『自由の哲学』を読む ~日々の暮らしから~

日々の「?」から始めて一歩ずつ
自分で見て考えて、行動していきたい。
私の自由が人の自由にもつながりますように。

山桜は狂わない

2017年02月02日 | 考える日々

美術館で横山大観の「大和心」という絵を見ていた。
画面に描かれていたのは、山桜と真っ赤な太陽だった。
染井吉野、ではなくて、
葉っぱも花も一緒に咲いている、山桜。

山桜の、ためらいや、山の他の木々と馴染む様子、
馴染むけれど、自分の花も咲かせる様子、
他の花も自分も、幹があり、葉っぱがあり、花が咲くというような、
広々とした安心感、隣へのちょっとした気配りや、
自分も咲くけど、他も咲いているよ、という謙虚な心。

自由な心なら、そこに思いが至るんじゃないかな。
自分が自分が、って目立つんじゃなくて。
人にいかに認めてもらうか、という話ではなくて。

桜は、山桜だ!
という気分に包まれた。

染井吉野も好きだったんだけど、
山桜と比べたら、今までと違って見えた。
ずっと、染井吉野って迫力があるな、って思ってたんだけど、
その理由もちょっとだけ言葉に出来る気がする。

染井吉野は、一本気すぎて、
狂気をはらんでいるように感じる。
葉っぱが一枚もない所に、花だけ咲く。

そこまで一色になってたまるものか。
一色の主張だけで良いわけなかろう。
一人でしゃべりまくっていいものか。
聞くことも大事だろう。

葉っぱが、
ためらいや、逡巡や、聞くことだとしたら、
また、葉っぱが、
咲くためにひたすら光を集めているのだとしたら、
はたまた、葉っぱが、
咲く前にまず出てくる、様子見の役割をしているとしたら。

花だけ一斉に開く染井吉野は、
「狂乱」という言葉が似合う。
周囲を見たり、調子を合わせる遠慮も配慮もなく。

「自分らしく思い切り咲く」と言えばカッコイイけれど、
同じ色で同じ場所に植えられて、みんなが咲くから自分も安心して咲いている。
互いの同質に便乗して、自分もいっぱしの気分になる、というような、
安易で、簡単で、流されている状態、だとしたら、
幼稚そのものじゃないか。

ただ、狂ったように同じ意見で一緒に咲いて、
みんなの中で、その意見だけが目立って、
自分だけ特別なような顔をして、暴れるように咲いて。
なんてのは、少々、下品だ。

みんな同じ性質で、取り替え可能。
工業化社会の人間だ。
ついでに、咲いたらあとはどうでもいい、ってとこも。
山の木々としての調和や尊厳を感じない。

そして、花なら春の数日で済むけれど、
四六時中咲かせる技術を持ってしまったのが人間だ。

花を咲かせることだけが大事なんじゃない、ってことを
目立つものだけが大事なんじゃない、ってことを、
稼ぐものだけが、役立つものだけが大事なんじゃない、ってことを、
すっかり忘れて、お祭りのように咲き続ける、人。

おそらく、この対極が、大和心。

染井吉野が、狂ったように咲くとしたら、
山桜は、自分も、周囲も、山も、共に美しく華やぐ機微を持つ。
だからこそ新緑も他の花も安心して、
広々と、のびのびと、春を彩る。

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