玖波 大歳神社

神社の豆知識

五 明治維新から終戦まで    四 戦時下

2012-01-26 19:34:38 | 日記・エッセイ・コラム

 四 戦時下
 昭和十年に貴族院で美濃部達吉の天皇機関説が国体に反するとされたことを発端にして国体明徴運動が生じ、教学刷新評議会が設置され、「国体の定義」「教育の見直し」が検討され、日中戦争が始まり、戦勝祈願や祈祷が行われ国民精神総動員運動が組織されると、国民の精神的統合のために集団参拝の励行など神社・神道が重要な役割を担うことになった。そして、昭和十五年神社局を改組して神祇院が設立され、全国神職会も教化機能を強めた日本神祇会に改組され、国民教化の推進を果たさなければならなくなった。
 進出した朝鮮や満州に神社を創建し、人々に礼拝させていったが、神社本来の祖先崇拝や自然崇拝は影が薄く、欧米列国がキリスト教に依って植民地支配を促進していったことを手本に、「国家の宗祀」として、天皇に人々の尊崇を集約し、臣民としての意識を植え付ける目的であったことはその時代としては当然のことであったろう。しかし、キリスト教のような国家・民族を越えた宗教と性質を異にしており、元々の日本国民以外の者に「天照大神の生まれた国で、三種神器・天地無窮の神勅により皇統は絶えることなく連綿と続いており、神代から在るがままに天皇にお仕えしている歴史」を押し付け、天皇を中心にした新国家を造ることは、今考えても支持を得られることではなかった。むしろ、自然崇拝やそれぞれの民族の祖先崇拝を押し進めていれば神社神道にとって好ましい方向だったように思える。


五 明治維新から終戦まで    三 神社合祀令

2012-01-26 19:33:25 | 日記・エッセイ・コラム

 三 神社合祀令
 この頃、別格官幣社が創建(明治二年に創建された東京招魂社を改称する形で靖国神社とした(明治十二年))されたり、社寺創建の認可権が太政官から地方官に移行し、郷社が多く創建されていったが、明治三十九年になると、神饌幣帛料供進指定標準の訓令、合併跡地譲与の勅令いわゆる神社合祀令が発布され、全国的な神社の統廃合が明治政府の強力な圧力のもとで施行された。当時、立派な社殿を有する氏神社が一村に複数鎮座する村もあって、このような場合で合祀が行われた時、合祀されて廃社となった神社の旧氏子は社殿の保存を希望し、昭和初期に神社再興運動を起こし、独立再遷座を実現させた事例も少なくなかった。
 合祀後、空き家となった社殿の処置方法として、御旅所として用いた、合祀先神社の境内摂末社本殿として移築されたり、統廃合する各神社の建造物の中でそれぞれ優れた社殿を選んで合祀先に移築しその本殿や拝殿としたり、中には合祀先の神社の本殿のさらに奥に廃社となった神社の本殿を移築して新本殿(「奥之院」と称する神社もある)として用いたり、旧来の本殿を幣殿として転利用した例もあった。


五 明治維新から終戦まで   二 神祇官の再興

2012-01-26 19:32:07 | 日記・エッセイ・コラム

 二 神祇官の再興
 明治二年(一八六九)に神祇官の再興・明治三年に宣布大教詔・明治四年に社家の世襲禁止・社寺領上知令・官国幣社指定の太政官布告など次々と神社を統制管理していく方向付けがなされていく。この頃から平田派から津和野派に政策内容が変貌し始め、「神社は国家の宗祀」と宣言し、祭祀と宣教が分離し、神の位置付けもキリスト教への対抗・天皇に国民の尊崇を集約し、臣民としての意識を植え付ける目的に変わっていった。そして、戸籍法の制定と郷社定則により戸籍の区域に即して個人は特定郷社の氏子としていった(機能としての異教監視・新生児把握は、戸籍法とのだぶりで意義を失った。宗門制度の考え方も頓挫している。)。
 神社を取り巻く制度が次々と変革され、特に①社家の世襲禁止によって、従来の社家の多くは追放され、長く続いてきた伝統的祭祀・神事も多く消滅していった。また、②社寺領上知令によって、境内地以外の全社領を没収され経済面でも大打撃を受けた。このように弱体化し「国家の宗祀」たりえなくなった神社に明治政府は切り捨て政策を実施する。明治十年代頃には、官国幣社以外の神社・神官を一寺院と同列に扱う措置をとり、明治十五年には官国幣社の神官と教導職の兼任が禁止され、維新以降普及していた神官が葬儀を行うことも禁止された。明治二十年には官国幣社保存金制度の導入(国庫支出の廃止)・官国幣社神官が廃止され神職になった。
 明治五年(一八七二)神祇省を廃止し教部省を設置し、教導職を設け(教導職には全ての神職に加え僧侶も参加し、地域に小教院・府県に中教院、東京に大教院をおいた。)、神道教義としての十七兼題文明国家の徳目としての十一兼題を説くべき題目とするようにした。その後、教導職に民間宗教者も参加するようになり、また、「教会大意」の通達により、民間宗教者の宗教行為を国家公認とする根拠を与えてしまい、「教会」「講社」を法的に認めることとなった。
 浄土真宗は、薩長藩閥間の対立を背景に、「治教」と「宗教」を区別し、教導職は「治教」に専心すべきとして大教院からの離脱運動をおこし、明治八年には神仏合同布教が中止された。神道側は神道事務局を設置し、大教院は解散となり、明治十年に教部省も廃止され、これを社寺局が継承し、明治十七年には教導職も廃止された。
 明治二十二年明治憲法が発布され、明治二十二年から二十三年にかけて、「神祇道」は宗教的な神道とは区別された「国家の宗祀」であり、複数の官庁で分掌されていた祭儀を統括すべきだとの主張により「神祇官設置運動」が展開されたが政府には動きがなかった。明治三十三年になると社寺局を宗教局と神社局に改組し、神社=非宗教論を制度的に裏付けることになった。
 神仏分離令によって、一見、仏教が弾圧され神道が保護されたように見えるが、神道も次々と手足をもがれ、厳しい規制を受け、国民精神の統合のために上手く利用されていったようにしか思えない。


五 明治維新から終戦まで 一 神仏分離

2012-01-26 19:20:38 | 日記・エッセイ・コラム

 一 神仏分離
 江戸末期の国学・水戸学の流れに沿い祭政一致と王政復古を掲げ、明治政府は、慶応四年(一八六八)祭政一致・神祇官再興の布告(いわゆる神仏分離令・神仏判然令)を行った。天皇家においても明治元年孝明天皇三年祭から神仏分離が行われ始める(江戸期まで天皇家では仏式の祖先祭祀を行っていた。)。
 一般の神社では、おおむね神仏分離が粛然と行われていたが、今日なお幾多の社殿に仏像や懸仏が奉安されていたり、大般若経をはじめとする経典類などが残されていて、分離が不徹底な一面も窺うこともできるが、仏教伝来以降長く続いてきた神仏習合は一瞬の内に崩壊させられたのである。
 明治維新の神仏分離は、神社境内から塔・経蔵・鐘楼・仏堂などの仏教建築を除去するだけにとどまらず、神社本殿自体の細部形式にまで波及した。すなわち、仏教建築に由来するという理由から、組物を用いること、彩色を施すこと、象などの彫刻を加えることも批判され、また、屋根には千木や堅魚木を乗せることが当然とされた。神社の各社殿の標準的な規模形式を図示した制限図が刊行され、その流布応用が促進された。そうした背景によって、厳島神社では、各社殿から平安以来の朱塗の彩色が掻き落とされ、本殿の屋根に千木・堅魚木が新たに置かれるという改造が加えられていた(後に復旧)。


四 近世における変化  四 神基習合

2012-01-26 19:18:10 | 日記・エッセイ・コラム

 四 神基習合
 神道とキリスト教は昔から相反する存在のように思われがちだが、一五四九年に来日したイエズス会のフランシスコ・ザビエルは改宗者ヤジロウの意見に従いデウスを大日と日本語訳していた。大日如来は、あらゆる現象を生む宇宙の根元とされ、伊勢神道などでは天照大神と同一視されていたが、ザビエルはデウスと類似した性質を感じていたと思われる。しかし、唯一絶対のキリスト教と汎神論的大日如来との相違からこの訳を止めた。次にビレラは、天道(道徳的に善い行いをすると善い報いを受け、悪い行いをすると悪い報いを受け、それは現報だけでなく子孫にも及ぶとするもの。)と訳した。その理由は、死生観の類似と吉田神道の大元尊神(国常立尊=天御中主神)の影響を受けたためである。ただこの訳も汎神論的性質のため取り止められ、原語のデウスで表されるようになった。これらのことからキリスト教は中世の神道と交わり、布教に大きな影響を受けていたことが窺える。
 しかし、徳川の幕藩体制にはいると、朱子学が中心的観念となり、キリスト教は都合の悪い存在になっていった。その理由は、キリスト教が神に対する戒律(断食・懺悔・ミサなど)と人に対する戒律(主君への忠義・親への孝・隣人愛など)との二重戒律を持っていたためである。例えば、幕藩体制に必要な主君への忠義に対して、ゼウスは絶対であってクリスチャン同士はたとえ敵になっても戦わなかったり、捕虜にしても逃がしたり、一緒にミサをしたりと、矛盾を至るところで生じたことなどである。
 幕藩体制は寺社を保護し統括していたが、神道はキリスト教と同様に都合の悪い存在になっていた。「日本は、天照大神の生まれた国で、天皇を中心に国家と民族が一体となる」という思想により、幕府が政権を委託されたものでのみあれば矛盾を生じないがそれ以上になろうとしたとき相反する存在になっていくからである(宣長の顕露事等)。
 宣長の「本教外篇」はキリスト教の教義書の敷き写しないしは転合書きと言われ、天御中主神をデウスになぞらえ現報の様なことを説いている。平田派も「アダムとイブはいざなぎのみことといざなみのみことだった。」と言うなどキリスト教の影響を受け、幕藩体制に都合の悪いもの同士が習合したことにより、神道は、キリスト教の「神の創造と支配・神への絶対服従」などの神観念を取り入れていき、討幕運動に進んでいく。


四 近世における変化  三 本居宣長と天照大神

2012-01-26 19:15:55 | 日記・エッセイ・コラム

 三 本居宣長と天照大神
 宣長は市川匡麻呂との論争で天照大神を「今まのあたり世を御照し坐す天津日(天日そのもの・太陽)」であるとし、外国で天照大神が知られていないのはその徳化の行き渡らないためではなく古伝説の有無によるとしている。しかし、太陽の昇らない国は無いし、太陽崇拝を行っている国は多かったはずであり、その国の王の中には太陽の子孫である古伝説を持つ者もあったはずで、そうであるならば彼らも皇孫と認めるべきであろうか。皇孫ではあるが三種神器を授けられていないから皇統とは言えないと言うことも出来るかも知れない。だとしたら、天照大神である太陽は空に変わらずおわし坐す以上、葦原中国を平定するために天孫を降らせたように世界の他の地域全てを平定するために幾度も天孫を降らせて当然であり、世界中が天孫に国譲りを行ってしかるべきである。
 また、天照大神が太陽であるならば毎日礼拝することが出来るのに、なぜ、内裏にお祀りし、後に笠縫邑を経由して伊勢にお祀りしなければならなかったのか。伊勢神宮内宮を礼拝するとき素直に天照大神に手を合わせているが太陽に対してのそれは太陽の恵みや有り難さに対するもので天照大神と同一に考える事が出来ないのは私だけであろうか。私は、当然自然物自体に霊や神は宿っていると考えているが、名前を持った神がその自然物と一体とは考えない。例えば、御年神は稲を司る神であり、水波能売神は水を司る神であり、神そのものが稲や水ではない。稲にも水にもそれぞれ名を持たない霊が宿り、それは尊い神の恵みによってコントロールされているのではないだろうか。そのことから、太陽は日神・月は月神と見るべきではないだろうか。天照大神が太陽であるならば伊勢神宮不要説に繋がる可能性があるように感じる。私にとって伊勢神宮は天照大神が御鎮座されている大切なお宮である。
 また、「皇位は不動であって、万代、皇位を窺い天皇に背く者はありうべからざること。」としていることについて、明治政府の地盤固めには、都合の良い理論で積極的に述べられてきていた。しかし、昭和二十年八月十五日の敗戦以降、顕露事・幽事のシステムは破壊され、占領軍が、占領軍独自の思考(当然国政委任ではない。)で、日本の国政を行い、新憲法施行後も、安保条約等で事実上の間接支配を続けていると言えるであろう。国会の開催などを見ていると顕露事・幽事のシステムが修復されているように感じられるが、実際には形式のみの修復であり、実質の修復が成されない限り、中国四千年の歴史と五十歩百歩になってしまう。出来る限り早期の実質修復が成されなければならない。


四 近世における変化  二 近世の国学(復古神道)

2012-01-26 19:12:59 | 日記・エッセイ・コラム

 二 近世の国学(復古神道)
 その国学の流れを見ていくと、中心的役割を担った人物として、契沖・荷田春満・賀茂真淵・本居宣長・平田篤胤が挙げられる。
 契沖は寛永十七年(一六四〇)に生まれ、僧侶として難波今里妙法寺で和歌について学び「漫吟集」を作り、高野山時代には梵語を十分に習得したことが基礎となり、「古典和歌の研究」「古典の語学を中心として研究」「学問的随筆」「歌集」を学問の主題にしていた。いにしえを在るがままに受け入れる姿勢で(批判・取捨を避ける。)、和歌を知り作ることが古代に近づく最高の手段としている。また、三教融合説を説きながら神道を儒仏より優先させ、日本を「神国」と表現していた。
 荷田春満は伏見稲荷大社の神官の出で寛文九年(一六六九)に生まれた。春満の学問は神典歴史から制度に関するもの、万葉集その他の和歌に関するもの、国語に関するものと多岐にわたっているが、基本線は社家としての神道学者から次第に和学者へと進んだ人である。
日本書紀の研究中に「本朝の道は神代上下に尽してある也。」「正道の日本紀神代巻を学びて、教誡を神代の善悪の神の其行を見て、勧善懲悪の教誡を求むべし。」と言っており、これが神祇道徳説である。春満も国常立神を神々の根本に据え、八百万の神たちをその徳の分化した存在と考え、天神を善、国神を悪とし、天神が造化成した葦原中国を、国神が支配し善悪邪正や義理道徳の差別もない蒙昧な地にしてしまい、この葦原中国に道を開くため天孫を降臨させたという認識を基本にしている。神については、日本書紀神代巻箚記に「神は魂と伝ふること也。かの国の中より清潔なる葦牙の如くなるもの、何にかゝはらず、すふとぬけ出でたる所、此神となり給ふ也。然れば神は天地の魂と見る可し。形にしても窺へども、実は魂と窺う可きこと也。」「神明には生々無窮の義を神徳となされ、神慮の本となし給ふ。是神明の大徳也。」と有り、魂に重点を置いていた。神を玉(魂 吾身の主は魂也)・劔(気 生命力)・井(水 形作るもの)を受けて成るものと考えている。
 賀茂真淵は元禄十年(一六九七)に生まれ、壮年期に学に志し春満の門弟となる。真淵の万葉集を中心とした古学は古言と古意(「文意」「歌意」「国意」「語意」「書意」の五意に分析考察)の闡明に重点が置かれ、古道(神々の示し給うた秩序)の闡明を最終目的にしていた。
 万葉集を研究する中で古代人の「ますらおぶり」に憧れ、素戔嗚尊の暴挙とそれに対する天照大神の態度を例に男は荒魂・女は和魂を得て生まれたとしている。
 また、神道を「皇神の道(天皇の踏み行う道)」「天つかみろぎの道(万民の踏み行うべき道)」に分けて考えている。「皇神の道」を要約すれば①神祇を崇敬し給うこと②天皇の陵威を重んじ給うこと③万民を愛撫し給うこととし、「天つかみろぎの道」を①神祇を崇め敬うこと②清明の真心を以て天皇を畏み敬すること③義勇以て克く天皇に仕え奉ることとしており、神祇崇拝を大切に考え、元来の神を上としていた。真淵は、古事記の研究にも着手していたが道半ばで本居宣長に託すのであった。
 契沖・荷田春満・賀茂真淵の学問を統合し、組織的国学に大成したのが本居宣長であった。 中国は四千年の歴史と言ったりするが途中で北方の騎馬民族などによって支配する民族が替わってきている(禅譲・放伐)。宣長は、それに対し日本の国体について、天照大神の生まれた国で、三種神器・天地無窮の神勅により皇統は絶えることなく連綿と続いており、神代から在るがままに天皇にお仕えすること、天皇を中心に国家と民族が一体となっていること、皇統から別な者に替わることが無かった故に、道を論じたりと言うような言挙げをしないことが国柄であるとしている。
 仏教や儒教については、日本古来の良い習慣が、外国からの風潮に紛れたり、弊害を受けたりしている現状を非難し、世の中は全て合理的に解釈や説明が出来るものではなく、古伝説に基づき実利的に物事は考えるべきとしている。神には善きも悪しきもあって、人知では測りがたく、世の中の不条理なことは禍津日神の御心によるものとしている。即ち、神とは①凡そすぐれて霊異有る存在であり、②多種多様であり、③人知では測りがたいものとしている。
 また、幕藩体制を説明するのに、大国主神との幽契によって顕露事は皇孫、幽事は大国主神としたことを基本に、顕露事を「国勢の行い方」と「惣体の人の行うべき事業」に分け、天皇の親政は前述の通りだが、「惣体の人の行うべき事業」を国政委任という手法をとって行っていると考えている。
 神道に関しては、神授神伝の大道であり、上古からの大御手振りと位置づけている。そして、秘伝・秘技などを否定し、教誡を無用のものとし、神祇祭祀・祖先崇拝などひたすら神に仕える生活を求め、人の力で解決できない世の不条理に座視できないと、直毘魂にすがり直し清めたいと願っている。
 平田篤胤は宣長の継承者を自認し、神霊にはそれぞれの役割があるとして、多様化した宗教を統一していこうとした。特に関心を持ったことが死後の世界であった(宣長が霊魂の行方を黄泉の国としているのに対して、死後の霊魂は地上に存在しているとし、研究の中心になっていった。)。幽契によって幽事を主宰するのは大国主神であるとし(人が生前なした善悪は産土神を通じて大国主命神に報告され、死後の運命が決まるとしている。)、また、祖霊崇拝は仏教的ではなく神に関する儀礼であるとし、死後観について影響力の強かった仏教の言説を退けた。そして、世界のあらゆるものを神秩序から説明しようとし、本来の純粋な在り方の究明を図り、神仏習合以前の信仰を明らかにしようとする人々の共感を得た。晩年に白川家と接近して、平田派は勢力を拡げ、このことが国学者たちを神仏分離運動や教派神道に向かわせた。


四 近世における変化 一 江戸期の神道

2012-01-26 19:04:47 | 日記・エッセイ・コラム

 一 江戸期の神道
 江戸時代に入ると社会・経済が安定を取り戻し、国家的祭祀が復興されるようになってきた。そして、神道制度の復活・整備の基盤造りが行われ始めた。そのような中で神道説が諸説広まり、また、神道思想から仏教思想を取り除こうとする流れも確立してくる。この時代の代表的なものを簡略に示しておく。
 伯家神道 吉田神道によりその地位を脅かされた白川家は、花山天皇から出た家柄で神祇伯(神祇官の長官)を世襲した名門であった。宮中に伝わる各種の神事作法や独特の古伝や祭祀のやり方を広め、家伝の文書を整理して、「伯家部類」「神祇家学則」「神道通国弁義」などを発表した。これにより巷に広まっている他の神道との違いを明確にし、伯家神道を権威付けようとした。この神道を簡略に述べると、古今通じて変わらぬ根本原則で、どこの国にあっても通用する大道であり、また神道と武道は同じであるとし、「古事記」「日本書紀」「古語拾遺」を研鑚することにより身を修め、家を整え、国を治める要領を理解できるとしている。
 吉川神道 吉川惟足が吉田神道の影響を受け(萩原兼従から唯受一人の伝授である四重奥秘を授けられる。また、天地万物の根元を国常立神としている。)、儒教思想を取り入れて仏教の要素を取り除き吉田神道を再編成したものである。特徴としては、行法神道(祭事や日常の神明奉仕を行うこと。)と理学神道(世を治め政治を行うこと。)に分け、理学神道こそ本当の神道であるとした。また、陰陽五行説を取り入れ、土と金の調和を大事と考え、それは、人の心にあっては敬(つつしみ)と義に当たり倫理の大切さを強調し、国体の護持と君臣の道の遵守を神道の本質とした。
 垂下神道 吉川神道を継承(陰陽五行説を同じく説き、また、神道を天照大神の道と猿田彦神の教えとし、宇宙本体と道徳の根元を国常立神として「天神唯一の理」を説いた。)して山崎闇斎(元臨済宗の僧)が唱道した。闇斎は、神道は理論より信仰であるとし、「三種神宝伝」「神籬磐境伝」を伝え、儒教の大義名分の立場から天照大神への信仰とその子孫が統治する道を神道とし、天皇崇拝・皇室の絶対化を強調した。これを受け後に多くの尊皇家を育てることとなった(明治維新への伏線となった。)。
 土御門神道 日本古来の神道的行事と密接な関係を持っていた陰陽道を元にしており、阿倍晴明の末裔である土御門泰福が垂下神道に学び広めた説である。泰山府君祭・天曹地府祭と言った特殊神事を行い、天下太平、天皇安穏、人々の安楽の祈願を中心とした。
 この吉川神道・垂下神道の流れを受けて起こったのが復古神道(これら儒家神道を「漢意」として批判し、純粋な神道思想を求めた国学)である。