想風亭日記new

森暮らし25年、木々の精霊と野鳥の声に命をつないでもらう日々。黒ラブは永遠のわがアイドル。

この世に君は

2009-10-30 00:46:53 | Weblog
犬相がいいでしょう、おひとよしです。
おいぬよしなベイビー、誰かのそばにいるとごきげんな顔してます。
一人では散歩しません。人が寄ってるところが好きだから必ず混ざります。
割り込みますね。





世話焼いてるのか、甘えているのか、世話焼きのほうです。



おい、だいじょうび? おつかれですなーとか言ってる。
言われた方はつられて笑って、疲れてないよーとなる。

でも犬よしばかりしてると、ほんとは疲れてるのは自分なのに
わかんなくてヘロヘロになって、足下がふらついていたりする。
うさこは、犬よしなベイビーに「ほどほどにね、ハウスに戻んな」と
せっつく現実的なおっかさんです。
だって犬がニコニコしてるからって、嬉しいんだ、とか元気なんだとか、
たいていは勝手な思い込みや勘違いだからね。

にんげんも、つきあいのよすぎる人はうちに帰ればぐったりしてるはず。
ベイビーは愛想をふりまいた翌日、ドカッと寝転んで動かない。
散歩の足取りもこころもち重くなる。もう若くない。
これからは細ーく長ーく、長ーく、みんなを愛してくれよ、な。
この世に君は一人しかいないのだから。

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深情けの恋

2009-10-29 01:20:05 | 
窓の格子越しに裏庭に流れる小川を見ている。
紅い、秋の盛りが水の縁にあってそこだけぽっと明るい。
なんだか置屋の窓辺に婉然と、でも少し哀愁をひきずってる姐さんを
思い浮かべたりして遊ぶ。
そのまま窓辺から眺めていると、妄想は広がるばかり、ほらいまにもそこへ
伊三次がやってきそうだ。
とすると、姐さんの名は‥‥? 鬼平犯科帳のことです、はい。
姐さんはちょっとした手柄を立てたりもしますが、あぶなっかしい可愛い女人。

この恋、袖を濡らさずには読めないけれど惹かれる。
ハッピーエンドよりも、実(じつ)のある深情けのせいだろうなあ。
「五月闇」は鬼平の数ある捕物の中でも忘れがたい話だ。
事の終わりが万事良しか否かよりも、恋が成就したかどうかよりも
そこに信があったかどうか、心に触れてくるのはそのことだ。
勝ち負けでも善悪でもなく、信があるかどうか、それがなければ話に
骨がないのと同じで流れてオシマイ、すぐに忘れ去る。
胸の奥深くにキーンと打ち込まれるくさびの痛みを感じたものは
悲しい話でもいい。
人が生きるのは、善のためでも勝つためでも何事かの成就のためでもないと思うから。
ただそこに、信があるか。
そのことが大事なのである。それが生きた証。
「五月闇」で伊三次を死なせたと、作者の池波正太郎はファンに抗議されたというが、
抗議するファンもまたそれが伊三次への供養と知ってのことではなかったろうか。
たかが物語の登場人物というなかれ。
鬼平のなかの密偵や同心、弱き女たちはすぐそばにいる者たちや自分自身の代弁者
である。

答え:艶っぽい姐さんの名は「およね」ですね、「猫じゃらし」で遊ぶのが趣味の女。
ご用心ご用心、猫じゃらしはつけられぬよう。
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憂い顔の童子

2009-10-28 10:12:31 | Weblog

タイトルは大江健三郎作の小説から。
好きな作品の一つだ。取り替え子の続編、三部作の真ん中にあって圧倒的に
ファンタジック。なのにリアルなのがいつものことだった。
ずいぶん前に読んだきりだったけど、親分の眉間をよせがちな顔をみていると、
憂い顔‥というのが浮かんだので書いたまで。

さらにもう一つの憂い顔、富士丸父ちゃん。
富士丸が亡くなったのを知らずにいて、大変に驚いた。(詳細は富士丸な日々へ)
そして、あまりの現実に他人事ながら打ちのめされる思い。
7歳は若いよ、富士丸くん、そんなに早く逝ってしまうなんて。
そばで眠るベイビーを思わず抱きしめた夜だった。
今はまだ悲しいだけだろう父ちゃん、送る言葉のサイトや送る会など
いろいろ用意されているけれど、ここから静かに祈ろう。
それにしても、デカイ犬だな、富士丸は。
やるなあ、富士丸は。

地上のあちこちに、デカイ犬、カワユス猫がたくさんいる。
気づいた人だけ、幸せを分けてもらえるんだな。
父ちゃんの悲しみが早く癒えますように。



芯詰め作業で、空が少しづつ広くなる。
枯葉が落ちて幹だけになるころには、遠く向こうの峰がもっと見えるように
なることを期待して。
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イモの中のイモ安納芋

2009-10-27 12:00:00 | Weblog
わけあってたき火。キャンプファイヤーの残り火ではないよ。
安納芋(あんのういも)を手に、こりゃありがたい、焼き芋できるわと思っているのはうさこだけ。
(種子島特産のサツマイモ、美味しいんだなあ。それがジャスコで売っていたのである、
めざとく買ってしまった、安いので不審だったけど)
今、紅葉まっさかりではあるが、年末へ向かって忙しくなるのでいまのうちにと
合間を縫って高くなりすぎた木を詰めている、芋を手にしたわたし以外の人たちが。
芯詰めとかいうらしいが、枝もおろす。
その葉をも燃やしているのである。



幹の太いところ、細いところと仕分けして積んでいく。
たくさんあったのに一日がかりでほぼ片付いた。
(前夜のすき焼き効果か?)



黄檗。きいろがきれい。
レモンイエローとか言いたくないけど、イチョウ色とかいいたくないけど、
黄檗はきはだいろ、か。うつくしいなあ、今年も。
赤ばかりではないね、きいろもきれい。気がつけば、去年と同じ事を書いていた。
この木が好きなのだ、好かれるね、あなた。
うさこだけじゃないよ、あの人も言ってたよ「ああ、この黄色いいですねえ‥」
しばらく立ち止まって。
あなたは知ってるか、そうだよね。見ているものね、佇む影を。

ベイビーは‥‥、火のそばを離れない。
芋番、か。
いや、遊びすぎておつかれなのさねえ。
そろそろ戸外は寒くなってきたし。




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赤く赤く赤く

2009-10-27 02:44:17 | Weblog

なんとも表現しがたく赤く染まってゆく紅葉、これは伊呂波紅葉だと思います。
その手前に山紅葉、そしてまた若い伊呂波紅葉。
三段重ねになって、それぞれに赤、赤、赤。

燃える火のように赤い、という言い方は違うな。
比喩は手あかがついているので、じっと見てほんとはどうかとじっと見て、
ああ、これは血の色だ。
するとカメがA型の赤、と言ったので、へーっとまた信じそうになってしまった。



カメの教えはシンプルなのだが、シンプルが一番難しいらしい。
らしいというのは頭のよい人々にということ。
うさこは頭のよくないタチなので、シンプルだとよくわかります。
すっごくわかります。
人はどこから来てどこへゆくのか。
どこへ帰るのか。
ひとのうまれでどころ。
そのことがわからないばかりに、そのことをはっきりとさせないばかりに
(いや、していたのだけれど)赤色をどう言えばいいのかということと同じに
ぴたりと言い当てられないから、もやもやとしてわからないようにしてしまった。
仏陀は確かに言ったはずだ。
けれども仏教では、仏典では、もうわけがわからないから輪廻転生でくるくると
あちらこちらへ行かねばならぬ事になって、それはなかなか信じがたい話。

けれどシンプルだと納得して生きやすい。
半物質、魂、物質としての肉体。人は神性と肉体という物質で成り立っている。
肉はわかるが神がわからん。
神を知らねば己自身をすべてわかったことにはならないわけで。
神は拝むにあらず、なのである。
神は知らねばならない。
知るために、学ぶのである。
本を読んでもダメ、話を聞くだけでもダメ。
生きることだ。
息して食って寝てだけではダメ。
生きることだ。

そこで、赤をじっと見つめて探していたのだった。
この色を何と呼べばいいのかと。


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紅く黄色くなってます

2009-10-25 16:31:01 | Weblog
秋がペタと張り付いたみたいに、切り取って貼ったみたいに
あります。

雑木に囲まれたここだけ、ポッと明るく紅く、黄色くなって
秋の様相をみせているのです。

周囲の木々も色づいて葉を落としはじめているのですが、
美しいというにはちょっと遠く、森のなかなのに生活じみて
いるのです。きっと誰も振り返らないだろう姿と色。
誰かがそこに足を踏み入れ、ああ、この樹は…と声をだし
そして毎日見上げ、樹皮に触れ、問わず語りを樹の下でする。
すると樹々は秋になり、装いに力が入り、ペタと絵を貼った
ように鮮やかに、切り取ったカレンダーの写真のように明るい
色彩を放ってくれるのかもしれないけれど。

浮き上がったように、ここだけ芝居じみて美しい。
なんだか、黙ってみていないで、敷物でも広げてすこし
宴でもやらねばすまないような、そういうことになっています。
生活のくたびれた気配が、すこしもありません。
人がいるのに、いないような。
いや、人がいて、そこで喜んでいるからでしょうか。
犬は年中変わりないようですが。
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パティ・スミスの声

2009-10-23 02:18:58 | Weblog
(パティは父親と実家の庭に植えられた木を眺めていた、嬉しそうに、とても!)

パティスミスのドキュメンタリー、ドリームオブライフ
吉祥寺のバウスシアター、レイトショーでまだやっている。東京は十月末迄。
他の都市にも順々に廻っていくだろうから見ていないなら追っかけてくれー。
今年もフジ・ロックフェスに登場したパティ・スミス、ボブ・ディランを
知ってる世代なら当然だけど、若い人にも多大な影響を与えてるだろう。



ブッシュを痛烈に批判するアジテーション、なのにパティが声を発すると
言葉は詩になり、詩は人々の心の奥深く突き刺さるように届いていく。
声は不思議だ。音魂。

戦争は環境破壊よ、と言っていた。
丸い特徴的な屋根が空爆で吹っ飛んだモスクの写真とそれ以前の金色に
輝いていた頃の写真を並べてみせる。
環境の中にはもちろん人々も含まれるのだけど、環境破壊と言った方が
人の正義心に訴えるアメリカという国の難しさ。
世界で一番戦争反対を叫ぶのが空しい国で、戦い続けるのは勇気というより
美学、詩人の魂なのだろうな。

かつてロックフェスでヒロシマナガサキのことに触れ、アイムソーリーと何度も
言ったパティ。バラク・オバマは直接謝罪するかどうかさえ曖昧でニュースの種なのに。
でもふつうのことを、ふつうに言っているだけなんだ、過激とかじゃなくて。
アジテーションよりもあまり上手でないギターで弾き語る声と
白髪のまじった長いほつれ髪と、A.ランボーの墓を抱擁しようとするパティと
いたずらな眼と子供みたいに遊ぶ姿に、ぐったりくるほどシビレる。

めんどくさがらずに観に行ってよかった(時間がなくてパスしようかと迷ってたから)
一緒に行ったシャンソン・シンガーのがくちゃんも深くうなづいていたなあ。
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演技賞、若いです

2009-10-22 00:15:00 | Weblog
凝りもせず、ジャンプ。



懲りてないのはあたいの方、親分はつきあってくれてるんだわ。



右手にカメラ左手を高く挙げて、これな~んだって言うとジャンプ!
でもなんにも持ってない。それがわかっても、ヘラヘラヘラしてる。
ぶれるし、うしろめたいし、もうやーめた。
親分だって、目が笑ってないね‥。
あとでオヤツあげます、ごみんね、犬かわいいですねって言われてサービス
なんて、柄にない、似合わない、慣れないことをするとこんなことになる。

せっかくの演技賞、フレームから外れてた、またまたごみんねー。
飛んでくれてありがとう、やわらかジャーキー1本贈呈。

眼鏡の度数が合わなくなってコンタクト作ったら、自分の顔がよく見えて
びっくり。こんなに老けてるって知らなかった。
ってアラフォーのMちゃんが騒いでるけど、それは何? 
中身が若いのに外見がそれに合わないっていうことにびっくりなの?
外身だけ時間が進んでるって驚きなの?
驚かなくてもいいんだよ~。たいていの人が心の中では青春。
親分の下あごが白くなっても青春! だから母ちゃんにつきあってジャンプ!
Mちゃんもときどきコンタクト外して遊ぶといいよ。
小じわなんか、見ない見ない。
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わらじ履きました

2009-10-21 00:27:00 | Weblog
最後かと思ってたのに、kazさんにいただいたバラがまた咲いてました。
あははは、今年はよく陽がさすからかな、嬉しーのでよしとしよう。
枝切りはまだ先でいいな、と欲張ってる‥。
で、この花をコブの旅立ちに捧げよう、陰ながら祈ってる。
これで最後にしよう、まだ若い株だからな。



もうここでかくれんぼもしないんだね。
おっかあの手を離れて、わらじを履いた君よ。
腹が減って、たまらんたまらん、もうダメさとなったらうちにくるんだよ。
おっかあも君くらいのときにそうやって親離れし、やがてへろへろになって帰ってきた。




それにしても、どこへねぐらを変えたのか。
シマコおっかあだけは一日一度の飯に縁側の指定席に現れる。
でもアバンチュールに突入しているのか、まったり昼寝する時間が激減した。
おいおい、また今年もかよ~、いいかげんに隠居しなせえよ。
イケイケのシマコがちょっと心配なのだ。
でもわたしよりたくましいことは確かなので待っているしかないのであります。
何かありましたらお呼びください、いつでもどこでも参りますって感じです、はい。
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しばらくは満室で

2009-10-20 00:15:00 | Weblog
いえ、この森の庭のことである。
宮司さんが来て「木はいらんかね」と言われるので、この通り、植える場所が
もうないのだよと作業中だったカメが奥の方まで案内した。
見渡して、「そういえばそうだなあ」と納得の様子で、じゃああれはどうかね。
‥‥、おもろい、次から次へ樹々の名が繰り出され、わからん。
だからさ~、満室だってばと虫する、いや無視して先へ歩くわたし、アハハハ。
あれやこれやと話して、帰りしな秋明菊はどや? で決まり。一株くれるぞ。
来年は紫木蓮で一件落着、白がいいと言ったら寒いからここじゃ咲かんよと言われた。
ほんとの用事は枯れ葉を吹き飛ばすためのブロワーをもってきてくれたことと、
カメにお話あってのことだった。うふふふふ、わたしゃ無用じゃ。



ここが空いてるじゃない? って敷地内のスペースがあるように見える処は間伐で
根っこまで掘り起こしたからだし、枝おろしも毎年しているからすっきりしているわけだ。
この数年で見違えるほど葉も幹も丈夫になってきている。
植えっぱなし、生えっぱなしでは育たないから。

森を歩いていると、ひょろひょろと細い樹がほとんどで下草も生い茂っている。
にっくき蔓性植物に寄生され、ぎゅうぎゅうと締めつけられ痛々しい。
手つかずの雑木林といえば自然の活気があるように聞こえるけど、実際はそうでもない。
陽あたりが悪くなった森はどことなく不気味で、活気とは異質な荒んだ力を感じる。
動物がいて、けもの道を人が遠慮しながら歩いて、季節ごとの恵みをさずかって
そうして森の調和がとれていくってのが昔からのつきあい方だったにー。
ほったらかしでは自然も活きない。自然自然って言うだけで、自然がわかっとるのかな。
森の中にも人の世と同じしくみや方程式のようなものがあって、それは共通しているような
気がする。理屈ではなくそう感じる。
自然がわからんで、神様お願いって拝んでもしようがないにー。

朝方ぼちぼちと歩き、あれこれ考え続けていると、ふいにドスっと音がした。
振り返ると親分が叢に脚をひっかけ、尻餅をついて起きたばかりだった!
ヘラヘラと笑って、すぐに出てきて駆け出そうとするが、脚が痛いらしい。
そんなにヘラヘラしなくても見てないよ~。
犬も照れるのである。
ヒールのある靴でふいにカクッと踵をねじったときのぶかっこうさに、
瞬間どうしていいか迷うここちを思い出したけど、どうしたっけ、わたし。
ヘラヘラしたんだろ、たぶんね。動物も人も同じである。

来客時、缶詰中のわたしはお茶も出さずに申し訳ないことであった。
いつもながら仕事しているとほかに頭が回らない、ぼんやりで困ったヤツ。
集中力が途切れないように無意識にシャットアウトしてしまうからなのだ。
ま、ここでならいいか、ということでごめんなさい。
三宅紅谷の蒸菓子、ごちそうさまです。
りんごもたくさんありがとうございました。
遊び遊びなんていいながらたくさん働いてくだせえませ。

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死ぬなかれ、草枕

2009-10-19 01:57:32 | Weblog
非人情的自然観賞の一日。
夏目漱石の「草枕」の冒頭から10数頁までにある画工の
なにゆえに喧騒を離れて旅するかの説。
そして、この中途半端な紅葉を満喫。
半端なれど人の憂える顔を思うことに比べればどんなに
マシなことか。

自殺しないでくれ。
ニュースがかけまわるので直接知らない人の自殺を知ることに
なる。熊本で父親が病死、30歳代の子ども二人が自殺。
子どもの頃の最初のアイドル、加藤和彦さんの死。
死、と自殺という言葉があっちにもこっちにもあって、
たまらないので、本棚から「草枕」を取り出したのであった。

死なないでくれ。
人の世の愚かと悲惨。人の想念にスイッチが入るとさらに
深まる悲哀。人情の河に溺れる。

スイッチの切り方がわからなくなる重症の死にたい病。
そんな時も目を開いて、自然の変わらぬ様に嘆息している間は
人の頭には何も浮かんではこない。人情は一休み。
ただ眺めているだけ。ただ時のなかに佇んでいれば心静まる。

借金があろうと、家がなくなろうと、命だけはとられない。
命が尽きるまで、生きてくれ。
生きつないで、欲から離れた世界を堪能してくれ。
それにも飽きたら、それからだって遅くない。
そしたら安堵して死ねるのだから。
でも地球の自然はでっかいよ。日本の四季はめぐるよ。
そう簡単に飽きやしないさ。

もうやりたいことがなくなった、なんて言わないで、
なんにもせずに生きるんだって楽しいのだから。
それを極楽極楽と言う人だっているんだよ。
知らないことがたくさんあると、まだまだあると、
空や木を見上げて、自分のことを忘れるといい。
死にたくなったら、自分から離れて、自分を捨てて、
命だけになって生きればいい。人は時に癒されるんだから。
自然は時、この国はすぐそばにある。

なまじっか自分を大事にしすぎると死にたくなる。
自分なんて捨ててしまって、生きていけないか。
りっぱじゃなくてどこが悪いと、生きていけないか。
長生きして、老人力をぶんまわして生きる。
ただ居るだけの人になって生きる。

それを試すまえに死ぬなかれ。





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蜜月

2009-10-17 00:05:00 | Weblog
空のペットボトルや小枝を投げると、ダッと走ってキャッチして
テイク、カム と叫べばもって来る。
また、投げる。走る。
くわえて持ってくる。投げて投げて、早く早くと催促する。
親分との遊び今はむかし、投げればクルッとからだの向きを変え、
走るフリだけしてシッポ振ってるんだわ。
お互い、歳とったんだ。シッポ振ってくれて、ありがと。



そんでもって、こっちに遊んでもらいました。
これもあと何ヶ月かなあ‥‥、じき道祖神かしちゃって、
こんなふうになっちゃうんだけど。(ガラス越しだと超接近しても安心のようです)

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時は流れて

2009-10-16 01:27:09 | Weblog
夏草刈りで積まれた笹がだいぶ乾いてきたので焼却した。
2/3くらい片付けるのに半日燃やし続けていたカメ、親分がそばでつきあっていた。
煙をさけて寝場所をあっち、こっちと移動しながら。

わたしはといえば、ゆく夏を惜しんでいるのだけど。
今年の夏は楽しかった、そんな気がしきりにして後ろ髪ひかれつつ秋を見ている。
何が? って聞かれてもあれこれとあげつらうのではなしに、なんとなく。
ほんわりと、アワアワとした楽しい感じが記憶の層の隙間から漂ってくる。
周囲の景色はすでに秋本番なんですけど~、けど~。

何がって‥あえて挙げればコレかなあ、アワアワした感じの素は↓



悲しすぎるところへ、明るい陽がさしている感じの歌を夜更けに聴いた。
YOU TUBE で検索して、iTuneでダウンロードするから古い曲もすぐに聴ける。
悲しすぎて、人は乾くんだなあ‥‥。
夜が明け、昼間になるとシラケて聴けなかったりするのもあるけど、
これはそんなことはなかったな。
中島みゆき「時は流れて」(アルバム「ありがとう」収録)70年代後半の歌。
聴いていたら当時のことが思い出されて、今こんなふうに過ごしていることを
あの頃は想像さえ、願うことさえできなかったなあ。
カラカラでありました。



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アキイロ

2009-10-14 01:15:00 | Weblog

伊呂波もみじ、そしてドウダンツツジ。
いち早く燃える秋色になって、日差しを受けてきらきらしてる。



あと二~三週間で木の葉は落ち、しんと静まりかえるのに、今はめいっぱい燃え立つ樹々。
立ち止まってじっとみてしまう。
秋は夏よりよほど元気をもらうのですよ、わたしの場合。

子どもの頃から秋が一番嫌いだった。
夏休みが終わってしばらくすると、憂鬱が始まって、そして暗い秋がやってきた。
何年もそれが続いたからオトナになって秋がうっとうしいのがあたりまえになって
理由さえ忘れていた。
思い出すとますます嫌さ加減が増すような理由だったので、ある日そうかと思いあたり
なおさらはっきりと秋が怖くなってしまった。
秋にはあたまからふとんをかぶって表に出ない、そんな気分。
11月から翌年の春まで、わたしは暗い子になってすごしたものだ。
オトナになった暗い子は行楽でにぎわう周囲を唾棄して眺めていた。

いろんなことが去ってしまって、今見る秋は命燃える季節。
ただそれだけ。
なにもかもすぎてゆくことを教わるんだな、森にいると。
そういえば初めてここへ来た頃は、おずおずとアキイロを眺めていたっけ。

心、しばられたままで生きるのはもったいないことです。


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日暮れまで

2009-10-13 13:00:00 | Weblog
あっ飛んだ!



赤い木の実を食べた君は、黄緑色の羽に被われていたね。
一瞬に羽ばたいて、木の葉のあいだをすりぬけて行ってしまった。

木の下で、待っている。
首が痛くなるほど、待っている。
見上げていたら、木の葉が君の黄緑の小さなからだに見えてきた。
思うと、形になって現れるらしい。
そんなことで遊んでいると、日が暮れてきた。

トーキョーのビジネスノヒトだった頃、日暮れを忘れていた。
ピンポーンという合図、どこかの屋上で鳴いている犬、
定時を知らされるだけで、そのころ日暮れはなかった。
キーボードかケータイか、どちらにも触れていないとき、ようやく眠りにつく。
日暮れのない日々に、だから朝もなく光の意味を知らなかった。
生きるのはつまらんと顔に書いて毎日でかけた。

光が目の前にあふれているのを知った日が、誕生日。




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