こんにちは。
現在、横浜にて論文の資料集めをしております・・・。
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さて、9月4日にありました授業研究会の助言内容です。
厳密には、研究会を振り返った原稿を書いてほしいということなので、書きました。
話した内容はこんなに整然としておらず、歌手コブクロの話や、サルトルやら、ハーバーマスやら、あっちこっちいった内容でしたので、ちょっと小ぎれいにしてみました。
「Z市教育研究大会を振り返って」
今年度の社会科小学校分科会では、発表本数が全部で25本ととても多く、若い先生からベテランの先生までの層の厚さと実践力の充実ぶりがみられました。
さて、本年度の重点は、「子どもが単元の学びを進める中で,自分も社会を構成している一人の人間であることに気付き,多くの人が幸せになれるよりよい社会(持続発展可能な社会)を作っていくことを意識して,自分にできることからやっていこうとする姿勢を育てるようにしたい」ということでした。そのために「授業では,子どもが自分の思いや考えを率直に述べ合う中で,対立から合意への転換を意図し,友達の考えのよさに共感したり,そのよさを自分の考えに取り入れて,さらに深まった考えをもったりすることをねらいとして指導を進めていきたい」ということでしたが、今回いずれの実践も個々の子供たちを丁寧にとらえ、その成長を見守り、学びとは子どものためのものということを改めて実感させられるものばかりでした。
こうしたZの誇るべき実践方法を通して「持続可能な社会の実現を目指す子どもたちを育てる」ことになるわけですが、この持続可能な社会の実現とはこれは答えがなかなか出ない難問ではないでしょうか。「環境」重視の先進国と「開発」重視の途上国の対立という構図がそこにはあり、小学生にとってはそこまで世界の複雑な事情は必要ないのかもしれませんが、教える側の教員においてはそこにひそむ欺瞞性について認識しておかなければならないと思います。
具体的に言えば、たしかに、再生可能エネルギーの技術を開発し、それを途上国にわけあたえ、先進国の利益と同時に途上国の環境もよくなるという議論もなりたつのでしょうが、そこには新たな支配関係が伏在している気がします。また、授業のまとめでありがちな予定調和的な結論である「世界の人々と仲良くやりましょう」、「わたしたちも生活を見直していきましょう」というきれいごとでいいのか?究極には「自分たちの生活水準を落とす覚悟はあるのか」という問いかけは必要ないのかということです。
こうした難問を前に、教える側は途方に暮れ、呆然とし、解決にたいする無力感すらそこにはあります。しかしながら、未来を切り開く子供たちの前に立つ教員としてみれば、そこから逃げるわけにはいかない。V・E・フランクルが「生きることはいつまでも課せられた仕事なのです。このことだけからも、生きることは、困難になればなるほど、意味あるものになる可能性があるということが明らかです」と述べています。つぎからつぎへとふりかかる課題や問題について、どう対応していくのかが、そのひとの人生の価値であるというのです。
こうしたことから、社会科の教員が解決の難しい問題にあきらめず取り組み、それをもとに授業をつくっていく。その姿勢をみせることこそがこの複雑な世界にいきる社会科教員に望まれていることではないでしょうか。
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以上です。
ちょっと前に読んだフランクルの内容をもってきました。
「じゃあ、おまえ、やってみろよ」の世界でしょうか・・・(笑)・
今日もきてくださってありがとうございました。