![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3f/ac/fe63c241c62612526429396ea8c5461f.jpg)
世界的ベストセラー『悪童日記』三部作の著者が初めて語る半生。祖国ハンガリーを逃れ難民となり、母語ではない「敵語」で書くことを強いられた、亡命作家の苦悩と葛藤を描く。
堀茂樹 訳
出版社:白水社
『悪童日記』の作者、アゴタ・クリストフの自伝である。
彼女の作品のファンとしては、『悪童日記』三部作や、『昨日』の原点がどこにあったのかを教えてくれて、非常に興味深く読むことができる。
だが、本書はそれ以外の人にも楽しめる作品になっていると思うのだ。
内容としては、あとがきを含めても、百ページ超という程度で、紙数は少なめである。
しかし語られている内容は、恐ろしく深い。
それは、自伝であると同時に、言語をめぐる、静かな戦いの記録であるからかもしれない。
解説でも触れられていることだけど、言語はその国民のアイデンティティと密接に結びついている部分がある。
たとえば日本語の場合、その文章が肯定か否定かは、文末になるまでわからない。
そしてその言語法は、ある面では、あいまいを好む日本人の物の考え方を決定している部分がある。
つまりは言語が、その国民の国民性を決定しているとも言えるわけだ。
そしてアゴタ・クリストフはそんなアイデンティティの基盤とも言える母語を、ハンガリーから西側諸国への亡命という形で喪失することとなってしまう。
元々著者は読むことが、病的に好きな人だった。また読むだけでなく、嘘話をすることも好きだった。
そんな人が言語を失うということには、非常に大きな意味合いがある。
それは自分を規定するものと、自分の愛するものの両方を奪われるのと、同義だ。
彼女は亡命をしたことで、「ひとつの国民への帰属を永久に喪った」とまで語っている。
それに加えて、言葉まで失ってしまえば、その苦痛は計り知れない。
そんなアゴタは亡命先で、(選んだわけではないのだけど)新しい言語であるフランス語を学ぶこととなる。より正確に言うなら、学ばざるをえなくなる。
しかしそれによって、彼女のアイデンティティが、亡命前の状態にもどしてくれるわけではない。
それは彼女がフランス語にまだ「習熟していない」ことが大きい。
では、ハンガリー語にもどれば、アイデンティティが回復するか、と言ったらそうもいかない。
亡命先では、ハンガリー語を使う機会が少ないし、何よりフランス語圏で生き続けることによって、フランス語が「わたしのなかの母語をじわじわと殺しつつある」からだ。
この状況は、あまりに絶望的でないだろうか。
それに、亡命先での絶望は、言語の喪失だけに限らないのだ。
アゴタたち、東側諸国の人間は、スイスで暮らすようになって、生活的には豊かになった。
けれど、そこで待っていたのは、単調な労働でしかなかった。
それはアゴタたちにとっては、人間の尊厳を奪う時間であるのだ。
彼女たちは国家に対する帰属を喪い、言語も喪うというアイデンティティの危機に直面した。そしてさらなる喪失として、生きる楽しみまで奪われる。
アゴタが指摘するように、それは精神的な「砂漠」だ。
そしてその状況に耐えられず、彼女の仲間のうちの何人かは「同化」もできず、自ら死を選ぶ者もいた。
その状況を、日本人の僕はどれだけイメージできるだろうか、自信がない。
だがそこには僕の想像力の及ばない、形にならない絶望だけがあることだけははっきりと伝わってくるのだ。
だけど、そんな状況でありながら、アゴタはものを書くことにチャレンジをした。
彼女は自分のフランス語が完璧でないことを知っている。自らを表現する手段は制約されている。
それでも彼女は言語を用い、書くことを選択する。
「フランス語で書くことを、わたしは引き受けざるを得ない。これは挑戦だと思う」とも語る。
それはきっと業なのだろう、と読んでいて僕は思うのだ。
自らが文盲者と知りながらも、拙い言語を駆使して、文を通し何ものかを表現したい。たとえ絶望の中にあっても、絶望の中にあるからこそ、何ものかを描いてみたい。
そんな作家らしい欲求を僕はその言葉の中に見出した。
それはどこか悲壮でさえあって、忘れがたい。
本作は実に短い作品だが、内容も劇的であり、同時に一人の人間の熱い思いも仄見える。
短くとも密度の濃い優れた自伝である。
評価:★★★★★(満点は★★★★★)
そのほかのアゴタ・クリストフ作品感想
『悪童日記』
『昨日』
『どちらでもいい』
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます