無風老人の日記

価値観が多様化し、自分の価値判断を見失った人たちへ
正しい判断や行動をするための「ものの見方・考え方」を身につけよう。

検察は正義の味方(国民の味方)ではない!

2010年02月02日 | Weblog
このところ、日刊ゲンダイの記事引用が続く。
それほど、他のテレビ・新聞等にまともな記事が見当たらなくなったのだ。どの記事どの報道も批判の対象となるものばかりで例に挙げていたら切りが無い。

でも一つ例を・・・名護市市長選で反対派市長が当選した時の朝日新聞の一面トップの大見出しは、

普天間移設、より一層困難に

国民はこういった記事を当たり前のように受け入れている。この見出しの問題点をよく考えてみてください。これはまた別の機会に書く。
これと同じ様に、国民は「検察は正義の味方だから、検察が逮捕したら逮捕された人は“悪人”」と思ってしまっている。

さて、私は誰でも皆に分かってもらおうと思って成るべく簡略に易しい言葉で書くように努めている。
その点、今回の記事は読み辛くとも是非我慢して完読してほしい。今日のタイトルで言っている事が下記の記事で分かってもらえると思うからだ。


(日刊ゲンダイ2月2日号に掲載された魚住昭氏・現ノンフィクション作家の記事引用)

国家権力の中枢にある検察とは、一体どんな組織なのか。…(略)・・・

薩摩・長州出身の官僚や政治家が権勢をふるった明治時代、検察や裁判所を統括する「司法省」は土佐藩や肥前藩など非主流勢力が中心の三流省庁に過ぎませんでした。

明治21年、帝国大学から司法省に入った平沼騏一郎(後に検事総長→首相)は、自身の回顧録で「当時司法省と云えば、各省の中で一番馬鹿にされ」「役に立つ者は行政庁にゆき、役に立たぬものが判事・検事になって」いたと述べています。

その三流官庁が台頭する契機となったのが、明治42年に摘発した「日糖事件」です。
検察は20人の政治家を逮捕し、政界を震撼させた。
翌年には「大逆事件」で幸徳秋水ら社会主義者を一斉に摘発し、12人を死刑にします。
この大逆事件は後に、一部を除いてデッチ上げと分かるのですが、それはともかく、検察は「政界汚職」と、皇室にかかわる「公安事件」を摘発することでその力を世に知らしめ、一流官庁への脱皮に成功したのです。

平沼自身が「司法部が世間に憚られるやうになったのはこれ(日糖事件)からである」と述べています。

その後も「シーメンス事件」で海軍に手をつっこみ、「3・15事件」では共産党を一斉摘発。

平沼を中心とする検察官僚群は、日糖事件・大逆事件と同じやり方を繰り返しながら、政財界や他省庁への影響力を増していきます。

その検察権力の露骨な暴走によって引き起こされたのが、昭和9年の「帝人事件」(帝人株売買をめぐる贈収賄事件)です。

検察は「俺たちが天下を革正しなくては、いつまでたっても世の中は良くならぬ。腐っておらぬのは大学教授と俺たちだけだ」と、青年将校さながらに独善的な正義を振りかざして突っ走った。

その姿は今の検察と重なって見えます。

実は、この大規模な政界汚職はでっち上げでした。そして、その裏には総理の座をうかがう平沼騏一郎の野望があったといわれています。
結局、帝人事件で起訴された政治家ら16人は3年後の東京地裁の判決で全員無罪。事件は検察が作り上げた空中楼閣だ、と断定されました。

しかし、この間に、当時の斉藤実内閣は総辞職に追い込まれた。

検察が、捜査権の恣意的な行使で時の内閣を倒したのです。

この時「検察ファッショ」という言葉が生まれました。

そして昭和14年、平沼は念願の首相に就任したのです。

戦前の軍部が「統帥権の独立」を掲げて暴走した話は誰でも知っています。
しかし暴走したのは軍部だけではありません。

検察も「司法権の独立」を旗印に政党政治を壟断し、思想・言論弾圧に猛威を振るったのです。・・・以上、魚住昭氏の記事引用終り

ここまで書いて「投稿」を押してしまった。続けようと思ったが、小出しにするのも悪くないか、と思い直し、そのままここで終わらせることにした。

今日は国民は「検察は必ずしも正義の味方ではない」ことを頭において物事を見てほしい、という事を言いたかったのです。

それじゃ、またね。



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