玖波 大歳神社

神社の豆知識

三 中世における変化  八 戦国時代から徳川幕府へ(在地領主制からお国替えへ)

2012-01-25 21:17:35 | 日記・エッセイ・コラム

 八 戦国時代から徳川幕府へ(在地領主制からお国替えへ)
 応仁の乱などの動乱期に多くの神社は衰退していった。神宮・朝廷すら例外ではなかった。寛正五年(一四六四)に即位した後土御門天皇の頃からおよそ四代の間、式年遷宮は百二十四年、神嘗祭例幣が百八十年、大嘗祭に至っては二百二十一年途絶えてしまっている。この事は、式年遷宮を二十年ごとに行う理由として言われている技術等の継承・伝統の護持などの意味を失わせてしまう(天正十三年(一五八五)の復興から長い時間を掛けて本来の姿を求めて諸先輩方が努力し、現在に至っているが、その間本来の姿でなくても遷宮と認めてきているし、途絶えた間、儲殿や仮殿で凌いでおり、それで済むのであればそれで良いと考える者も少なくないだろう。また、完全な継承が出来ていないのであれば、一般の神社が、茅葺きや柿葺きや檜皮葺の屋根を銅板に張り替えざるを得ない状況になっているのと同様に神宮も銅板ではなぜだめなのかとの主張も出て来るであろう。どうしても二十年毎でなければならない理由をもっと説得力のあるものにしていかなければならないのではないか。尚、技術や伝統行事所作等に関してはデジタル機器で保存が可能である。)。また、大嘗祭を行わなくても正統な天皇として認められていたわけで、大嘗祭の存在意義についても疑義が生じる。この時代が現在の教学を更に複雑なものにしている。
 ただ、在地領主はそれぞれの氏神を始め地縁の神社を崇拝し、保護しようとしていた。そのおかげで持ち直すことの出来た神社も多々あったようである。しかし、慶長五年(一六○○)の関ケ原の戦いによって、旧来の在地領主の領地も収公となった。新しく入国した領主の有り様は様々で広島を例に見ると、安芸国においては福島家・浅野家であるが、どちらも村の氏神社との関係を持とうとしなかった。それどころか、一部の神社を除いて(広島東照宮と広島三の丸に稲荷神社を建立し、宮島の厳島神社と豊田郡豊町の宇津神社を保護し、江戸末期には浅野氏の始祖を祀る饒津神社を建立したのみ)社領も安堵せず、これにより中世の在地領主たちが護持してきた氏神社は、大檀那として造営、修理する者を失い、経済基盤が崩れていった。氏神社の祭祀経費も全く無くなり、十七世紀の神社の大荒廃期を迎えることになった。
 これとは逆に、備後国では福島氏改易後、水野氏の領国となり、浅野氏とは異なって十七世紀造営の本殿がかなり残っており、神社の造営をかなり援助したことが分かる。吉備津神社は中世末期にはかなり荒廃し、福島正則時代には大鳥居も奪取されて広島城大手門の門柱になるような状況であったが、水野氏によって完全な復興を見た。水野氏は、鞆ノ浦の祇園社(現、沼名前神社)や城下の福山八幡宮も復興しており、水野氏によって復興がなされた神社は数多い。
 このように領主により神社の盛衰はかなり異なるが、徳川政権が安定してくると、全体としては、経済状況も良くなり一般の人々の暮らしと共に回復の道を歩むこととなった。藩による護持と一般の人々による維持に分化していった時期と言えるであろう。一般の人々による維持は現代の神社の有り様に似通っている。


三 中世における変化  七 吉田神道(元本宗源神道)

2012-01-25 21:15:47 | 日記・エッセイ・コラム

 七 吉田神道(元本宗源神道)
 室町後期、吉田兼倶によって大成されたが、これは兼倶以前の吉田家の家学としての古典研究や慈遍等の業績の積み上げである。吉田家は卜部氏の末裔で亀卜を司る家柄であり、吉田神社の世襲神主であり、卜部兼方、卜部兼好、慈遍などの学者が出ている。吉田神社は、平安中期に藤原氏が春日大社の氏神を京都の神楽岡西麓の吉田山に勧請したのが始まりであり繁栄したが、兼倶の頃になるとすっかり荒廃していた(吉田神社だけでなく応仁の乱などの動乱期に多くの神社は衰退し、重要な国家的祭祀も中絶していった。)。兼倶の宗教・政治の卓越した才能(戦火で外宮が焼け御神体紛失の噂が流れた時、戦乱を嫌って吉田神社に神器と共に移られたので調査して貰いたいと朝廷に願ったことなど)により一挙に総本山的地位の基礎を築きあげた。更に、兼倶は大元尊神(国常立尊=天御中主神)を祀るために大元宮を建てその周囲に日本国中の神々を祀り、神祇伯を世襲してきた白川家に対抗して、「神祇官領長上」を僭称し、それを幕府に承認させたのであった。
吉田家は中世末期から宗源宣旨・狩衣許状・継目許状(神道裁許状)などを出して支配力を拡大していたが、家元的地位は寛文五年(一六六五)の「諸社禰宜神主法度」第三条で吉田家の許可による装束の着用との明記により、確立し、幕末まで続く。
 思想面から見ていくと、神とはすべてを超越した存在であり、神は霊的存在にして万物(善悪、邪正を問わず)に宿り、物心すべての存在は神と共にあるとし、すべての現象は神明によるものと考え、その根元が神道であるとしている。また、辺土思想や本地垂迹説に対抗すべく、根本枝葉花実説(日本から種子を生じ、中国で枝葉を現し、印度にて花実を開く。仏教は万法の花実で、儒教は万法の枝葉で、神道は万法の根元であるとし、仏教も儒教も神道から分かれたもので、神道が根本であることを明らかにするために日本にやって来たものであるとする説)により神主仏従論を展開している。更に、元本宗源神道は顕露教と穏幽教に大別され、顕露教とは先代旧事本記・古事記・日本書紀の研究や各種祭祀を延喜式祝詞を持って行うもので、穏幽教とは顕露教に無い神秘的な奥義で万宗・諸源の両壇を設けて、神道三元三妙三行という加持を行った。

関連サイト http://www.geocities.jp/miniuzi0502/jinjadistant/kyoto/daigenkyu.html


三 中世における変化  六 正統

2012-01-25 21:04:04 | 日記・エッセイ・コラム

 六 正統
 「神皇正統記」は北畠親房によって皇位が神代からの正しい皇統、また道理によって受け伝えられてきたことを明らかにしようとするもので、北畠親房の国体論を表す一方で後村上天皇の参考に資する目的で著されている。度会家行と親交の深かった親房は、伊勢神道を基盤に(特に「類聚神祇本源」を参考に)して、「元元集」を表し、伊勢神道の「正直」という徳目を中心に神道説を述べ、同時期の「二十一社記」では神明奉仕の心得として「身正しく心明なれば我身即神也…」と述べている。南北朝時代は、後嵯峨天皇が二人の皇子(後深草天皇・亀山天皇)に対する愛情の違いで正統を逸脱したことから生じたといえる。後深草上皇に同情した幕府が間に入り、後深草上皇の子を亀山天皇の養子とし、次の天皇とする案を示し、両者これに合意した。そして、後深草上皇の系統を持明院統、亀山天皇の系統を大覚寺統と呼び、ほぼ交互に皇位を譲り合っていたが、誰にでも想像できるように問題が生じ、後醍醐天皇の頃が互いのフラストレーションを解消すべき時期にきていた様に思われる。後醍醐天皇は朱子学(宋学)に力を注ぎ正統意識と大義名分の依代にしていた。朱子学に基づくものなのか朱子学の理念を利用したのかは定かではないものの、天皇の地位が幕府によって決められることを認めず、ひいては幕府に従う必要はないとし、更に自分が正統であるから持明院統を否定する立場と信念を持っていた。また後醍醐天皇は、密教に傾倒し、「聖天供」を自ら行うほどで、倒幕の祈祷を別の祈願の名を借りて行っていた。加えて、比叡山や東大寺興福寺などを引き込むために大日如来修復など様々な画策を行っていた。寺社の力を後醍醐天皇が重く見ていた表れであろう。親房自体は、検非違使庁の別当に任ぜられ、正中の変・元弘の変の後長子顕家は後陸奥守に任ぜられた。元弘の変の後、北条の残党によって各地で反乱が起き、中先代の乱で北条時行が鎌倉を奪還した。足利尊氏は独断で鎌倉を奪回し、天皇の帰京命令にも従わなかった為に、天皇は新田義貞に尊氏征伐をさせた。尊氏は、義貞勢を破ったが、北畠顕家勢に追われて九州に逃げた。尊氏が志気を上げるために考えたのが「錦の御旗」である。備後の鞆に着いたとき醍醐寺三宝院賢俊から持明院統の光厳上皇の院宣を受けた。これにより尊氏勢は朝敵から正統になり、楠木勢は破れ、比叡山で抵抗を続けていた後醍醐天皇は光明天皇に三種神器を授けた。暦応元年・延元三年(一三三八)顕家・義貞が相次いで戦死し、翌年、後醍醐天皇が崩御された。親房はその訃報を常陸国の筑波山南禄の小田城で聞き、自らが南朝を支えなければならない覚悟をする。尊氏と弟直義は後醍醐天皇の怨霊を恐れ夢窓疎石の勧めに従い禅宗の天龍寺を建立した。親房は関城に移り結城一族に協力を求めたが、逆に陥落させられ吉野に戻ることになった。尊氏と直義の兄弟対決が表面化し親房は偽りの和議で直義の帰順を許し、兄弟対決となり尊氏勢は総崩れとなり直義との和議となったが、執事高兄弟が戦死し、天下三分の形成(京に尊氏・義詮、吉野に親房、越前に直義)になった。しかし、尊氏は直義を討つための大義名分を得るために親房と和睦し、直義追討の綸旨と「公家のことは南朝方の沙汰、武家のことは尊氏方の管領」との勅許を受け、北朝を見捨て、元号を正平に統一(正平一統)した。正平七年(一三五二)相模早河尻で尊氏が勝利し、直義と和睦したが間もなく直義は毒殺された。正平九年(一三五四)親房も世を去った。その頃(一三五五)南朝方は各地で蜂起し、南朝は尊氏の実子で直義の養子直冬を大将として京・鎌倉を制圧した。尊氏・義詮は勢力を立て直し奪還したが、京に天皇はなく、光厳院の第三皇子弥仁を擁立して、後光厳天皇とした。しかし、三種の神器が足らない践祚であったために権威は低下していった。八幡に落ちた直冬は更に戦うか否かに群議で決せず八幡の託宣を求めたが「垂乳根の親を護る神がこの願いに応えることは出来ない」とのことで直冬勢は分解してしまった。尊氏の死(一三五八)後、義詮は九州以外のほぼ全域を勢力圏とし、幕府は安定し始めた。
 この時代で見るべきものは、第一に、承久の変の時上皇等が流刑された状況と違い、後醍醐天皇が何度破れても立ち上がり信念を貫き通した姿勢である。多くの人は世間体や人の目を気にしてその場を取り繕い済ますであろうが、危機を迎えた時代こそその姿勢を見倣わなければならない。第二には、リーダーに現実的な力が無くても、「三種神器」・「錦の御旗(綸旨・院宣)」・「託宣」と言った「正統」を手に入れることにより実力以上の力を示すことが出来たことである。今の時代でも、伝統の中にある力を信じることが大切である。第三には、自分で望みを達成することが出来なくても、全身全霊をかけて努力をしていれば、後に続く誰かが成し遂げてくれるだろうという楠木正成の「七生報国」的な考え方である。自分一代で事を成就すると考えるのではなく長いスパンの上に立った行動が大切であることを示している。法治社会では法こそが正統であるが時代の歯車が少し歪めば法が絶対ではない。そうなった時に神代から繋がる正統が復活しなければならなくなるであろう。このような生き方・考え方を日々に生かしたいものである。
 その後、義満の時代になると武士の棟梁として武力で山名氏、大内氏を征伐したが、宗教を原理にしていた勢力には別の方法を採った。伊勢の北畠親能に対しては、伊勢神宮に参拝し、莫大な寄付を行った。大和では、春日大社・東大寺・興福寺に、比叡山では、延暦寺・日吉神社に、紀州では、高野山・粉河寺などに参拝巡礼し、同じく莫大な寄付をやってのけた。公家たちに対してはアメと鞭を使い分けることを毅然とやってのけた。このことで南朝方は義満に敬服し、幕府は安泰な状態になった。日本において、力によって相手を打ちのめすだけでは、安定を得ることが出来ない、相手の弱みを利用したり、相手の欲しているものを相手が感服するぐらいに与えることで初めてリーダーになれるのではないだろうか。


三 中世における変化  五 宮座

2012-01-25 21:01:35 | 日記・エッセイ・コラム

 五 宮座
 氏族(血縁的関係)の祖先神であった氏神は、水稲農業を背景にムラという共同体(地縁的関係)による生活を連綿と続けているうちに、産土の神・鎮守の神と合一化してきた。故に地域に即した神であっても氏神であり、地縁的集団であっても氏子集団と呼ばれるようになったのである。古くは、政治、財物、生産等々何事によらず氏神を中心に行われ強固な共同体であった。それは、鎌倉時代以降、その土地に新転入してきた者たちよりも特別な世襲的地位を持つようになり、神社祭祀組織の一形態として近畿地方を中心に全国に分布する。それは「宮座」と呼ばれ氏子全体を代表して氏神に奉仕すると共に、氏子全体に対する神の代行者としての地位を占めていった。村落の神社に於て見られる宮座の名称は、宮座の他に、頭屋、祷屋、塔屋などと書く他、宮講、氏神講などと云われ、土地によって違いがある。
 この祭祀組織は当屋制であり、一年交代の当番制をとるものである。宮座の座員の中から、年毎に頭屋とか頭人を選び出して祭祀を主宰せしむる場合が多い。頭屋・頭人は、厳しい物忌の生活を行い祭祀の厳修につとめ、祭のあと頭屋渡しの儀式が行われることにより、次の祭りの頭屋が決まり、神饌米も、頭人や座員が耕作していた。氏子の神社祭祀や維持への積極的な参加が見られるようになり、こういった組織が全国的に普及して、村祭の共同体が広く強く組織化され、今日に於ける神社と氏子との密接な関係の基盤が築かれていった。
 昨今の激しい社会変化により、信教の自由も伴い、氏子意識が薄れていく中、地方における過疎も加味され宮座の維持には大きな努力が必要とされている。僅か五十年そこそこの時代の変化で意識も形態も失うことがあってはならないと思う反面、日本のアイデンティティーは失われることなく、本来あるべき姿(正統)は何時の時代か復興されるとも思う。正統の中でも、天皇の正統や国体やリーダーの在り方について深く考えたのが北畠親房であろう。


三 中世における変化  四 和光同塵

2012-01-25 20:59:10 | 日記・エッセイ・コラム

 四 和光同塵
 和光同塵とは、仏が光を和らげて煩悩に満ちた俗世の塵にまみれた姿となって顕現し、衆生を救済するという思想で、日本では神の性格について説く際によく用いられた。果報が薄く、機根の劣っている辺土である日本の人間を救うために時処機相応の和光の方便として現れたのが神であるということであろう。更に進めて、仏が人として生前に苦労をし、死後神として祀られるという信仰をも形成していった。「愚管抄」の中の「観音が和光同塵して菅原道真になり、憤死後、天神として祀られる。」といったようなものである。
 弘安六年(一二八三)に成立した無住一円の『沙石集』には、「本地垂迹その意同じけれども、機にのぞむ利益、暫く勝劣あるべし。わが国の利益は垂迹のおもて猶すぐれて御坐すをや。…中略…青き事は藍よりいでて藍よりも青きがごとく、尊き事は仏よりいでて仏よりもたふときは、ただ和光神明の慈悲利益の色なるをや。」とあり、一般の民衆にとって、神と仏のどちらが本であろうと従であろうとあまり関わりなく、自分達に直接関り、利益を与えてくれる神仏に興味を持つと同時に、それを本当の崇敬の対象として受け止めていたと言えよう。
 室町時代に入ると、仏が神の姿を借りて衆生救済に赴くという「本地物」と呼ばれる作品群(『神道集』、『群書類従』や『続群書類従』に収載されている諸社の縁起)が多く語られている。その縁起に重点を置いたのが縁起神道である。縁起神道は、各神社の御祭神の神徳の高揚をはかろうとしたものである。伊勢の御師や熊野比丘尼をはじめ、歩き巫女、勧進聖、先達、神人、説経聖、修験者、絵解法師などと称される回国遊行の宗教者や芸能者が、様々な縁起を語り歩き、あるいは、絵を見せながら縁起を語り、一般民衆の中に唱導していった。その縁起の例として次のものを揚げておく。
 『神道集』収載の「三島大明神の事」には、池溝を掘り、橋をかけ、渡し舟や湯屋を設けて、民衆の労をねぎらうとともに、生活を助ける神が語られ、「熊野本地」では、印度に於いて十一面観音が和光同塵した美女は、国王の千人の妃の一人となって殊の外寵愛を受けて身ごもったので九百九十九人の妃に妬まれて山中で首を切られた。しかし、首無き母は産まれた子に乳をふくませ育て、その子が大きくなったとき蘇生してその子と共に日本に飛来し、熊野山中に鎮まったとしている。
 律令時代に於いて、神職の務めは、極めて厳格な斎戒のもとに祭祀を奉仕することが第一であり、第二に神域を清浄に保ち、施設の管理を正しく行うことであった。しかし、世の中が不安定になっていったことと家の発達につれて共同体的社会を基盤にしていた神社は、より広い氏子、崇敬者等を獲得するため、神職や御師の活躍が要求されてきた。氏族や共同体の守護神である神々に対して、神と民衆を結びつける必要が生じた。如何なる形で一般大衆に根を下ろすことが出来るかが命題であったと言えよう。また、それはあくまで大衆の捉え方であり上から押しつけることの出来るものではなかったであろう。次に、根を下ろしていった一形態として、宮座について述べる。


三 中世における変化  三 神=心合一

2012-01-25 20:58:03 | 日記・エッセイ・コラム

 三 神=心合一
 権神・実神・本覚神という分類の中で実神こそ神の本質であり仏の利生を示すものであるという主張が現れる。一方で神を仏教における煩悩を生み出す三毒(貪欲・瞋恚・愚癡)の象徴の蛇とし、他方で仏の化身としている。故に神は衆生の煩悩の形象化した姿で衆生の心中に常に内在しており、同時に仏が垂迹した姿とする説である。神が衆生の中に内在するという考え方は、仏教の「仏性」という考え方から出ていると言われている。これは、衆生が成仏可能なのは、本来的に誰にでも仏になるべき因子が内在しているというもので、これが発展して、すべての衆生は本来覚っている存在であり、必要なことはそれを自覚することであるという本覚思想になり、神=心合一となった。それが実神権神の区別の意味を失わせ、仏が神の姿を借りて衆生救済をするという和光同塵へと移っていく。


三 中世における変化  二 末法思想

2012-01-25 20:56:26 | 日記・エッセイ・コラム

 二 末法思想
 平氏が朝廷の中で藤原氏を手本にしたような政権作りを行ったのに対し、源氏は可能な限り朝廷の認可による権力の社会的正当性を認めさせていった。公権力二元化は社会的機能を分担することで成立し、時代は力の均衡状態で揺れ動く状態が中世を通して続いていった。伝統的な共同体維持制度と中国から採り入れた律令制度との二重構造社会に公権力の二元化がのしかかり精神的な救いを求める時代になってきたとも言える。末法辺土思想もこの頃から注目されてきた。
 釈迦が正法の時代、像法の時代、末法の時代の時機に応じて説いたという思想が時処機相応思想で、正法の時代とは釈迦の教法が世に行われ、大衆の機根も優れ、修行によって証果を得ることのできる時代、像法の時代とは教法が衰え相似の像法が代わりに現れ、大衆の機根も弱まり、修行をするもその証果を得ることのできない時代、末法の時代とは大衆の機根薄く濁悪な世相になり教法のみがむなしく残る時代と言われている。辺土思想とは、須弥山を中心に離れるにしたがい果報は薄く、機根は劣っているとし、南閻浮周辺の粟散辺土の片州日本は須弥世界の中で最も果報は薄く、機根は劣っている人間の生まれ住む所とし、最澄はこの日本に相応しい教えは法華経であるとした。
 ここで天台宗の僧侶である慈円の思想について考えてみる。慈円は藤原忠通の子で、平氏滅亡の際、新帝即位に三種の神器が必須条件であるとした九条兼実の弟である。九条兼実が日記「玉葉」で春日大明神の冥助・天照大神と春日大明神の冥約(幽契)を語っており、その影響を受けて、承久の乱の少し前に「愚管抄」の中で、祖神の冥助・冥約思想を説いている。そのおおよその内容は、正法の時代を神武天皇から成務天皇の間と位置付け、天照大神一神の働きで天皇の親政が行われ、像法の時代を仲哀天皇から後三条天皇の院政開始頃の間と位置づけ、天照大神と春日大明神の二神の冥約により臣下の助けを必要(摂関政治)とする時期とした。次に末法の時代をそれ以降の期間として、前の二神に八幡大菩薩が相談をして、王臣の器量が衰えて武士が現れるも、平氏を滅ぼし、源氏を三代で滅亡させ九条兼実の孫藤原頼経を源氏将軍家の跡継ぎにし、この流れに背けば百王を待たずに天皇家は断絶し、日本も滅びるだろうというものである。このことは、摂政は藤原氏の他に無いことを理とし、動揺する関東武士たちに藤原頼経の将軍継嗣としての正統性を主張している。また後の室町時代の庶民信仰としての三社託宣がある。この信仰は、天照大神を中心として、右に八幡神、左に春日神を配し、神儒仏の融合の立場をとりつつ、正直、清浄、慈悲を強調して、神道教化の展開をはかったものである。
 承久の乱の時幕府側には遠江・信濃以東の地頭御家人が応じ、後鳥羽院側には尾張美濃を含む畿内・近国が応じ、結果は幕府側の勝利に終わった。戦後処理として反幕府方(西国御家人)は所領を没収され、東国武士に恩賞として与えられた。本領を離れ西国の神領に移住した者を西遷御家人と言い、神領地では征服者として支配を行っていった。武家政権の確立であろう。引き続き北条泰時が貞永元年(一二三二)に制定した五十一条の御成敗式目の神社祭祀に関する第一条は有名である。『神は、人の敬に依って威を増し、人は神の徳に依って運を添う。然らば則ち恒例の祭祀、陵夷を致さず。如在の礼奠、怠慢せしむるなかれ。関東御分の国々並びに荘園に於いては、地頭神主等、各其の趣を存し、精誠を致すべきなり。兼ねてまた、封有る社に至っては、代々の符に任せ、小破の時は且つ修理を加え、若し、大破に及びては、子細言上すべし。其の左右の随に、其沙汰有るべし。』としている。また、僧浄光の勧進で長谷の地に大仏の建立を始めた。敬虔な神仏・伝統を守る姿勢が窺える。
 この頃から、有力武将等の積極的な力添えを得ることにより、大社の分霊を各地に奉斎し始めている。先づ、源頼朝の東国進出により、関東一円に数多くの八幡神社が奉斎されるようになる。そして、鎌倉時代末には北条氏の力添えにより、信州の諏訪信仰が関東を中心に、庶民の信仰を得ていた。また千葉氏や大内氏の管内での妙見社信仰、有力な寺院の寺領荘園の増大による守護神たる日吉社や春日社の奉斎、鎌倉時代以降の神明社創建が行われたのである。そして、これらの神々の信仰は、中世、近世を通じ、現代に至るまで、一般の人々の力強い信仰に支えられている。
 また、「平家物語」の「おごれる人も久しからず、只春の夜の夢のごとし」ではないが、時代が下るにつれて、世が衰えるという歴史観に基づいて、一、神武天皇から成務天皇まで、二、仲哀天皇から欽明天皇まで、三、敏達天皇から後一条天皇の御堂の関白まで、四、藤原頼通から鳥羽天皇まで、五、武家の世で源頼朝まで、六、後白河上皇の院政から後鳥羽天皇までに分けて、歴史観の道理を論じている。慈円は他に、和歌論・日本語論を展開している。その内容は、神が仏の垂迹ならば、神が詠い始めた和歌は印度における仏の説いた経と同じであり、印度で梵字で書かれたものを唱え、中国で漢文に翻訳された教典を誦む様に、日本語で和歌を作り神に奉るべきであるというものである。おそらくこの頃から、神前に和歌による歌舞を奉納するようになったのではないだろうか。
 この時処機相応思想と末法辺土思想が、新仏教を生み出すとともに、神国思想と結び付き、日本国に本朝意識を発芽させていった。
 鎌倉時代には曹洞宗(道元)臨済宗(栄西)浄土宗(法然)浄土真宗(親鸞)時宗(一遍)日蓮宗(日蓮)など多くの仏教が発生した。これらの大半は、発生時に神祇崇拝を否定していても教団の発展のためには本地垂迹を受容していった。その方が大衆に受け容れられ易かったため妥協していったのであろう。
 本朝意識の発芽は、元寇によって日本人の国家意識を更に進化させていった。このことは、日本の国体について天照大神の子孫である天皇家の正統性、神の加護、国土の神聖視を再認識させ護持すべきことを求めるに至る。この頃、伊勢神道の中心的な書「神道五部書」が成立している。
 白村江の戦い(六六三)から六百年以上も外国との戦争を忘れていた日本において、蒙古との外交を行うことは日本国の存亡をかけた緊張感の日々であったと想像される。十八歳で執権になった北条時宗の朝廷との駆け引きも全くの手探りであったろうし、戦い自体国内戦しか体験しておらず、文永の役では、暴風雨がなければ勝ち目は殆ど無かったであろう。ただ、幕府にとっては、文永の役が終わる直前に御家人以外の本所一円地の住人にも招集指令を発し、この事で支配権が拡張したとも言える。弘安の役の際には石築地や土塁を積んだり準備を整えていたが恐らくこの時も暴風雨がなければ日本は属国になっていたと思われる。この弘安の役の後、得宗家の専制が強まっていった。しかし、それに反発して様々な職種の者が「悪党」化していった。また、戦後処理の失政などで幕府の基盤は崩れ始めた。


三 中世における変化 一 鎌倉時代初期

2012-01-25 20:55:02 | 日記・エッセイ・コラム

三 中世における変化
 一 鎌倉時代初期
 源頼朝は、神祇祭祀、寺社の造営修理に特に留意していたことが「頼朝朝務条々」から窺える。幕府は、社寺・神官・僧侶・祭祀・法会のことを司る役職として、寺社奉行を置き、伊勢神宮及び鎌倉周辺の名社には奉幣使がたてられた。特に伊勢神宮に対しては、神宝奉行が副えられ、災害や流行病などのために祈祷を行う御祈奉行、様々な神事を奉行する神事奉行、寺社造営を行うとき臨時に設ける造営奉行などを置き、神祇尊重の姿勢をとっていた。
 公家・武家共に財政の苦しい時に経済支援を行うことは非常に難しいことであったと思われるが、少なくともその姿勢は社寺・神祇を第一としていたと推測される。