クワトロ郎

人生の彩りをアレコレ描いたり、歌ったり、知恵しぼったり、
牛乳しぼったり、  ん?  てな具合で
オヤジギャグ三昧

生きる:飛鳥野の里ボランティアコンサート 3/16

2013-03-17 01:37:07 | 雑感
今年は、唱歌を皆さんと一緒に歌うことにしており、今月で3回目だが、今日、職員の方から、歌うことで入居者のかたがたが生き生きとしてきた、と伺った。やはり、受動的に聴くだけよりも、能動的に歌うほうが、心(意志)と体(口、舌、あご、肺、目、首)を働かせる分、「生」が動き出すのだろう。期待通りでほっとしている。

この「生」ということについて改めて考えてみた。

入居者の方々は、たまたま老人ホームに住んでいるだけで、「生」という意味では、その外にいる人と変わりがあるわけではない。人生の終盤で、体は弱り移動能力は極小である。記憶力と思考力もかげりが見えてくる。活動時間も一日の中でその割合は減ってくる。感情の発露やそのコントロール能力も減ってくる。しかし、その不足分を職員の方々が肩代わりしているだけで、生きていることでは変わりは無いのである。

しからば、ボランティアとか称して行ってはいるが、それは、ホームの玄関をくぐった時に、そこに異世界があるわけではなく、自分の住んでいる世界とまったく同じものがあるだけである。

ここで生きている人間が、そこに生きている人に会いに行き、同じ時間を共有するだけである。「ボランティア」とあえて、呼ばなくて良い気がする。

はてさて、「ボランティア」というと、私には忸怩たる思いがある。

個人的には、アリバイ作りなのではないか?自己正当化、あるいは自己満足?という疑問がいつも付きまとう。少なくとも、自由に、健康に、仕事もあり、家族・友人もいて、金銭面でも特に困窮するほどではなく、趣味も持てているが、自己完結しているだけで、そこに何か意味のある価値があるのか?という疑問が付きまとう。そして、それに対する苦し紛れの答えが、この「ボランティア」なのではないか?

対人的には、この「ボランティア」をやっているということが、優越感を醸成し、なんとか他人との社会生活を送りやすくするための枠組みを築けているのでは?

という、自己欺瞞をいつも感じていた。

感じつつも、肯定的に次のように考えるようになったのは、最近のことだ。

ボランティアとは、同情ややってあげているという自己満足の押し売りではなく、ある尺度で見ると制限の程度の差があるもの同志(弱者と強者)が、同じ地平感、一体感のもとに、その差を越えて、この一瞬を一緒に共有しているということである。そのこと自体に価値を見出している、見出していたいと考えている。

たとえば、老人ホームでは、体や心の制限の差があるものの、ただ集まったもの同志が一緒に歌うという喜びを共有するだけである。

たとえば、交通遺児への援助は、経済環境の差だけで学ぶ機会が得られないという状況を解決したいという共通の思いである。学びたい者と、学んでほしいと思っている者の学ぶことへの熱意・欲求である。

たとえば、紛争地域でたずさわる医師団への援助は、戦地でも平和な国でも、体さえ健康で、怪我や病気の心配が無ければ、どんな困難にもまずは取り掛かれる、という共通の願いである。

たとえば、盲導犬への援助は、文字通り暗黒の世界に光をもたらしてくれるものである。我々健常者が見る太陽の共有化である。

狭い意味のボランティアに限らなくても良い。

自分が生きるうえで関わる全ての人々を対象としてよい。

「共に生きる」ために、自分で出来ること、それは、自己欺瞞ではないと胸を張ろう。