作家 小林真一のブログ パパゲーノの華麗な生活

歴史・エッセイ・小説・時事ニュース・・・なんでもござれのブログです。どうぞよろしく。

【 源頼家 】

2008-04-06 20:17:00 | 05 歴史エッセイ

源氏といえば、あの家系はどうしてああも
猜疑心が強いのであろう。
同属相撃つのが当たり前みたいな家で、
だから義朝も平治の乱で一族の援護なく
孤軍となって敗れたし、頼朝もまた従弟の
義仲を、平家の先に倒し、挙句は義経までも
破滅に追いやった。

京都の歴史ハナシとなれば、高校同期の
カンちゃんの博識の前に、モノが言えた
立場じゃないんだけど、歴史上きわめて
影の薄い頼家が意外や、建仁寺の寄進者
だったとは、またも司馬さんの著書で知った。
京都に来たはずもない頼家が、どんな手立てで
誰を使ってのことかまでは司馬さんも書いて
居られない。
四条から南、五条から北、鴨川の東山麓に
至るまでの全域が、建仁寺の寺域として
頼家が寄進したとあるから、そこに何がしかの
深い縁があってよかろうものである。

今の南座も、祇園一帯もすべて、元は
「ケンニジはん」と京都人が言う寺域
だったのだ。
このことを知って、母政子に冷酷なまでの
扱いを受けた頼家が、少なからず救われた
気がした。

源氏の同族に対する憎悪の情は、足利と
新田の関係にも及び、その争いに勝利した
足利も尊氏と直義との抗争に及ぶ。

偽源氏の徳川も、家康の初期の子供たちへの
父の情は、あまりにも冷たく、長男信康を
見殺しにしたし、次男秀康に対する姿勢もヒドイ。

手前は秀忠が三人目のオトコであることを
棚に上げて、秀忠に妾の一人も許さなかった
「お江」も憎らしいヤツとしか思えない。
浅井長政と絶世の美女「お市」の血とは、
淀の倣慢といい、ロクなもんじゃない。

家光がまた実弟の忠長に冷酷を極め、
若くして死に追いやる。

結局源氏の中で、輝いて見えるのは、
八幡太郎義家をはじめ、多田満仲、
悪源太義平、九郎義経あたりでとどまる。


                       パパゲーノ

ブログランキング・にほんブログ村へ  Banner_04_3 ←クリックお願いします。



「華麗な生活」目次へ≫


総目次≫


【 徳川は源氏ではない 】

2008-04-06 18:39:00 | 05 歴史エッセイ

三河の山奥にある、田んぼもロクにない
荒地が松平氏の発祥の地である。
この地では元々、酒井氏の方がむしろ
名家であった。

流れ者の勧進坊主がこの地にやって来て
居ついた。それが家康の先祖である。

家康は源氏の傍流、新田の一族の中に
得川という姓があるのを見つけて、公家の
近衛に金銭を贈り、系図を作ってもらった。
得川という新田一族でも傍流も傍流の者に、
自らの源氏を求めた姿は哀れに見える。
歴史大好きの小学生であったボクは、得川の
存在を早くから知っていた。

家康が得川をネタに、徳川を作り出した
悪知恵のゴマカシは、その時代の人間の中に、
知る人も多かったろう。
途中まで藤原と称していた家康が、途中から
源氏にこだわったのは、ただ征夷大将軍に
就任したかったが為である。

原姓松平の後裔の中に公共放送のアナウンサー
が居る。
この男の歴史解釈がお粗末に過ぎる。
先日この男が得々として語った徳川四天王の
ハナシがヒド過ぎた。
あんな放送で歴史を学ぶ人々が哀れである。

詳細を語ってもよいのだが、あいつの立場も
あろうかと、ここでは武士の情けでやめておく。

                       パパゲーノ

ブログランキング・にほんブログ村へ  Banner_04_3 ←クリックお願いします。



「華麗な生活」目次へ≫


総目次≫


【 梅の里 】

2008-04-06 17:54:00 | 02 華麗な生活

ヨシオさんはニュータウンの中にある高島屋
に出店している京ゆば料理を予約しておいて
下さった。
ヨシオさんは運転をされない。
エイコさんの専用車だったクルマが、玄関脇
に停めてあった。それをカンちゃんが乗って、
道路へ出し、ボクのクルマにヒーちゃんが
乗って、二台で泉が丘の高島屋に向かった。

ゆば料理は美味しかった。「梅の里」という
店名だが、ここでボクの悪いクセが出た。
が、その場では黙っていた。
この地名はカンちゃんの縄張りである、嵐山
の奥にある、清和天皇のゆかりの地「水尾」
の別称である。
水尾といえば、徳川幕府創世記の後水尾天皇
の名を思い出す。
この天皇は秀吉が贔屓で、家康も秀忠も
嫌われた。
秀忠の娘である和子に一女をなしたが、男の子
が産まれることを避けるべく、早々に出家されて
東山で上皇生活を楽しまれた。
そういえば修学館御苑に、カンちゃん、ヒーちゃん、
エイコさんとボクの四人組で見学に行ったことが
あった。

ともかく英気の後水尾天皇は、徳川が意図した
天皇外戚の野望を打ち砕いた。痛快である。
水尾天皇という存在は日本史に無い。
清和源氏を強調したい徳川が、水尾の地を好み
出家生活を送られた清和天皇を仮の水尾天皇
に見たて、あえて前例の無い「後水尾」と贈り名
したのであろうと、司馬さんが書いておられる。



                       パパゲーノ

ブログランキング・にほんブログ村へ  Banner_04_3 ←クリックお願いします。



「華麗な生活」目次へ≫


総目次≫


【 ヨシオさんとエイコさん 】

2008-04-06 16:54:00 | 02 華麗な生活

あっという間に今年も四月になった。
昨年十月に初めての小説を世に出し、続けさまに
計四冊を書いたのが意外な反響を得て、その分
逢うべき人が増えたりで、多忙を増している。

つい先日の四月三日に、初めてマイカーで泉北
ニュータウンに行った。
こんな時、ここ六甲アイランドから発する湾岸
高速道路がモノを言う。
最後に多少の道迷いがあったのだが、集合の場所
である、泉北鉄道の駅まで一時間十分で着いた。
桃山台という団地を抜けて駅前ロータリーに達したが、
季節柄桃ではなく桜がまさに見ごろであった。

ボクはどうやら早く着きすぎたようであった。
前夜京都に住むカンちゃんから「なるべく早めに」
と言われたから、出発を三十分早めたのが、
そのまんまの結果となったのだ。

ヨシオさんに、到着した旨を電話で告げた。
日差しもあり好天なのだが、意外に風がまだ冷たい。
やがてヨシオさんがタクシーで来られ、電車で
カンちゃんとヒーちゃんが着いた。
ボクのクルマに全員が乗り、ヨシオさんのお宅に
伺った。
エイコさんの姿がそこに見えなかった。が、
玄関に彼女の履きなれた靴があった。
彼女はボクたち、淡路島の三原高校同期の、
女性軍のリーダー的な存在で、ヒーちゃんと
共に同期生の求心力になっていた。
昨年の四月の例会にも、元気な姿を見せてくれていた。
その直後の二十九日に、突如姿を消して、未だに
戻っていない。

家の中はどこを見ても、今にも「ゴメン、お待たせして」
と彼女が現われるかの様を保っていた。
画才に恵まれた人だと、知ってはいたが、これほどの
腕かと目を見張る作品が多く、壁のいたる場所を
占めていた。
俳諧の道でも相当な地位にあったと知った。

ヨシオさんは、彼女の写真が微笑む傍らの位牌の
戒名について述べてはくれたが、ボクらがお線香を
あげるまでは有難うと言われ、続けて出そうとした
「御霊前」は拒否された。
「そんなものを頂いたらエイコが悲しみます。
永久の別れには早過ぎます」
彼女への愛に充ちたお言葉に、ボクらは逆らえなかった。
同時に彼女は幸福な結婚生活を送ってきたのだと強く
思った。

ご位牌にはヨシオさんご自身のものも添えられており、
生前に戒名を取ることは、決して不自然ではないと
言われた。
ヒーちゃんが「千の風のCDを忘れてきた」と言った。
ヨシオさんは右手を横に振って、「千の風は要りません、
彼女はここに居ますから」と、ご自分のハートを指された。
ボクはそれを目に、激しく感動していた。



                 パパゲーノ

ブログランキング・にほんブログ村へ  Banner_04_3 ←クリックお願いします。



「華麗な生活」目次へ≫


総目次≫