ぽんしゅう座

優柔不断が理想の無主義主義。遊び相手は映画だけ

■ ヤジと民主主義 劇場拡大版 (2023)

2024年03月26日 | ■銀幕酔談・感想篇「今宵もほろ酔い」

警備課は公安課と兄弟みたいなものだから政権の権威に乗じて恣意的に「人を黙らせるやり口」はこんなものなんだろ。むしろそれを漫然と傍観している道警になめられた北海道のテレビメディアの駄目さ加減がなさけない。で、一番ヤバイと思ったのは取り締まりの理由が「迷惑だから」だったこと。

排除された男性と女性は、それぞれ別の日に保守系候補の街頭演説会で「安倍辞めろ!」を一人で連呼し続け「周りの人に迷惑だ」という理由でテレビメディアや衆人の目の前で、その場から引きずられるように排除された。

こわいと感じたのは聴衆はもとよりメディア関係者も、この「安倍辞めろ」の連呼を「迷惑」な行為として追認していた節があること。この誰もが(私も)持ちうる「迷惑だ」という感情が個々人のなかで肥大化したり、集団として暴走することの恐ろしさだ。(コロナ騒動のときにその兆しがあったよね)

この万能の正当性を有しているかに思える「周りに対して迷惑だ」という理由で、安易に発言を規制したり自粛してしまうことが一番やばい。だから誰からも「迷惑だ」と言わせない正当な訴え方(それが不規則な野次だとしても)のセレクトの難しさについて考え込んでしまった。

正直に書くが、特定の支持者が集まった場所で「安倍辞めろ!」を連呼することは、敵対者に「迷惑だ」と言わしめる隙を与えてしまっているように思います。抵抗という行為には緻密な戦略が必要で「野次」はそれに準じた戦術のひとつとして、もっと有効に実践されるべきだと思う。いやそれは違う。そこで日和るのではなく声をあげ続けることが重要なのだという反論は承知うえです。(本作を観てからこのコメントを書くまで三か月の頭の整理時間が必要でした)

(12月25日/ポレポレ東中野)

★★★

【あらすじ】
安倍首相の遊説中に起きた「ヤジ排除問題」の顛末を4年間に渡り取材した北海道放送の番組の劇場用ドキュメンタリー。2019年、札幌で演説中の安倍首相を囲む聴衆から政権を批判するヤジが飛んだ。声を上げたソーシャルワーカーの男性と女子大生は、すかさず北海道警警備課の制服、私服警官たちに取り囲まれ「周りの人に迷惑だ」という理由でメディアや衆人の目の前で実力行使を持ってその場から引きずられるように排除された。その後二人は道警を相手に「排除の不当性」を訴えて裁判を起こす。その経緯を警察関係者やその場に居合わせた人々に取材を重ねながら「声を上げること」の重要性と「根拠なき取り締り」の恐ろしさを問いかける。(100分)

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■ ビニールハウス (2022)

2024年03月25日 | ■銀幕酔談・感想篇「今宵もほろ酔い」

俳優たちの演技に負ってばかりでサスペンス演出が緩い。で、語りの技術が未熟なだけでなく認知症を安易にストーリーテリングの「道具」として使っている(ように見えてしまう)ところが不快。何かを描いているようにみせかけて社会的な課題や人の尊厳に対して無頓着なのがバレバレ。

(3月24日/シネマート新宿)

★★

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■ 瞼の転校生 (2023)

2024年03月17日 | ■銀幕酔談・感想篇「今宵もほろ酔い」

大人になって思えば、あまりに狭いけれども15歳にとってはそれがすべてだった「世界」が、ふとしたことで友の心情を知り触発し合うことで「次の世界」へとつながっていく。そんな誰にでもある経験が松藤史恩/齋藤潤/葉山さらの気負いのない好演で爽やかに描かれる。

作為を感じさせない金子鈴幸の簡潔な脚本と、過度に感情を煽らない藤田直哉監督の節度ある演出に、素直に心を動かされいつしか目頭が熱くなる。とても気持ちの良い映画だった。

藤田監督は「SKIPシティ国際Dシネマ映画祭」のグランプリ受賞者ということで、本作も当然デジタル撮影なのだがその画質の粗さが気になった。フィルム撮影ならモチーフとなった大衆演劇の白塗りや和装といった被写体の艶やかさがもっと楽しめただろうなと、ちょっと残念。

(3月10日/ユーロスペース)

★★★★

【あらすじ】
大衆演劇一座の子役で中学三年生の裕貴(松藤史恩)は公演に合わせて転校を繰り返す。今度の学校も一か月後には変わるので一座のことは隠して友達も作らず過ごして、卒業したら座長の父のもと役者に専念するつもりだ。そんな裕貴が、ひょんなことから不登校を続けながら定期テストの成績はクラス一番の建(齋藤潤)とその元カノのクラスメイト茉耶(葉山さら)と過ごすようになる。一方、見習いとして一座に加わった20歳過ぎの地下アイドルの浅香(村田寛奈)の世話係を裕貴がすることに・・・。思春期の葛藤と成長を優しく描く藤田直哉監督の長編第一作。SKIPシティ国際Dシネマ映画祭20周年と川口市制施行90周年記念映画。(80分) 

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■ すべての夜を思い出す (2022)

2024年03月14日 | ■銀幕酔談・感想篇「今宵もほろ酔い」

20万人規模の人口を有しながら多摩ニュータウンの人工的な街中は人の気配が希薄だ。だがその風景の背後には50余年に渡る人の営みの機微が無形の歴史として流れている。そんな街が醸し出す「時間と記憶の余白」が映画の“ゆとり”となって通底する。ほの見えるのは3人の女性の心の機微。

失業中でありながら、一見マイペースで余裕ありげな独身中年女性の知珠(兵藤公美)だが、彼女は確実に過去の「実績や関係」と「残りの時間」を失いつつあることにまだ気づいていないようだ。地元のガスの検針員としてルーティンをこなすアラサー女性の早苗(大場みなみ)は、公私ともに「安定のなかに宿る停滞」の気配に気づき始めているようだ。幼時から地元で育った女子大生の夏(見上愛)は、まだ人生のとば口にいながら「その地の抜き差しならない呪縛」を抱え込んでしまったようだ。

私の感想はすべて「ようだ」で結ばれる。清原惟監督は、そんな"機微"をニュータウンの「時間と記憶の余白」を使ってスクリーンのなかにほのめかす。PFF出身の32歳、長編は二作目だそうだ。次の作品が楽しみです。

(3月10日/ユーロスペース)

★★★★

【あらすじ】
東京郊外の広大なニュータウン。ある春の日。失業中の独身中年女性・知珠(兵藤公美)は、友人から届いた転居ハガキを頼りに道に迷いながら旧友の家を探していた。いつものように担当エリアをまわていたガスの検針員の早苗(大場みなみ)は団地内で行方不明になっていた老人(奥野匡)に遭遇する。地元育ちの大学生の夏(見上愛)は、ある届け物をするために一年前に亡くなった男友達の母親のもとを訪ねるのだった。今を生きる世代の異なる3人の女性に流れる時間が、入居開始から50余年を経た多摩ニュータウンに生きた人々の時間と記憶に重ねて描かれる。清原惟監督の長編第二作。(116分) 

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■ ヴェルクマイスター・ハーモニー (2000)

2024年03月06日 | ■銀幕酔談・感想篇「今宵もほろ酔い」

鬱屈した空気のなかヤーノシュ(ラース・ルドルフ)は、自身のよりどころを不変の象徴としての天体法則や、生命の偉大さの体現であるクジラの巨体に漠然と見いだしているのかもしれない。主体性の喪失は停滞と軋轢、扇動と暴走、暴力と自滅を経て振り出しにもどるという自戒の物語。

権威の喪失によって発生した民衆の不協和音(不調和)は、その内部にいる個々人の巨視点を奪い思考を停止させる。そのさまを見とどけた新たな権威の敷衍をたくらむ者は、さらなる混沌を仕掛け暴力によって民主の気力をも奪い、かりそめの和音(調和)を与えることで民衆の不安と不満を覆い隠す。

ハンガリー動乱は1956年。タル・ベーラの生年はその1年前だ。

(3月3日/イメージフォーラム)

★★★★

【あらすじ】
ハンガリーの小さな町。若いヤーノシュ(ラース・ルドルフ)は郵便配達員をしながら老作曲家エステル(ペーター・フィッツ)の世話をしていた。町のインフラは滞りがちで住人たちの生活は困窮し重苦しい空気が人々を覆っていた。ある夜、町に見世物屋の巨大な"クジラ”が巡回してきた。そして、クジラとともに“プリンス”と呼ばれる謎の男も町にやってきたという噂が流れ漠然とした不安が広がっていく。同じころ、夫をおいて町を出ていたエステル夫人(ハンナ・シグラ)が突然ヤーノシュの前に現れ「ある依頼」をするのだった。全編わずか37カットで綴られる2時間25分の自戒の物語。(モノクロ/145分) 

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