御屋敷住まいの時代探訪

ぐんまの歴史、とくに刊行物に気を配る部屋です。

箕輪城シンポ終わる

2009年02月09日 00時16分19秒 | 遺跡
基調報告された秋本氏の言を借りれば

平成10年に始まった調査から、

いよいよ整備にむけた新たな局面が始まった記念すべき行事と言える。

期待に反して、箕輪城自体の整備の具体像が示されなかったのは

予想外ではあったけど。私が先走りすぎていたのかな。

周辺を含めた保存整備意識という指摘は、新鮮ではあったけど。

さて、一際面白い発表をされていたのは、中井均氏であった。

しかし、ちょっと疑問もあったため、

3つ触れておく。

①箕輪城を土の城といしているが、

高石垣でないにしても、石垣があるわけで、全くゼロ評価するのはいかがか?

②箕輪城は迷路のように堀が張り巡らされ、

中にはいるとまさしく道に迷う迷宮だと指摘されていた。

しかし、秋本氏が言うように、大堀切は深さ20mもあり、

同じく本丸の周辺もそのくらいあると言っていたと思う。

そうなると堀中道の通行があるのか?

事実、本丸へのアクセスは、土橋か木橋だけで、

堀から直接上がるルートはないようだ。

つまり、迷うどころから、落ちたら這い上がれないというのが

本当ではないか?

③箕輪城から高崎城への移転のこと

縄張りの規制を離れて自由に城割りをするために

更地である高崎に移転したわけで、全くの軍事目的であると

指摘されていた。

しかし、高崎城には前身として和田城があり、

上杉対武田の興亡で難攻不落であったわけで、決して

更地ではなかった。

確かに軍事的には十分適地ではあった。

しかし、更地にこだわったというのなら

いくらでも更地はあったわけで、やはり高崎を求める意図に

軍事目的だけを観るのはおかしいと思った。

それにしても、秀吉の織豊系城郭に対抗して、

関ヶ原以後まで石造りの城を拒んだという家康の話は面白かった。


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書いた記事が2度もアップに失敗していささかウンザリ。
最初に書いた記事を返せ!と思いつつ。
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コメント (3)
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