青年将校ヴロンスキーと激しい恋に落ちた美貌の人妻アンナ。だが、夫カレーニンに二人の関係を正直に打ち明けてしまう。一方、地主貴族リョーヴィンのプロポーズを断った公爵令嬢キティは、ヴロンスキーに裏切られたことを知り、傷心のまま保養先のドイツに向かう。
激動する19世紀後半のロシア貴族社会の人間模様を描いたトルストイの代表作。
望月哲男 訳
出版社:光文社(光文社古典新訳文庫)
僕は基本的に小説を読んでいるとき、テーマ性を探しながら読んでしまうくせがあるのだが(すべてではないが、難解な小説ほどその傾向が強い)、この『アンナ・カレーニナ』という作品においては、あまりそのような読み方をしなかった。
人それぞれ受け止め方は違うだろうが、僕の場合、『アンナ・カレーニナ』の魅力は、結婚に関する考察のようなテーマや、解説で触れられているような小説の構造ではなく、登場する多彩な人物たちの接触や衝突が生み出す、感情の機微やドラマ性にこそある、と受け取ったからだ。
そのドラマ性を生み出す上で、キャラクター造形が大きな力を果たしていることは言うまでもない。
全4巻ときわめて長く、学生のころ挫折したこの作品を、今回楽しんで読むことができたのは、半分はそのようなキャラクターの力があったからだ、と思っている(あと半分は訳が優れていたからだ)。
特にリョーヴィンの存在が光っている。
このリョーヴィンという人は理想主義者であり、行動主義かつ実利主義者というちょっと変わった人だが、時として偏った意見を語ることもめずらしくない。
以前読んだ21歳くらいのころの僕は、そういう点がムカついてならなかったのだが、しばらく付き合ってみると、これはこれで愛らしい人物だということに気付かされる。
リョーヴィンは、家庭生活に関してはオブロンスキーとは違って堅物であり、自分に自信がないせいか、なかなかキティに告れない。田舎では農業に精を出しているが、青臭さ全開で作男たちと折り合いがつかない。結婚すれば、もっと嫁を信じろよと言いたくなるくらい嫉妬するし、嫁への愛は伝わるものの、視野狭窄だなと感じる面もないわけではない。はっきり言って、彼は欠点まみれだ。
だがそういう未熟で、うぶで、寛容さのないところが、読んでいるとかわいらしく思えてくる。
ゼムストヴォの意見の辺りは、僕には受け入れがたいのだが、それでも彼なりに考え、ゆらぎながらも結論を出そうとしており、誠実である。要は根はいいやつなのだ。
読んでいると、仕様がないな、と思いながら、彼を応援したくなってくる。
そう思わせるキャラクターをつくり上げたトルストイの手腕は見事な限りだ。
それ以外のキャラクターも魅力も欠点も含めて、丁寧に造形されていて、生身の人間のような手応えを感じることができる。
たとえば、もう一方の主人公アンナの造形はどうだろう。
彼女は夫との関係の平坦さに嫌気が差して、情熱に駆られるように不倫の恋に溺れていく。その姿はさながら『ボヴァリー夫人』のようだが、不倫後も社交界に行って無礼な目に合うというエキセントリックな側面や、女として恋に溺れても、母である自分を捨てきれないという部分を作り上げていくことで、ボヴァリー夫人以上の強烈な個性を感じさせてくる。
またその後、せまい社会に追い込まれ、ひたすらヴロンスキーを嫉妬する執念深さは強烈であり、彼女の鬱陶しさも忘れがたいものがあった。
他にも、いかにも娘らしかったキティが、結婚してから彼女なりに強さを発揮していく様も印象に残っている。
特にリョーヴィンの兄、ニコライを看病するエピソードは胸を打つものがある(個人的に一番好きなエピソード)。相手本意に考えるという姿勢に、彼女の人間的魅力のすべてが表れていたと思う。
また、ヴロンスキーの享楽的で情熱性も持ち合わせているが、男として一人立ちしたいという功名心に燃える点もすばらしい。
オブロンスキーの家庭を顧みないという欠点はあるものの、人当たりもよく、細やかな気配りができる点もおもしろく読むことができる。
カレーニンの現実から目をそむけ、体裁を重んじるという弱さを見せつつも、彼なりに妻のことを考えている点は個人的にはツボであった。
そんな多彩な人物群が生み出すドラマ性の豊かさは何よりも魅力的だ。読んでいる最中は浸るように読み進むことができる。
だが統一したテーマ性が見えない、というか見ようとしなかったために、長いわりに、物語の奥底から訴えかけてくるものが少ないという点は否定できない。まあ僕のせいなのだが。
そのため、後々まで残るほどのインパクトはないのだけど、本作が抱え持っている物語の豊かさは一級品であることは確かだろう。
やはり挫折した作品をほったらかしにするのは良くないと、改めて思い知らされた次第である。
評価:★★★★(満点は★★★★★)
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