超芸術と摩損

さまざまな社会問題について発言していくブログです。

大宅賞40周年特別企画 私が見た歴史的瞬間

2010-05-12 02:48:07 | 週刊誌から
<ノンフィクション分野における“芥川賞・直木賞”をめざすもの>とは四十年前に発表された、大宅賞創設の弁である。当時賞金は一千ドル、副賞に世界一周航空券。爾来、六十五編の優れた作品を世に紹介してきた。歴代受賞者が、執筆秘話ヤ受賞の思い出を語る。

渾身の一作を書かせた「絶えざる好奇心」
近現代史に迫る 梯久美子/辺見じゅん/高木徹/伊佐千尋/猪瀬直樹

 去る四月五日、今年の大宅壮一ノンフィクション賞が決定、発表された。第41回となる今回の受賞作は、『日本の路地を旅する』(上原善広)と『逝かない身体―ALS的日常を生きる』(川口有美子)の二作。
 創設四十年を数えた大宅賞は、昭和四十五年、著名なジャーナリスト、ノンフィクション作家であった大宅壮一氏の半世紀にわたるマスコミ活動を記念して制定されたもの。
 自身受賞者でもあり、現在は選考委員を務める柳田邦男氏はこう言う。
「大宅賞が出来た当時、日本にノンフィクションを顕彰する賞はありませんでした。賞を作っても、該当するような良い作品が出るだろうか、候補作が集まらないのではないかと、単行本になっていない雑誌のレポートも候補にしようということになりました」
 第1回の受賞作『極限のなかの人間』(尾川正二)が、凄惨なジャングルの戦場における人間の善と悪を描き出したニューギニア戦記であったように、当初は戦記、空襲体験、原爆体験などが目立った。
「しかしテーマも次第に広がってきました。
 社会がどんどん複雑になっていく中で、そこで起こってくる複雑な社会問題や、人間の生き方を取り上げる作品が多角的に書かれるようになりました」(柳田氏)
 四十年間の受賞作を眺めてみると、「戦争の描き方が大きく変化していることが特徴的」と柳田氏は見る。
「近年、戦争体験のない若い世代の書き手が、あらためて調べたり、当事者に聞いて、戦争について書いた作品が増えています。稲泉連さん(『ぼくもいくさに征くのだけれど』で第36回受賞)、城戸久枝さん(『あの戦争から遠く離れて』で第39回受賞)などがそうですね。若い世代がもう一度戦争を発見し、追体験している」
 柳田氏が歴代受賞作の中でも絶賛する、梯久美子氏の『散るぞ悲しき 硫黄島総指揮官・栗林忠道』(第37回受賞)も、戦争を知らない世代が未知の世界に果敢に切り込んだ作品だった。
 太平洋戦争の激戦地・硫黄島の総指揮官を務めた栗林忠道が生前、戦地から家族にあてて書いた四十一通の手紙を通して人物像を切々と描き出し、その文学性も高く評価された。
 梯氏が語る。
「ライター生活をしていたあるとき、戦史を扱った本の中で、偶然栗林さんの手紙を見つけたんです。硫黄島に着任したばかりに出した、妻への手紙です。そこには、追伸としてこんな一節がありました。
<家の整理は大概つけて来た事と思いますが、お勝手の下から吹き上げる風を防ぐ措置をしてきたかったのが残念です>
 二万の将兵を率いて第一線にいる五十歳を過ぎた指揮官が『お勝手の隙間風』を気にしているなんて(笑)、いったいどういう人なんだろうと惹きつけられました」
 手紙に惹かれた梯氏は、ほどなく栗林中将の子息を訪ねて、大切に保管されていた硫黄島からの手紙を目にすることになった。
「極限状態でどう行動するかにその人の本質が現れると思いますが、栗林さんは、人間はどんな時でも人間らしく生きられるのだということを教えてくれました。
 この人のことをもっと知りたいという思いが、昭和史を調べるエネルギーになり、結果的に新事実の発見につながった。そこまで惚れ込める人に出会えたことは本当に幸運だったと思います」(梯氏)

 第21回に受賞した辺見じゅん氏の『収容所ラーゲリから来た遺書』も、戦争と手紙にまつわる秘話を題材とした感動的な作品だ。
 戦後十二年たってから、抑留中に死亡した主人公の遺書が、家族のもとに届けられた。しかも六通の筆跡はばらばらだった。監視の厳しい強制収容所から、遺書を持ち出した驚くべき方法とは――。
 著者の辺見氏は、
「昭和の遺書を集めていたときに、ふと、山本幡男さんという方が書かれた一通に目が止まりました。書かれた時期が昭和二十九年七月になっていたからです。シベリアの収容所から書いたものを持ち出すのは処罰の対象になりますから、どういうことだろうと思いました。
 早速山本さんの夫人であるモミジさんを訪ねると、他にも遺書があり、しかもすべて書いている人が違う。わけを尋ねると、収容所の仲間たちが、ご主人の遺書を分担して記憶し、解放されてから書き送ってきたことが分かったんです」
 辺見さんは実際に山本さんの遺書を記憶して持ちかえった収容所の仲間たちを訪ね歩いた。
「山本さんが亡くなってから、他の方たちが帰還するまでの二年半ほどの問、なぜあの極寒の収容所生活を生き延びられたのかと聞くと、『遺書を持ち帰らなければいけないという思いが生きる支えになった』とおっしゃっていましたね。
 この作品では、階級や配置については伏せてありますが、重要なことを覚えた人たちは特務機関や憲兵出身の方で、本来であれば嫌われる立場。しかし記憶力がすごいので、山本さんはあえてそういう人をえらんだのでしょう」(辺見氏)
 山本氏が亡くなる場面の書き方で苦しんだ辺見氏は、思案の末、同じがんで亡くなった父の様子をそこに投影したという。
「最初から最後まで、何かに呼ばれているように感じながら書いた、幸運な作品です」(同前)
 二〇〇一年三月、アフガニスタンのバーミアン大仏がタリバン政権によって爆破された事件は、後の9・11テロへの前奏曲だった。この事件を取り上げた壮大なスケールの『大仏破壊』で第36回大宅賞を受賞した高木徹氏の場合も、旺盛な好奇心が幸運なタイミングを捉えたようだ。
「今思えば、二〇〇三年春にアフガニスタンを取材できたということは非常に幸運でした。ソ連撤退から今日に至る、もっとも治安のいい時期だったんです。当時はカブール市内なら警護なしで夜でも普通に動いて取材や撮影ができました。この二十年間でほんの一瞬だけの幸運でした。元内務次官のアブドルサマド・ハクサルなどは、取材後に暗殺されてしまいましたからね。いまではもう、こんな取材はできません」
 沖縄普天間基地の移転問題が連白紙面を賑わせ、裁判員制度が導入されたいま、伊佐千尋氏の『逆転』(第9回受賞)は三十年後の今もタイムリーな作品なのではないだろうか。
 一九六四年、米支配下の沖縄普天間で起きた米兵殺傷事件。沖縄の青年四人が逮捕され、著者の伊佐氏は裁判の陪審員に選ばれた。
「最初は十一人の陪審員がみな有罪説でした。僕も早く評決して帰りたかった。でも、被告四人はやっていないと言っているし、証拠とされた自白調書はどうも任意性に疑いがある。それで僕一人が無罪で、あとは全部有罪というところから、粘ったわけです」
 伊佐氏の孤独な闘いが逆転にいたるまでの息詰まる展開は映画『十二人の怒れる男』を彷彿とさせるが、
「実は観ていないんです。観ると真似したくなりますから(笑)。しかし一票の重みがある陪審員制度だったからこそ、個人が力を発揮することができた。現行のような裁判員制度だったら、こうはいかなかったでしょうね」(伊佐氏)
 旧皇族の土地を次々と取得し、プリンスホテルを建てるコクドの謎を追った猪瀬直樹氏は、執拗な取材の末に西武鉄道グループ総帥・堤義明氏と相対し、「先代の教え」を引き出した。堤氏の父康次郎氏は、東京大空襲の最中にも土地を買い漁っていたといい、猪瀬氏は「免税特権を失った旧皇族らをターゲットにしたそのやり方は、少ない手もち資金で土地をいかにうまく入手するかに尽きる」と喝破したのである。
『ミカドの肖像』で第18回大宅賞を受賞した当時を振り返り、猪瀬氏は、
「『ミカドの肖像』はテーマだけでなく雑誌の連載ページのレイアウトやイラストまで、新しい違和感のあるものにしました。固定観念でやらないこと。これまでにないジャンルを開拓するつもりで絶えざる好奇心をもって、自分もどんどん変化していかなければならないんです」

日本人であることを誇りにできる人々
人物に迫る 佐野眞一/小堀圭一郎/山文彦

 綿密な取材で練り上げられた人物の評伝も、大宅賞を受賞してきた。
 日本列島を隈なく旅し、柳田国男以来最大の業績を上げた民俗学者・宮本常一と、彼のパトロンとして生涯支え続けた財界人・渋沢敬三。対照的な二人の交流を描いた傑作、『旅する巨人』で受賞(第28回)したのは佐野眞一氏。
「宮本常一とお師匠さんの渋沢敬三は、日本人であるということを誇りに思える数少ない人間だと思うんです。その二人の生涯を辿ることによって、高度経済成長後の日本人の精神の劣化を描きたいと思いました。
 ちょうどその頃、大蔵省の官官接待などで日本がどんどん汚れていくという感じがした時代なんです。
 拝金主義がはびこっていて、日本人であることが恥ずかしいという思いを抱いていた。そういう中で、宮本常一を取材して、あんな生き方があったんだなあと、ひじょうに清清しい気持ちになりました」
 佐野氏にとって、宮本常一は民俗学者というより優れたノンフィクション作家であるという。
 晩年、宮本は「記憶」と「記録」の関係をこんなふうに表現しているという。
「記憶されたものだけが記録にとどめられる」
 佐野氏が続ける。
「僕はそれを、『記録』されたものしか『記憶』されないと逆のベクトルで捉えた。それが僕は、ノンフィクションの要諦だと思っているんですね。全国を自分の足で歩いた宮本さんは、圧倒的な作家というか、記録文学者というか、比類ない存在だと思います。
 更にいうと宮本さんは、“小文字”で書いた人なんです。政治とか経済とかいう誰もが使う大文字の言葉じゃなくて、土佐の檮原という辺鄙なところの盲目の元馬喰の話に耳を傾ける。それは小文字の言葉なんです。宮本さんが耳を傾けなければ、その人の生涯は記録されずに消えてしまうんです。宮本さんの功績は極めて大きい」
 ところが現在は、佐野氏が「書くに値する人物」はなかなかいなくなってしまったという。
「政治家も経済人も小物ばかりになって、まったく取材執筆の意欲がわかない、勢い過去の人物を描くことになってしまいますね」
 東大名誉教授の小堀桂一郎氏が大宅賞の受賞者であることは、案外と知られていないかもしれない。氏が受賞したのは第14回、作品は『宰相 鈴木貫太郎』。
「そもそも、鈴木貫太郎という人に対する直感があったんですね。
 遠い縁戚に当たっていて、しょっちゅう会うという間柄ではありませんでしたが、人柄にも惹かれていました。
 昭和天皇に忠誠心をもって、軍や重臣と渡り合いながら、ついに聖断による終戦を成し遂げた。そういう彼を、単に資料の収集・編纂ではなく、読み物という形で論証できたらと思ったんです。
 戦後の原点ともいうべきこの終戦の大業が、いま人々の記憶から失われています。鈴木貫太郎がたいへんな苦心をして、何とか終戦を迎えることが出来た、そのことは忘れないでほしいですね。
 日本は終戦時に無条件降伏をしたのだという説がそれまでずっと信じられていましたが、この本の中で条件付降伏であったということが書けました。そのことには江藤淳さんがとても喜んでくれたのを覚えています」(小堀氏)
 第31回の受賞作は、山文彦氏の『火花 北条民雄の生涯』だった。
 北条はハンセン病に冒され、多磨全生園に隔離されながら小説を執筆。『いのちの初夜』で文學界新人賞を受賞するが、翌年二十三歳の若さで亡くなった。
 山氏が語る。
「『いのちの初夜』を二十歳で読んで以来、いつか北条民雄について書いてみたいと思い続けていました。結局、本を出版できたのは四十一歳のときですから、二十年ほどかかったことになります」
 編集者に「北条民雄を書きたい」と言っても、「なぜいまさら北条なのか、誰も知らないのに」と言われてばかりだったという。
「北条を取り上げることは、当然ハンセン病にも触れなければならないわけですから、面倒なテーマと思われたのでしょう。
 でも僕にしてみれば、誰も知らないから書かないのではなく、書けば北条のことを知ってもらえるという思いが強まりました。
 取材では、相手を待つということが大事でした。北条をじかに知る数少ない一人で、全生園に暮らしていた渡辺立子さんに取材をする場合も、手紙を書いたり人づてにお願いしたりして、半年待たねばなりませんでした。実際に全生園でハンセン病患者の方々に取材させていただいたのは、大変貴重な経験でした」
 それほど時間をかけ待つことを厭わないほど、北条の何が山氏の琴線に触れたのか。
「歴史の表には現われにくい人々の声を書きたいという思いがありました。その声を北条に代表させていけば、大きく言えば近代主義というものが何であったかを書けるんじゃないかと。
 当時ハンセン病患者は差別されていて、その差別を食い破ってでも作家になろうと生きた北条がいる。彼の苛立ち、怒り、絶望は、とても大きな物語を背負っていた。彼ひとりだけの物語ではもうないんですね。
 そこに近代主義が見殺しにしてきた真実があると思うし、僕が北条の物語ととことん格闘して見極めたかったものでもあります」

現代人を翻弄する企業社会のダイナミズム
企業・技術に迫る 柳田邦男/杉山隆男/佐藤正明

 現代社会の高度な技術を本当に人間は制御できるのか、そして技術によって人間は本当に幸せになっているのか――。
 冒頭にも登場していただいた柳田邦男氏は、『マッハの恐怖』で第3回大宅賞を受賞した。
 ――昭和四十一年の春、連続して三機の航空機が重大事故を起こした。
 二月四日、羽田沖に全日空機が墜落(百三十三人死亡)。三月四日、羽田空港でカナダ太平洋航空機が着陸に失敗、炎上(六十四人死亡)。三月五日、BOAC機が空中分解、富士山麓に墜落(百二十四人死亡)。
一カ月で三百人以上の死者が出た。更にこの年十一月、松山沖に全日空機が墜落している(五十人死亡)。
<まるで狂ったような事態の中から、ひとりの記者として何をつかみ出せばよいのか、私の感情は昂ぶり困惑した。そうした中で、私にできたこと、それは氾溢する感情をおさえて、事実の記録に徹することからはじめることであった>
 柳田氏は『マッハの恐怖』の序文にそう書いている。当時NHKの記者であった柳田氏は、寒風吹きすさぶ東京湾上にタグ・ボートで出かけ、濃霧の羽田空港の滑走路を駆け回り、残雪に覆われた富士山に長靴で登った。
 それぞれの現場で散乱する航空機の残骸の凄さに圧倒された柳田氏は、一過性の報道では飽き足らず、その後四年にわたってこの連続航空機事故を追いかけた。
 それぞれの事故調査報告書を読み解き、関係者に取材を重ねた集大成が、『マッハの恐怖』として上梓された。写真や図版も駆使されていて、事故の過程が克明に分かりやすく表現されている。
 柳田氏が振り返る。
「あの連続航空機事故は、まさに当時のエレクトロニクス文明の最先端で起きた事故でした。なぜああした巨大事故が起きてしまうのか、詳細に調べて書いたものはまだなかったのです。
 航空機の事故原因の究明など、専門的で難しい用語が飛び交い、分かりにくいものになると敬遠されていたのでしょう。
 私はそれにチャレンジしようと思いました。現代社会では、何気ない一般庶民の生活であっても、高度な技術や法律行政制度に取り巻かれている、そうしたものと真正面から向き合い、分析しないと、現代の真実は描けないと思ったのです。そういう意味で、『マッハの恐怖』は、日本のノンフィクションが非常に専門性の高い分野に恐れず切り込んでいく先駆けとなったと自負しています」
 昭和四十年代、雑誌記事で日経新聞の幹部の取材中、同社が「活字印刷を捨て、コンピュータで新聞を作る」というプロジェクトを進めていると知った杉山隆男氏は、これを題材に長編ドキュメンタリーを書きたいという思いを感じた。
 第17回大宅賞を受賞することになる、『メディアの興亡』が始動した瞬間だった。
「それまでの新聞社を扱った本や記事は、イコール記者を描いたものが多かったのですが、私は新聞社という組織や企業を全体として捉えたかったのです。
 日経は時代を先取りした経営者のもとで活字を追放し、コンピュータで新聞をつくることでコストダウンし、新商品も開発していこうとしていました。つまり新聞企業への脱皮にいち早く取り組んでいた。
 そういう中で、活版の工場に働く活字工の人たちや、まだ未知数だったコンピュータに賭けた人たちがどうなるのか、興味が湧きまじた」(杉山氏)
 杉山氏は日経のコンピュータ化をタテ軸に据え、従来型の新聞社から踏み出せずに経営を悪化させていく毎日新聞の動きをヨコ軸におく。
「それも経営者など一人の人間に焦点を当てたドラマにするのではなく、会社組織の中でいろいろな人たちがいろいろな考えを持ちながら働き、計画が行き詰まったり思いも及ばないような事態に陥る物事のプロセスを描きたいと思ったのです。
 こうして、日経と毎日、同じ業種で同時代に存在しながら、対照的な“生き方”の違いを際立たせることにしたのです。いわばこの作品の主人公は人間ではなく、新聞界に大変革をもたらした時代そのものと言えるかもしれません」
 一方、企業取材の難しさを語るのは、『ホンダ神話 教祖のなき後で』で第27回受賞を果たした佐藤正明氏である。
<日本は企業社会といわれるほど、人々は何らかの形で“会社”と関わりを持っている。(中略)戦後の廃墟跡から産まれたホンダの発展と苦悩を通じて、日本経済の光と陰を浮かび上がらせたかった>(受賞のことば)
「ホンダは本田宗一郎さんのワンマン会社だと思われていました。実態は天才的な技術者である本田さんと、名経営者である藤沢武夫さんの二人羽織だったからこそ、世界的な企業に育ったんです。二人が出会わなければ、本田さんは町工場のオヤジで終わっていたし、藤沢さんも街の筆耕屋で終わっていたでしょう。
 その二人が創業二十五周年を機に同時に引退した昭和四十八年に、私は記者として初めて自動車業界を担当しました」(佐藤氏)
 二人の創業者なき後、ホンダが官僚主義や人事抗争により迷走していくのを追いかけるとともに、佐藤氏は本田、藤沢両氏ともしばしば接触して取材を重ねていく。取材は徹底して当事者に及び、本書で鮮やかに真相が描き出される“プリンス”入交昭一郎(元副社長)の突然の退任劇は、まさに迫真のドラマである。
「当時のホンダの現役経営者もOBも、皆さん率直に取材に応じてくれました。現在のホンダ社内では、この本が唯一の真実、ホンダの聖書だと薦める人と、焚書にしたいと言う人に分かれています。僕としては、読者それぞれに自由に評価してもらえればいいんです」(同前)

私はあの歴史的な瞬間、そこにいた!
稀有な体験を綴る 星野博美/中村紘子/佐藤優

 一九九七年七月一日、イギリスから中国に、香港の主権が返還された。一八九八年に清朝からイギリスが得た、九十九年間の租借期間が終わったのだ。その日の朝午前六時、星野博美氏は降りしきる雨の中、雨合羽を着て待っていた。
 第32回受賞作『転がる香港に苔は生えない』にはこんな一節がある。
<私は遠足の前の晩のような興奮を覚えていた。返還セレモニーなどどうでもいいが、これから数時間後に自にするであろうもの、これだけは他者が介在した映像ではなく、絶対に自分が立ち会ってじかに経験したい、と前から決めていた。
 中国人民解放軍の香港入城である>
 やがてやってきた部隊の車列に、「支配者であるという自覚」を感じながら、星野氏はいつの間にか手を振り続けている。消防車、軍用トラック、戦車、装甲車。一時間におよぶパレードが終わったとき、星野氏はひどく疲労していた。
<強烈な力で眠りに引き込まれながら、私はどうしようもなく、何かが完全に終わってしまったような気がしていた>
 星野氏が振り返る。
「この本は二作目です。最初の本はわけも分からず書いてしまったんですが、この本のときは地に足がついていたと思います。特異な街で何が起きているか知りたい、それを直に体験したい、それが日本で生きる日本人としての私に何かを教えてくれるはずだと確信を持って香港に行けました」
 選考委員からは「高く評価されるべき」(立花隆氏)「文句なしの傑作」(西木正明氏)という声も出た。
「受賞は驚きました。たぶん選考委員の方も、ごちゃごちゃしているし、ジャンルもあいまいだけど、面白いからいいかという感じだったのでは(笑)」
 一方、「私は大宅賞についてまったく知りませんでした」というのは、ピアニストの中村紘子氏。『チャイコフスキー・コンクール ピアニストが聴く現代』で第20回大宅賞を受賞した。
「当時の中央公論の嶋中鵬二社長のお薦めで、『中央公論』に二年関連載しました。
 私は、一九八二年からチャイコフスキー・コンクールを始めとする国際コンクールに審査員として参加してきました。そこでの経験をもとにピアノを中心とする西洋クラシック音楽が、日本を始めとする世界各国にどのように受容され発展したかを、具体的に考えてみようと思ったのです」
 モスクワで行われるチャイコフスキー・コンクールの場合、一日平均十時間、約一カ月にわたって百名以上の演奏を聴くという。
「当時のソビエトは国威発揚のために来るものは拒まずで、たくさんの参加者がいました。ですから下手な人も大勢いて、ひとり四十分も弾くので、審査員も退屈して、密かにおしゃべりしたり、メモを回したり面白かった」
 ホロヴィッツが「東洋人と女にはピアノは弾けない」と言い放ったなど、著名な演奏家・作曲家の思いがけぬ発言の数々も紹介されて興味は尽きない。
「今思えば、八二年のブレジネフ時代、八六年のゴルバチョフ時代、九〇年のソ連崩壊寸前と、コンクールに行くたびに情勢が激変していて、それらを直に見聞きできたのも幸運でしたね」
 やはりソ連崩壊の過程に居合わせたのは、佐藤優氏。当時の体験を描いた『自壊する帝国』で第38回大宅賞を受賞した。
「『自壊する帝国』は、東京地検に逮捕・起訴された経緯を描いた前著『国家の罠』が世に受け容れられたことで書かざるを得なくなったのです。ではいったいお前はロシアで何をやっていたのかという質問が多く、本という形で説明しようと思ったのです。
 当時のメモは地検に押収されていましたので、九八パーセントは記憶によって書きました。カレンダーだけは見ましたが、新聞記事を見直したりもしなかった。それでも、校正者に誤りを指摘されることはありませんでした。重要な情報は公電などに一度まとめているので、書くことで記憶しているんです」
 本書のキーマンとなるラトビア人学生サーシャなど数多い登場人物、高級レストランでの作法などのディテールを見ると、本書が記憶だけで書かれたということには驚かされる。
 守旧派がゴルバチョフを軟禁した九一年八月のクーデター未遂事件で、錯綜する情報の中から事実を摑もうとする著者の情報活動の緊迫感溢れる展開は、選考委員から「小説のような面白さ」(藤原作弥氏)と評せられたほど。
「受賞の報せが入ったのは、鈴木宗男議員の政治資金パーティで挨拶をし終わったときでした。刑事被告人が受賞するとは思わなかったので、とても嬉しかった。特別な一日になりました」

週刊文春2010年4月22日号
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