超芸術と摩損

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地雷・不発弾「26万発」を処理した「日本のハート・ロッカー」  ジャーナリスト 松本利秋

2010-05-16 05:37:55 | 週刊誌から
 カンボジアやラオス、アフガニスタンで汗を流すわが国の自衛官OB。彼らが中心のNPO(特定非営利活動法人)が、8年間で26万発もの地雷や不発弾を処理した。国士舘大学講師でジャーナリストの松本利秋氏が、「日本のハート・ロッカー」の活躍をリポートする。

 今年3月、映画の米アカデミー賞で、作品賞や監督賞など6部門の賞を獲得したのが、米軍占領下のイラクで爆発物を処理する米兵の姿を描いた『ハート・ロッカー』(キャスリン・ビグロー)である。
 映画では主人公が重そうな耐爆服に身を包み、バグダッド市内に仕掛けられた爆弾の位置を確認し、素手で信管を外していく。40℃を超える熱暑の中、戦車をも吹き飛ばす爆発物に立ち向かう人間の息づかいや緊張感が伝わり、見ている方も息苦しくなる。
「ハート・ロッカー(hurt locker)」とは、「爆発で不具になった人」「そうなってもおかしくない危険地帯」などを意味する米軍の隠語だが、
「映画の緊迫感は痛いほど伝わってきました。この仕事は、まさしく私が長年やってきたことですから」
 と語るのは元自衛官の鈴木昭二さん(73)。1990年に3等陸佐で退官した鈴木さんは、その半生を不発弾処理に捧げてきた。宮城県築館高校を卒業後、陸上自衛隊に入隊。太平洋戦争のときに米軍が日本に投下したものの爆発せず、戦後も地中に埋まったままの不発弾を数多く処理してきた。
「米軍の空襲では最も標準的と言われる500ポンド(重量は約250㌔)爆弾を265発、大型の2000ポンド(約1㌧)爆弾は40発くらい処理しました。他の小さい爆弾にいたっては数え切れないほどです」
 と鈴木さんは言うが、もし500ポンド爆弾や2000ポンド爆弾が処理中に爆発したらどうなるのか。
「髪の毛一本すら残りません。木っ端微塵になりますから、爆発させないように自分の技術や能力を高めるしかない。怖くないといえばウソになる。怖いですよ。怖いからこそ、私はチャレンジしてきたんです」
 鈴木さんが、外国の不発弾処理の関係者に、爆弾の信管を手で外してきたと説明すると、
「ミスター鈴木はクレイジーと呆れられます」
 戦後、日本の不発弾処理を管轄していたのは旧通産省だった。実際の処理に当たったのは旧軍の爆薬技術者や米軍の爆発物処理隊である。端的に言って、不発弾処理で極めて重要なのが、爆弾から信管を外す作業だ。
「米軍の処理班は、少量の火薬を使い、爆弾から離れた位置で信管を破壊する作業をします。成功率は82%。残りの18%は失敗。過去に米軍が500ポンド爆弾の処理で新築の2階建てを2棟吹っ飛ばし、東京都が補償したこともありました。米軍にとって、しょせん日本は戦場なんですね」
 陸上自衛隊に不発弾処理隊が創設されたのは1958年である。
「それまで米軍に頼んできたことを、自分たちでやろうという機運になり、自衛隊に5個の不発弾処理隊が創設されました。私は志願し、練馬駐屯地の処理隊に配属されたのです」
 自衛隊は米軍の処理法を学びながらも、独自のやり方を開発していった。
「私たちは間違っても爆弾を爆発させないために、目でしっかり確認しながら、手で信管を外しました。自国で被害を出してはならないのです。不発弾が発見されたら、現場に急行し、2人1組で作業をします。1人だとミスする恐れがあるので、もう1人がチェッカー役になる。自衛隊はこの方法を貫き、1度たりとも失敗はありませんでした」
 退官間際の3年間、鈴木さんは陸自の武器学校で弾薬科の教官を務めた。その後、民間企業に再就職したが、特定非営利活動法人「日本地雷処理を支援する会(JMAS)」が設立された02年5月、再び現役時代の知識と経験を買われ、地雷や不発弾の処理に当たることになったのである。
 彼は同年6月、JMASの「不発弾処理専門家」としてカンボジアに渡った。
「向こうに行きますと、足や手のない人がいっぱいおるわけです。みな地雷や不発弾で怪我をしている。これを取り除くには、技術のある我々がやるほかない」

 鈴木さんは自ら地雷や不発弾の処理をして見せるだけでなく、現地で要員の教育にも当たった。政府系組織「カンボジア地雷処理センター(CMAC)」から派遣された職員に、“自衛隊のやり方”を伝授した。
「カタコトの英語と現地語でコミュニケーションをとりました。いつ、どうすべきか。CMACの職員が内容をきちんと理解しているか、プノンペンの本部にいる通訳に、電話で確認しながら教えていったのです」
 カンボジアでは長期にわたる内戦により、国内のいたる所に地雷や不発弾が散乱している。その数は地雷だけでも400万発から500万発と推計され、完全に除去するには100年はかかると言われている。
 例えば地雷には、対人地雷もあれば、対戦車地雷もある。鈴木さんはCMACと共同で金属探知機を使って探し出し、回収して無力化していった。1つで十分な殺傷力を持つ対戦車地雷が、3つ重ねであったこともあったという。
「旧ソ連製の対戦車地雷です。地雷は120㌔から150㌔の踏圧がかからなければ爆発しません。兵隊が背嚢を背負って、地雷に飛び乗れば爆発するかもしれませんが、通常は人が乗っただけでは対戦車地雷は作動しないのです」
 手で、一つ一つ地雷を掘り起こしていくのだが、
 「その際に注意しなければならないのは、地雷の底にヒモが付いていることがあるのです。それを引っ張ると爆発する仕掛けになっている。対戦車地雷を処理するときは、手鏡で、底も確認する必要があります」
 また爆弾は、手榴弾からボール型爆弾、クラスター爆弾、迫撃砲弾、ロケット弾など様々なものがある。大きいものでは500ポンド爆弾から1000ポンド、2000ポンドの爆弾まで発見された。製造国も10カ国以上に及んでいる。
「爆弾にもそれぞれに特徴がありますが、基本構造は同じですので、その点をよく知っていれば、処理を間違うことはありません。不発弾の処理は、爆弾から信管を外して無力化し、爆破処理場に持っていって、爆弾に爆薬を仕掛けます。十分な退避距離を取ってから爆破させ、危険がなくなったことを確認するまでが一連の作業です」
 鈴木さんがカンボジアに行って間もないころ、CMACの職員が、ベトナム戦争当時によく使われた「Mk82」という500ポンド爆弾の処理に困っていた。
「米国の500ポンドや1000ポンドの爆弾についている化学式長延期時限信管は、4分の1まわしただけで爆発するようになっています。それを爆発させないように信管を抜く。信管の中にはロックピンが入っており、まずこれを抜かなくてはならない。信管にドリルで穴を開け、穴から磁石や粘着テープなどを利用してピンを抜くのです」
 CMACの職員が窮していたのは、爆弾から信管を抜いた後の作業である。
「この大きな爆弾のどこに爆薬を仕掛けたらいいか分らない、というのです。私は、爆破処理場に深さ150㌢、幅120㌢、長さ180㌢の穴を掘らせました。穴底へ下ろした爆弾の中央に爆薬を仕掛けるように指示したのです。掘った穴には土をかけて元のように埋めなおします。できれば盛り上げるくらい土をかけたほうがいい。そうすれば500㍍から700㍍の退避距離で安全なのです」

 爆破処理をする際に取る退避距離は、例えば対人地雷で150㍍、対戦車地雷で500㍍が目処。2000ポンド爆弾の処理では、1900メートルの退避距離を取ったこともあったという。
 鈴木さんは現役時代の77年ごろ、文字通り“痛い思い出”がある。
「ガスボンベの爆破処理の際、たった50㍍しか退避距離を取らなかったために、破片が右脚に刺さったことがありました。ポケットに入れていたペンチが盾になって、直撃はまぬがれましたが、60日間も松葉杖暮らしです。以来、安全に関することでは、一切妥協はしませんでした」
 カンボジアでは水中にあった不発弾の処理も行なった。
「地元の人が、船溜りに爆弾があると教えてくれたのです。水が濁っていて、爆弾そのものが見えない。なぜここで不発になっているのか。信管の点爆薬だけが爆発して、本体の炸薬が爆発していなかった。完全には爆発していない“不完爆”というやつです。作薬が爆発していない状態で、爆弾の外壁が割れていました。私と班長が水の中に潜って爆弾にロープをかけ、現場に出動したみんなで引き上げたのです」
 鈴木さんをはじめ、陸自OBのボランティアを、地雷、不発弾処理のために外国に派遣しているJMASは、陸自の不発弾処理隊で長年活動してきた土井義尚元陸将が中心となって立ち上げたNPOである。
 今年3月までの約8年間で、カンボジアで処理した地雷と不発弾の数は19万6126発。ラオスの5万7705発、アフガニスタンの7972発と合わせて総計26万1803発を除去した。
 これまで地雷や不発弾があったため立ち入れなかった危険地帯が安全地帯になり、住民は畑や田んぼを作って食糧生産量も増えた。JMAS副理事長の奈良暁氏はこう言う。
「JMASは地雷や不発弾の処理ばかりでなく、学校や道路の建設、水資源の確保など、自衛隊の海外復興支援活動で培った技術とノウハウをコミュニティ建設に役立てるプロジェクトを進めています」
 JMASの活動を支えているのが、外務省の政府開発援助(ODA)の日本NGO連携無償資金協力をはじめ、会員が納める会費のほか、企業や財団、個人有志からの寄付などである。
 カンボジアやラオスではJMASの不発弾処理専門家は歓迎されているが、彼らの身が危険に晒されているのがアフガニスタンだ。
 07年2月から首都カブール北方70㌔にあるパルワン県で地雷、不発弾処理事業を開始した。自衛官OBが国連の対タリバン武装解除の監視に携わった経緯もあり、日本人の不発弾処理作業に敵対意識を持っている人間も多い。現地で作業を行なう際には銃で武装した護衛をつけなければいけないほどである。

 カンボジアで地雷、不発弾処理に当たっていた鈴木さんは、06年6月からラオスで活動を始めた。
 鈴木さんが赴任する直前、子供たちが道端で、BLU-26というテニスボール大のクラスター爆弾を見つけ、コンクリートの柱に投げつけたところ、爆発。5人の子供が即死する事故が起きた。また3歳の幼児があぜ道で同じBLU-26を見つけ、投げて遊んでいるうちに爆発。即死。鈴木さんは子供の父親から、
「もうちょっと早く来てくれれば、こんなことにならなかったのに……」
 と、さめざめと泣かれたこともあった。鈴木さんは処理要員の養成ばかりでなく、現地の人たちへの啓蒙活動も大切だと語る。
「現地の人たちは不発弾を掘り起こし、鉄と爆薬を業者に売って生計の足しにしています。500ポンド爆弾の鉄だと、130㌦から150㌦にはなる。爆弾の構造を知らず、信管をハンマーで叩くなど実に乱暴にあつかっています。また家庭で爆弾をランプや家具として使ったりしている。もし爆薬が残っていて衝撃を加えたりすると、爆発することもある。大変危険だから、地雷や爆弾の形をしたものは、我々に提出するように呼びかけました」
 ラオスでは、金属探知機で調査を行ない、小さな金属片も除去した道路で、対戦車地雷による事故が起きている。地雷を踏んだトラクターが前後に千切れて吹き飛ばされ、運転していた乗員は即死。鈴木さんが爆破状況を調査したところ、
「爆心の地中深く焼けてこげたプラスチックのカスがありました。金属探知機に反応しないプラスチック製の容器に、炸薬を詰めた地雷だったのです」
 鈴木さんが赴任したカンボジアとラオスの2カ国だけでも、8000万発以上の不発弾が残るという。平和になったとはいえ、専門知識を持った陸自OBが求められているのだ。
 ラオスでの任務を終えた鈴木さんは昨年10月に帰国したが、
「私は爆発物処理を天職としてやってきました。私で役に立つことがあれば、何でもお手伝いするつもりです。そのために体を鍛えています。毎朝、指立て伏せを30回、でんぐり返しや逆立ちもしているんですよ」
 鈴木さんと一緒に『ハート・ロッカー』を鑑賞した奥さんは、
「これはあなたの仕事ね」
と漏らしたという。そんな話をしてくれた鈴木さんは幸せそうだった。

週刊新潮2010年4月29日号
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2 コメント

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Unknown (Unknown)
2013-02-11 15:48:03
頑張って自衛隊OB!
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地雷処理に参加できますか? (Unknown)
2015-12-12 00:52:13
どうしたら、参加出来るのでしょうか?
返信する

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