想風亭日記new

人里離れた森のなか、風の谷に暮らす日々と旧事フルゴトについて綴ります。クンクン親分こと黒ラブは一応、門番。

カピバラ君とぼく

2012-03-31 23:02:47 | Weblog
23:00 追記です。
ナショジオの本日の一枚の今日の写真右上です。
チョーかわいい、猿の家族写真!!!!
広島だそうですが、日本の森、だいじょうぶか?と、
かわいいと思った次の瞬間、やはり憂えます‥


毎日嫌なニュース。
群馬の川魚の放射能汚染はいまさら驚くものでもなく
昨年の3月に福島第一原発からどう風が吹き、放射能物質が
流れたかを思い出せば(忘れないならば)あたりまえの事だ。
観光業者や生産者には痛い話だが。
東電が補償するといっているのは昨年の売り上げ想定額だ。
昨年は風評被害ですでに売上げは激減していたわけなので
生産業者は過去数年の平均値で補償を求めたいとコメント
していた。

補償されるのはしかし、金の話だけだ。
どうやって森を、川をとりもどすのか。
魚だけでなくヒト以外の生きものの命は補償しないのか。
優先しているヒトについてもおろそかな現状であるから。
あ〜、こういう話はツイッターで十分なのに、ブログの読者
の方々には違う話をしたいのであるけれど。

1年を振り返って、さまざまなことが変わった。
自身の内側を省みても変わった。
変わらないこと、変わっていないことを、書いていきたい。
変、という文字よりも、易という字をあてられるような
本質的な事柄と、思いきり喜べることを。

そういえば楽しいという瞬間を喜んでいると勘違いしている
人が時々いるけれど、楽しいと喜ぶの間には大きな隔たりが
あるよ。深い深い川などあるよ。
楽しいのは解放であって、五感の震え。脳みその満足。
しばしのことで消えて、また欲しがるのであるよ。



楽しいことよりも、喜べることをしたいなあ。
喜んでいたいなあ。
そんなの無い無い、と手を振っているそこのチミ‥‥、
カピバラを乗せてるのは、何だと思う?
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高等数学ぴょん

2012-03-27 13:06:10 | 
算数がどうにか少しわかる程度の頭である。
数学など縁遠い。
聞いたところ、数学とは高等になればなるほど哲学に近い
ものらしい。
ならばうさこにもわからんはずはないと思ったりして、
数学の本を何冊も手に入れたけれど、あいかわらず算数に
手をやく始末‥哲学書はいくらでもするすると読めるけれど
数学書はどうも前へと進めないでツンドク本になっている。

詩を読むのを高等数学を解くのに喩えたのは茨木のり子、
「人の詩集を読むことはたいがいが苦渋に満ちた作業だ。
眉間に皺をよせ、頭痛なんぞも起こり、まるで高等数学を
解くような緊張を強いられる」(「言の葉2」茨木のり子著)
だそうだ。

他人の詩を読む行為は書いた人の思考と感情の跡を丹念に
辿ることで、そのうえ理解して共感しようとすることである。
確かに書かれている通り、簡単なことではない。
簡単に解る、つまり解りやすいと思って読んでいる時、
果たして解っているかどうか、怪しかったりもするし。

詩、つまり他人の心を理解することは高等数学の世界であると
思っていれば、あなどって安易にわかったつもり知ってるつもり
にはなりようがないし、おのずと身勝手もつつしまれるだろう。
先の一文にふとそんなことを思った。

わからんなあ、で始めて正解で、解ってると思うことは傲慢では
ないか、と思う。解ろうと努めて寄り添うこと、それがギリギリの
線で許されているのではなかろうか。

世の中とは秘めごとをたくさん抱えた人が寄り合って生きている。
算数だけで生きているとけつまずくので、うさこは古典文学を学んだ。
ところが古典、古伝書とつきつめていったら、そこにも数の世界があった。
嗚呼嗚呼、と再びけつまづいた。

そこで与えられた杖は、五常五行という初心者への手引きのような教えで
あった。杖の使い方はつきつめれば深い。
けれど杖は杖である。入りやすくじわじわと沁みてわかってきたのであった。
今も高等数学は知らないが、古伝の旧事本紀の数魂はそんなに難しい事
ではなくなった。むしろ、その杖と道なくして生きてはいけないくらいだ。
算数、勘定が苦手なわたしにとっては。

世界を表す「学」を数と言葉で知っていく日々、少しついた智慧で、ぼちぼち
と歩く。最近はよく涙を流す。涙はまだ涸れず、乾いては流れる。
知ることは悲しきこと、でもあると知らされる。

親分は日向散歩で、足よろよろ。彼はけっこう智慧者です。


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日向で笑う

2012-03-26 13:42:29 | Weblog
陽が照って、小雪もちらちら舞う、みちのくの春はいつも
こんなふうに始まる。



猫も来た。



ネコヤナギも咲いた。

江戸とカメが命名した彼女はシマコの子で長らく向かいの道場の
縁の下で暮らし女っぷりを上げて想風亭の縁側へ顔見せしてくれる
ようになった。
ネコヤナギはうさこが師匠と呼び親しんでいる青山長者丸通りの
花屋で数年前に買ったネコヤナギの枝を挿し木して育て、それを
山へ運び庭へ移植したものである。
猫もネコヤナギも、どれもこれも、カメが育てた。

育てるヨロコビとはどんなものであろうか。
わたしはまだ育てられるヨロコビしか知らない気がする。
父に、母に、世間様に、育てられて、カメ先生に叱咤され守られ
育てていただいた。
育てられた恩を、返さねばならない歳にとうになったのである。

原発爆発から一年が過ぎ、命が危うくなってしまった。
育てるヨロコビを奪われようとして、望まぬ闘いに巻き込まれ
再び春が巡ってきた。

春が巡ってきた。
春が巡ってきた。
春が巡ってきた。

生きていることが、うれしくてたまらない。
命がいとおしくてたまらない。
命とは、いったい何であろうか。
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悲しみを知るとき

2012-03-20 23:01:00 | Weblog
(まんさく、この花を見るとあの方を思い出すなあ、冬を
越えて咲く花です)

自分が正しいのか間違っているのかは別として、とにかく
わたしわたしわたし、と無意識に思っている幼稚な時代を
経て少しづつ、わたしわたしの恥ずかしさを知っていく。
そして「わたしのまちがい」にも気づく。
他人と同じように自分にも正しくないことがあることも
思い当たるようになって、わたしだけが正しいという思い
にちょっとずつ「そうかな、はたして」という疑問符も
つくようになる。

そうしたことを重ねながら成長していくのだが、
正しさを知ったまだ若い日に、とかく正しくないことが
目につくようになる。他人がボロを出す、他人のアラ、
それが見えてしまう。見えれば言いたくもなり正したく
もなる。自己主張に過ぎないとは気づかないから、相手
を正している気になって、いい気になって、悪いことに
立ち向かおうとする。

簡単には落ちない「悪いこと」に立ち向かって一生懸命に
なって、でも負けてしまうことだってある。
いや、たいていは負けるのだ。負けてしまっても自分の
正しさが傷つくわけではない。正しい正しいという思いは
よけいに強くなって、その分、悔しさも倍増していく。
憎しみは、悪に対してではなく、悪を行った人に対してで
ある。正しいのに憎しみも同時に抱え込んで養っていく。
そのこと自体も正しさの中にとりこんでいく。

生きるとはヨロコビと残酷が隣り合わせだ。
悪は悪のまま、悪を正すことなどできないことをいつか
思い知らされる日が訪れる。
悪がこの世から消えてしまうことなどないことを。
善があるように、悪は同じ分量でありつづけることを。
正しさを選んだ「わたし」がほんとうは悪なのか善なのか
きめかねる迷路に彷徨い込んでしまう。

目の前にたちはだかる悪を知るとき、それは失う悲しみにも似て
力いっぱい正しさを主張する無邪気さの喪失。
黙りこむ。正しくあることは秘め、黙って、静かに歩く。
もう「わたしわたしわたし、わたしは正しい」と叫ばない。

折り合いをつける要領を世間に学びながら、けれど良心を失わぬ
よう、魂を売らぬよう、悲しむほうを引き受けるのだ。
それが最低限の、人である条件だと思うからである。

黙ったまま、悪にまみれたくはないと、懸命に心砕く夜。
朝を迎えても足取りは重い、けれど陽射しの温かさにふと気づく時
ああ、生きていると「わたし」を愛おしむことができる。
恵まれて生きていると、笑うこともできる。




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聖と春

2012-03-20 13:30:15 | 
山では春近し、と言いながらのなかなか春は遠い。
でも一日づつ風は温もりを増していき、努力などしていないのに
一日づつ歩んでいる気にさせてくれて、ありがたい四季の春だ。

古井由吉の「聖」を読む。
ほんものの聖ではなく、行き倒れ寸前の乞食をヒジリ様として
囲う村人と青年の話。物語を読む楽しみがなくなるので筋は
書かずにおこう。昭和51('76)年という時代を感じながらも、
いつの時代にもどんな国でもありそうな、普遍的な人間の話で
いかにもありそうな事なのだが、ありえない話でもあって、
その実、こういうことはあるんだよなあ、という小説である。

帰り道、山の端に沈む夕日をスマホのカメラで慌てて撮った。
よく似たような景色を背景に「聖」は描かれていた。
わたしは山里からさらに奥地へ、ほんものの聖の場所へと
帰っていく。
(いえ、わたしゃ聖じゃなくてただのうさこなんだが縁あって
いさせてもらってるわけで‥ほほほ、帰り道は急ぎ足です)
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