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サンチョ・パンサの帰郷

2012-04-09 17:34:19 | 日記
私は今でこそ、社会の片隅にどっかりと腰をおいて、というか
覚悟を決めて、なんとかかんとか生きているというのが現状なのだが、
もうそれこそ20年近く前の話になるが、就職したての頃は本当に苦しかった。

やくざな商売をしながらでも社会には背を向けて生きていきたいと
まじめに考えていた。
就職し、破れ去ってゆく夢をかろうじてつなぎとめながら必死に
もがいていた。

今はどうか知らないが、当時は「二兎を追うものは、一兎をも得ず」
などというセリフを会社は、上司は、同僚は、社会は真面目にうけとっていた。
もちろん希望をもって就職した同僚には大変申し訳ないとは思っているが、
私はそうした中、中途半端でどっちつかずの生き方をしていたせいか、
精神的にも肉体的にもボロボロの状態でかなりまいっていた。

チック症はおこるは、頭をあげることすらできないような片頭痛はするは、
眠れないは、人からは疎んじられるはで、本当にひどい状態だったと思う。

そういう中でもうすがりつくように詩を読んだ記憶がある。
私にとって詩は私の気持ちや感情を上手に表現してくれているものであると
いうよりは、言葉そのものがもつ存在感に消え逝ってしまいそうな自分という
存在をなんとかつなぎとめようと、しがみつくようにしてのめり込んでいたと
思う。

もちろん書くことにも興味はあったのだが、それよりもまず読むこと、
ひたすら詩が読みたくて、読みたくてとにかく必死で読んでいたなあ…。
それこそ仕事以外の時間はずっと詩を読みふけっていた。

特に、草野心平、金子光晴、それから鮎川信夫、田村隆一、そして谷川俊太郎
などは、アンダーラインを引きながら詩集がボロボロになるまで読んだ。
もちろん佐藤春夫や北原白秋、その他、吉増剛造、清水昶…、ちょっと
キリがないので止めておくが、ここまで読みふけっているとある意味、自分の
詩に対する世界観ができてゆくものである。そういう中で自分にもっとも
インパクトをもって響いたのが石原吉郎だった。


位置

しずかな肩には
声だけがならぶのでない
声よりも近く
敵がならぶのだ
勇敢な男たちが目指す位置は
その右でも おそらく
そのひだりでもない
無防備の空がついに撓(たわ)み
正午の弓となる位置で
君は呼吸し
かつ挨拶せよ
君の位置からの それが
最もすぐれた姿勢である
(石原吉郎 『サンチョ・パンサの帰郷』より)


石原吉郎は敗戦後に長くシベリアに抑留された極限的ともいえる
自身のラーゲリ体験を詩として書き続けた人で、この詩にもその
体験の影が色濃く反映されていると思う。

ただし私がこの詩から受けたインパクトは少なくとも、この相対化された
詩がもつ普遍的な表現内容ではなかったと思うのだ。

「位置」というこの詩のタイトルにも現れているが、それは
読み手の「視点の移動感」とでも言うべきか…。

男たちの肩にそって視点は移動してゆく、それが


「無防備の空がついに撓(たわ)み
正午の弓となる位置で」


というところで、空が180°傾くように視点が加速し、
空に吸い込まれてゆく感覚。

自慢では決してないが私は詩を読むとき、「あまり意味は考えない」
タチでおそらく多分に誤読をしているおそれもある。
あくまで私自身の個人的な感覚の問題である。

詩は音読すべき、とはよく言われることであるが、私はこういった
詩にはあてはまらないと思う。
音読してしまうことで、その言葉の可能性を閉じ込めてしまうことだって
あると思う。

たとえば「正午の弓となる位置で」とあるが、
弓をどう発音するか…。

「ゆみ」だろうか、それとも「きゅう」だろうか。

おそらく、この場合は「ゆみ」ということになるのだろうが、
この「弓」という言葉には「きゅう」という読み方もあり、
私にとってはそのことが暗に、この視点の移動のスピード感を
加速している気がするのだ。
(擬音としての「キュー」って…(アホか! 笑))。

かといってこれを真面目に「きゅう」と読んでしまったら、
ちょっと滑稽な気もする(笑)。


いずれにしてもここは「絶対的沈黙が支配する世界」だと思う。
詩においては沈黙の言葉は確かに存在する。
だから音読はすすめない(銃殺されても知らんぞ…)。


クソ、真面目に解説するつもりだったのに、最後はなんか
おふざけになってしまった!

当時はかなり切羽詰まって読んでいた記憶があるが、
自分も少し心に余裕がでたのか、それとも「あきらめた」のか…。

まあいいか、それでも地球は回っているということだ(なんのこっちゃ…)。


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