-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

畑沢に残る無縫塔(むほうとう 墓石の一種)

2020-01-18 18:21:24 | 歴史

 無縫塔とは僧侶などの墓石として使われるもので、一般人には用いられなかったものです。最初は禅宗の僧職に使われたそうです。私の数少ない経験になりますが、尾花沢市丹生地区にある巣林寺の墓地には、歴代住職の無縫塔が多数並んでいました。勿論、畑沢出身の関嶺(寒嶺)和尚の墓石があり、一つだけ特大の無縫塔が建っています。


その無縫塔が畑沢で新たに見つかりました。約1年前、M氏が「荒屋敷の奥に石垣の石のようなものが多数ある」とおっしゃるので、春に現場を教えてもらいました。その場所は細野地区へ向かう古道の脇です。石の上を覆っていた枯れ葉などを取り除くと、沢山の石が現れました。その中に無縫塔があったので、直ぐにこれらは墓石であることが分かりました。その日はカメラを持参していなかったので、秋に再度、調査を行いました。枯草の下から形の整った大きな石の塊が沢山、出てきました。


   分類すると、下図の四種類です。

A型が2基、B型が1基、C型が2基、D型が2基です。特にC型は特徴的な形で、断面が円になっています。紛れもなく「無縫塔」です。D型はその台座になっています。組み合わせると下図のようになります。


 B型も特徴的で、江戸時代の初期に用いられた墓石の形だそうです。A型はその後の時代の墓石の形です。つまり、どれも墓石であることが分かりました。

 ところが、問題は何故、ここに墓石があるかです。昔、ここが墓地であったとの言い伝えがありません。そもそも荒屋敷地区住民の墓地は、荒屋敷から南西方向約500mの「南の沢」の中ほどです。現在、生涯学習推進センターが建っている場所の奥にあります。

 墓石は互いに重なることなく整然と倒れている感じです。この倒れている状態も墓石の由来を考えるうえで大きなヒントになります。極、最近も墓参りをしていたと思われる物がありました。杉の根元の洞の中に、花を供えるときに使われたと思われる瓶とペットボトルが数多く置かれていました。長年、花を供えた跡です。これらのことから、この墓石は捨てられたようなものではなくて、墓として供養され続けてきたものであることが分かりました。そして、無縫塔の存在は僧職に関わる者の墓があるということです。僧職と言えば、昭和56年に廃寺となった徳専寺を思い浮かべますが、徳専寺の墓は別の所にあります。ほかに僧職と関係することと言えば、畑沢地蔵堂の庵主が考えられます。しかし、庵主のものと思われる墓は、既に地蔵堂の北側にある如意輪観音の脇にもあることが分かっています。そこには無縫塔と長方形の墓石があります。


 にもかかわらず地蔵堂の近くに墓を建てないで、わざわざ離れた荒屋敷の奥に墓を建てる意味が考えられません。それでは、明治になっての廃仏毀釈によって、熊野神社周辺にあった庵主の墓などが、荒屋敷に捨てられたとも考えられますが、それにしては整然と立っていたと見られますし、供養もされていたのが不思議です。

 さて、たまたまH氏からも貴重な情報を頂きました。「荒屋敷の奥に墓石があり、G家が面倒を見ていた」と言うのです。G家と言えば、嘉永四年(西暦1851年)にS家とともに百万遍供養塔を造立しています。百万遍供養塔を建てる前に、両家を中心にして畑沢地蔵庵の中で「念仏講」の数珠を回しながら念仏を唱えたことが窺えます。その際には勿論、地蔵庵の庵主も一緒のはずで、庵主と両家は信仰を通じて固く結ばれていたことは当然、考えられます。地蔵庵は延沢の龍護寺を本寺としていましたので、曹洞宗に属していました。S家とG家も龍護寺の檀家です。


 さて、明治になってからの廃仏毀釈は、目に余るものがありました。全国的に貴重な仏教関連の物が破壊されたそうです。例えば荒町の八幡神社境内にある白山大権現は仏が本地垂迹したことを意味する「権現」の文字が削られました。畑沢でもその愚行がなされた形跡があります。熊野神社の北西にある如意輪観音の顔が潰されています。権力の尻馬に乗って悪乗りした小役人がいたようです。ずっと大事にしてきた地元の人たちにはできない悪行です。

 太政官布告「官社以下定額・神官職制等規則」に基づいて、荒町の八幡神社は明治6年ごろ、畑沢の熊野神社は明治25年に「村社」に格付けされました。江戸時代までは神仏習合でしたので、熊野神社境内に庵主の墓があっても何ら不思議ではありません。しかし、明治になって、国家神道の名の下に仏教関係者の墓を神社境内から撤去された可能性があります。その時、SとGの両家は、如意輪観音の顔を傷つけるような酷い仕打ちを見て、何としても庵主たちの墓を守ろうとして、熊野神社から離れた荒屋敷の奥に墓石を移したことでしょう。両家は心優しい人たちであったと思われますし、その子孫の方々もその気持ちを引き継いできたようです。しかし、S家は今から百年前近くごろに畑沢を去りました。ひとりG家が供養を続けてきたのでしょう。

 青井法善氏の「郷土史之研究」によると、明治28か29年ごろまで畑沢地蔵庵には庵主がいたとのことなので、江戸時代の墓石が移転した後も庵主が亡くなれば、やはりこの墓石の場所へ埋葬された可能性があります。その場合は、単なる「墓石がある場所」ではなくて「墓地」と言うべきことになります。墓石が整然と立っていたと見える状況があるので、墓地である可能性が高いというべきでしょう。明治の初めからならば百五十年間以上、最後の庵主からだとすれば百三十年間近くも墓を守っていることになります。G・S両家の律儀な気持ちが伝わってきます。

 さて、これで畑沢で無縫塔は併せて6基確認できました。上畑沢の墓地に3基、下畑沢に3基です。下畑沢の無縫塔は上述しましたので、上畑沢の無縫塔について説明します。先ずは次の写真を御覧ください。

 

 全てが上畑沢の墓地の中にあり、どれも違う形をしています。上畑沢にも庵主が住んでいた庵(いおり)がありましたので、無縫塔は庵主の墓であったと推測しています。ただ、無縫塔が建っている場所は、戸別の区画の中です。庵主ならば庵として独立した場所にあるのが当然のように考えられます。下の写真のように、古殿の實相院の近くにも庵主の墓と思われる無縫塔があります。

 

 上畑沢の無縫塔について考えられるのは、庵主が上畑沢出身か又はその家と深い関係がある人だったものかもしれません。実際に下畑沢の庵主も上畑沢の庵主も畑沢出身の人がいたとの文献や言い伝えが残っています。この上畑沢の無縫塔には戒名が刻んであり、下畑沢の無縫塔に戒名が見えなかったのとは大きく異なります。まだまだ私は勉強不足で、この謎を解明できません。

 

文献名

著者又は発行者名

発行等時期

郷土史之研究

青井法善

1927年8月31日

畑沢之記録 

有路慶次郎

1958年1月

平成8年度岡田ゼミナール研究年報 地域史研究の方法と課題 山形県尾花沢市調査報告 第19輯

東北福祉大学社会福祉部

41番研究室

(大類 誠)

1997年

 



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