美術館で横山大観の「大和心」という絵を見ていた。
画面に描かれていたのは、山桜と真っ赤な太陽だった。
染井吉野、ではなくて、
葉っぱも花も一緒に咲いている、山桜。
山桜の、ためらいや、山の他の木々と馴染む様子、
馴染むけれど、自分の花も咲かせる様子、
他の花も自分も、幹があり、葉っぱがあり、花が咲くというような、
広々とした安心感、隣へのちょっとした気配りや、
自分も咲くけど、他も咲いているよ、という謙虚な心。
自由な心なら、そこに思いが至るんじゃないかな。
自分が自分が、って目立つんじゃなくて。
人にいかに認めてもらうか、という話ではなくて。
桜は、山桜だ!
という気分に包まれた。
染井吉野も好きだったんだけど、
山桜と比べたら、今までと違って見えた。
ずっと、染井吉野って迫力があるな、って思ってたんだけど、
その理由もちょっとだけ言葉に出来る気がする。
染井吉野は、一本気すぎて、
狂気をはらんでいるように感じる。
葉っぱが一枚もない所に、花だけ咲く。
そこまで一色になってたまるものか。
一色の主張だけで良いわけなかろう。
一人でしゃべりまくっていいものか。
聞くことも大事だろう。
葉っぱが、
ためらいや、逡巡や、聞くことだとしたら、
また、葉っぱが、
咲くためにひたすら光を集めているのだとしたら、
はたまた、葉っぱが、
咲く前にまず出てくる、様子見の役割をしているとしたら。
花だけ一斉に開く染井吉野は、
「狂乱」という言葉が似合う。
周囲を見たり、調子を合わせる遠慮も配慮もなく。
「自分らしく思い切り咲く」と言えばカッコイイけれど、
同じ色で同じ場所に植えられて、みんなが咲くから自分も安心して咲いている。
互いの同質に便乗して、自分もいっぱしの気分になる、というような、
安易で、簡単で、流されている状態、だとしたら、
幼稚そのものじゃないか。
ただ、狂ったように同じ意見で一緒に咲いて、
みんなの中で、その意見だけが目立って、
自分だけ特別なような顔をして、暴れるように咲いて。
なんてのは、少々、下品だ。
みんな同じ性質で、取り替え可能。
工業化社会の人間だ。
ついでに、咲いたらあとはどうでもいい、ってとこも。
山の木々としての調和や尊厳を感じない。
そして、花なら春の数日で済むけれど、
四六時中咲かせる技術を持ってしまったのが人間だ。
花を咲かせることだけが大事なんじゃない、ってことを
目立つものだけが大事なんじゃない、ってことを、
稼ぐものだけが、役立つものだけが大事なんじゃない、ってことを、
すっかり忘れて、お祭りのように咲き続ける、人。
おそらく、この対極が、大和心。
染井吉野が、狂ったように咲くとしたら、
山桜は、自分も、周囲も、山も、共に美しく華やぐ機微を持つ。
だからこそ新緑も他の花も安心して、
広々と、のびのびと、春を彩る。
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