りであった。
新井英一は群れから自ら外れた一匹オオカミ、そしてダンディであった。






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