外国語学習の意味、そして母国語について考えましょう

社内公用語の英語化、小学校での英語の義務化など最近「英語」に振り回され気味ですが、何故、どの程度英語を学ぶか考えます。

英語教育は国語教育に基づくべし

2017年01月09日 | 英語学習、教授法 新...

英語教育は国語教育に基づくべし

(2018年10月 小見出しをつけました)

英語教育は国語教育に基づくべし、とは私の語学教育論の根幹をなす考えなので、これからも、形を変え、対象を変え、さまざまに論じたいと思います。ここでは、これからもしばしば戻ってくる基本的な考えを祖述しておきたいと思います。

英語 高校

英語の先生は国語を破壊する...

以前、私の英語スクールに高校の英語の先生に成り立ての方が「教え方」を学びに通ってこられていました。その先生の言われることには、「学校では、国語の先生と英語の先生は概して仲が悪い」そうです。国語の先生は、英語の先生について、「生徒の日本語を破壊している」と言うとか。なるほど、「英文和訳」の時間に、関係詞(relatives)が出てくると、「~ところの」を使って「訳し上がる」というようなことを模範訳として聞かされていると、生徒の頭には相当なストレスが蓄積されるはずです。「~ところの」が耳について、作者が何を言おうとしてるかには、意識しないうちに関心を薄れさせると思います。「その知らせが彼女を悲しくさせた」というのも、日本語でしょうかね、との疑いから免れません。だいいち、「彼」とか「彼女」というのは何でしょう。英語を訳す時以外は、ちょっと変わった意味でしか使わないでしょう。そう聞いて、「あ、そうか」と、ここで気がつく人もいるかと思います。それほどまでに、英語の時間の日本語というものが独特なものになってしまっているのです。国語の先生の指摘はおおいに当たっています。

国語 教室

英語も国語も言語

しかし、考えてみれば、いや、考えなくても、国語も英語も言語であるという点で共通しています。教科として、英語と数学の距離と、英語と国語の距離を比べてみれば、英語と国語の距離の方がずっと近い。化学と物理の距離のように近いところにあるのです。化学の先生と物理の先生はたぶんそんなに仲が悪くはないです。先生が足りない時は、ときどき交代して教えることもあるでしょう。国語と英語の関係ではありえないことです。

たしかに、ありえないことではあります。その理由はあたりまえなので、述べませんが、ときどき、同じ「言語」を教えているのに、仲が悪いとういのは問題だな、という考えが脳裏をかすめることはないでしょうか。

日本語から英語に「移る」

英語を学習するという行為はどいういうことか。それは言い換えると、「日本語から英語に移る」ということです。だとしたら、英語を教える場合、日本語、つまり国語についての理解を伴うのが当然です。しかし、母国語であるという気安さで、英語の先生は日本語に対するセンスが乏しくなっている、とういことはないでしょうか。教える際、英語の概念、構造を、日本語との関連を考えつつ教えるとういことが少ないのではないか。

英語 日本語 母音そうですね。いろいろな分野で例示することでできますが、母音だけで、日本語は5つ、英語では13(16)あるという違い。単数と複数の峻別が英語では基本であること、英語の疑問文では、日本語には見られない語順の移動があること、いつくかの面で語順が英語と日本語では逆になること、動詞の形が時と現実性の有無で変わること、などなど。

このように、一般的に、外国語学習において重点を置くべきは、母国語に対応する表現がないところですが、教える側、あるいは教科書やカリキュラムを組む側が、それを十分理解し、「理論化」して教える必要があります。それは、直接、生徒に「英語の複数形には語尾にSをつけます」と言うことでなく、適切な間隔をおいて、くり返し、しかもしだいに、複雑で、間違いやすい文脈で扱うように「仕組む」ということです。「日本語にない点」は、くり返し間違え続けます。

このような「理論化」を行うためには、英語の教師は、「英語に堪能である」ということだけではなく、日本語と英語の双方の相違点、そして、同じ点について、かなり意識的である必要があります。「日本語から英語に移る」というのはこういうことを指します。慧眼な読者は、native speakerのインストラクターだけでは不十分というのは、こういう点だなとお気づきになったことでしょう。

通じない

言語は伝えるため

さて、さきほど、「英語も国語も同じく言語だ」と述べましたが、どういう意味で同じと言えるのでしょう。言語は、他者の言うことを理解するため、他者に自分の言いたいことを伝えるために、用いられるということです(言語の本質については別の議論もありますが)。それは国語でも英語でも同じことです。

そのため、習う側に理解したい、伝えたいという意欲がないかぎり、英語学習も国語学習も、とてもうすっぺらなものになります。そこで、理解する、伝えることの切実さを体得する、ある段階に導くことが、英語でも国語でも、重要な課題となります。しかし、そこまで考えて英語教育が行われているかというと、まだまだ不十分ではないでしょうか。英語や、国語の教科書を最初に目にした時、これが、他者を理解するため、他者に伝えるためのガイドだと思う人はまずいないでしょう。試験を突破する関門だと考える程度です。

しかし、うっすらとでも、他者との意思疎通が言語学習の意味だという直観をある段階で感じ取っていたとしたら、大学入試に合格したり、TOEICで900点を取って、学習をストップさせたとき、何かおかしいという意識に苛まれる場合は案外多いのではないかと思います。じつは、私どもの英語スクールにお出でになる方にはそういう意識をお持ちの方が多いです。

(さて、ここで、原稿がインタネット接続が悪く消えてしまいました。結論を急ぎます)

理解する、してもらう嬉しさ

他者を理解すること、他者に理解させること、これが、英語、国語を通じて語学の勉強の柱です。それは並大抵のことではありません。しかし、「分かった」、「通じた」という嬉しさを経験する段階(あとで間違っていたということが分かったにしても)は、英語学習においても国語の学習においても決定的に重要です。その段階に導くという点において、英語の先生と国語の先生の違いはまったくありません。ここで、英語の先生と国語の先生は、志を同じくすることができるのではないでしょうか。

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藤原 桜井以上、後半、インタネット接続が悪く不十分な記述になってしまいましたが、それはおいておいて、説明がかなり抽象的になりました。ある程度、私と同じような経験をしていない方には分かりにくいと承知しております。徐々に具体的に論じたいと思います。体系性を持たせて、英語教育方法論を提案する方向に向かうつもりです。

次回、「他者の意識が乏しい」ということが、語学学習の最大障害ではないかという仮説につじて述べます。未定

● 一番下の写真は、櫻井よしこさんと、小学校英語教育反対諭の論客、御茶ノ水大学教授、藤原正彦さん。

 



 

 


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