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前人未到の即興を生み出すギター演奏の探求

2013-01-29 14:38:02 | 日記


『前人未到の即興を生み出すギター演奏の探求』

この本は、『The Advancing Guitarist』(Mick Goodrick)
という書籍の邦訳なのだが、日本語版ではトモ藤田さんという
バークリー音楽大学ギター課で教鞭をとられている方(日本でも
かなり有名なミュージシャン、私も彼のファンキーなスタイルが
大好きだ)が監修されている。

実はこの本、私がハワイに旅行にいった際、まだ訳本はなく、
地元の書店で見つけて買ったのだが、なんとホテルに忘れてしまい、
後で何度ホテルに問い合わせても「ありません」といわれた。

「これはDIY(Do It Yoursefl)のための本です。載っている譜面をこなして
いくタイプの、いわゆる”教則本”とは趣が違うものです。


という印象的な前書きを覚えている。

いつか翻訳して自分が出版社に売り込もうとねらっていただけに
この邦訳本の出現には衝撃を受けた。
まあ、作業をズルズルにしていた自分が悪いので、早速訳本を購入した。

内容はおおよそ見当はついていたのだが、前代未聞の邦題と同じく、
まさしく前人未到の内容だ。
ここに書かれてあること、全部こなしていたら人生がいくつあっても
足りないわい!

恐らく、この本で提示されている練習マテリアルをすべてこなすためには、
少なくとも人生数回分の時間が必要なはずです。実を言うと、私がこの本の
ために用意したことから、自分自身でもほんの少しだけ理解したばかりです。


とは著者のミック・グッドリック自身の言葉。

ギターという楽器を探求するということはアドベンチャーのようなものだ。
自分は何年もギターを弾いているが、家で練習している時も、ライブで
演奏している時もいまだに発見がある。

ミック・グッドリックの文章は本当に人を煙に巻いたようなところが
あるのだが、彼が提示するアプローチは非常に理知的だと思う。

翻訳されたのは橋本桃代氏。
当たり前のことだが、言葉のニュアンスは私とはことなる。
若干日本語の言い回しで気になる箇所もある。それにしても、
ミック・グッドリックの皮肉っぽい文章をよくもまあ、これほどこなれた
ものに仕上げる能力は見事としか言いようがない。
先をこされたのは残念だが、これだけの偉業を成し遂げられたからには
氏を讃えるしかないと思う。

巻頭の言葉が気が利いている。

本書をパットに捧げたい。
彼が可能性をあたえてくれたためでもあるが、
彼にはこの本が必要ないだろう、というのが最たる理由である。


パットとはもちろん、前人未到のインプロヴァイザー、パット・メセニーのこと。
確かに彼の演奏を観るがぎりでは、「唯一この本を必要としない人」
であると私も思う。

凡人の私にとっては時にパラパラと本書をめくって、
そして実際にギターを手にとって…と。
長い友と出会ったような感覚である。

ギタリストの人なら一冊持っていても絶対損はしないと思う。
もちろん、やってみる(本書を読んで実際にギターを弾いてみる)
こと、そして「やりすぎないこと」を条件に。


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どこかの馬の骨が…

2013-01-25 12:39:23 | 日記
「どこかの馬の骨…」

OMTを立ち上げたばかりで営業に都内をかけずりまわっていた時に、
ある人からいわれた言葉だ。

インターネットなどのようにお客様からダイレクトに問い合わせが
くるケースは別として、広告やコマーシャルなどの告知手段を使えない
会社は営業の際、必ずこちらからアクションをしかけなきゃならない。

まして、設立して間もない会社(いわゆるうちの会社のことやね)は、
社会に対してまったく信用がない。特に翻訳で仕事をするということは
陳列された商品を選ぶというものではなく、翻訳の品質をお客様が評価して
初めて仕事がくるわけで、お客様にとっても危険極まりない話だ。

そこで、トライアルを無料でやってそれから、という話になるのだが、
すでに発注ルートが定まり、信用も獲得しているところに、さて、新しい
会社を試してみるか、とはなかなかならず、トライアルさせてもらえるだけ
でありがたい。

どんなにカリスマ的な人だって、1回の訪問で自分の魅力を表現できる人
など知らないし、少なくとも私にはそんな魅力はない(自慢か!)

前に取引していた会社がよっぽど信頼を失うか、コケてしまい、仕事が舞い込む
というケースというのもあるかも知れないが、幸か不幸かうちにそういったケースは
ほとんどない。

Webサイトという便利な道具(確かに直接問い合わせがくるというのは、非常に有効な
手段だ。)があるが、Webサービスを専門にしている会社は別として、そこから、
お客様が「選択」するためには別のプロセスが必要だし、まして「信頼」を得るには
さらに先に行かなければならない。
Webからの問い合わせをまんじりともせず待ち続けるというのは工夫がなさすぎる。

私が尊敬しているある会社の社長は、

「スピード、対応力、小さな会社でしかできないこと、
自分に何ができるのかを考えなさい。」

とアドバイスしてくれた。

私は今でもその言葉を大切にして、それを実践するように心がけている。

「何か新しいサービス、他社にはできないサービス」といった自社の「強み」を
訴求していく以外にはない。

結局、「どっかの馬の骨」といわれようが、何度も足繁くお客さんのところに
いって、自分がお客さんに対して何ができるかを探り続ける情熱が必要だ。

確かに私はラッキーだったのだと思う。
この「どこかの馬の骨」に対して、仕事を出してくれたお客さん、そして
仕事を請けてくれた翻訳者の人たちはいた。

最近、仕事の引き合いも少しずつふえてきたが、こういう状況になると
つい大切なことを忘れてしまいがちになる。

何ができるか…
それを考えながら、明日は町に繰り出すことにしよう。

「どこかの馬の骨」が都市を闊歩する(笑)。


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浅田真央はメイクを変え、キム・ヨナは電卓をたたく

2013-01-23 17:02:42 | 日記
最近読んだ本、


『浅田真央はメイクを変え、キム・ヨナは電卓をたたく』(生島 淳)

とても面白かった。この本で私がバンクーバー・オリンピック以来、
抱いていた疑問のいくつかが解けた(まだすべてではないが…。)

生島氏の取材はバンクーバー・オリンピック女子ショート・プログラムに
おける浅田真央選手とキム・ヨナ選手の点差の開きに対する違和感から
始まった。

私の疑問のひとつは、あれほど芸術性の高い演技をした浅田真央選手の
演技に対する評価である。
浅田選手はフリー演技で確かにジャンプをミスしてしまったが、
キム・ヨナ選手は完璧ともいえる演技をみせた。しかしたとえ浅田選手の
ミスが得点にひびいたにせよ、それを補ってあまりある芸術性をもっていた
ことは明らかであり、正直私がいままでみてきたフィギュアスケートの中でも
「もっとも美しい」と感じたものだった。

「フィギュアスケートは芸術性(少なくともバンクーバー・オリンピックの審査員は)
を全く理解していないのではないか…」

もうひとつの疑問はなんといっても、

「キム・ヨナ選手はなぜあれほど高得点を得られるのだろう」である。
バンクーバー・オリンピックは完璧な演技であったことは間違いないが、
そこにいたる、シーズン中では、彼女がたとえ転んでも高得点をとることが
不思議でならなかった。
オリンピックが始まる前からキム・ヨナ選手の金を確実する人もいた。

上記の本でそうした疑問はある程度まで解消されたと思う。

私らのような素人はオリンピックにおける演技のみを比較しがちだが、
スケート選手、そしてコーチ、振り付け師、またそれをとりまく人々にとっては
何年も前から戦いははじまっているのだ。

また競技を評価する審判員が人である以上、主観的要素は絶対にぬぐいされない。
審判員に対するアピールはシーズン中からすでに始まっており、それが「構成点」
という「変動相場」を形成してゆくのだ。

彼らは実に長い時間とお金をかけてプログラムを構成してゆく。

生島氏は、

端的に言うと、いまのフィギュアスケートというのはISUジャッジング・
システムに対して、各陣営が「模範回答」を作る競争になっている。
いちばん、美しい回答をした選手が表彰台のてっぺんに上がる。

と言い切っている。

選手の技量も重要だが、それ以上にコーチ、振り付け師などそれをとりまく
人々、そして戦略とプレゼンテーションが重要である。

浅田選手のコーチであったタラソワ氏は振り付けも担当できるほどの
高い芸術性をもっていた人だった。しかし彼女がもっともコーチとしての
力を発揮できたのは、ISUジャッジング・システムに変わる前までだ。
ISUジャッジング・システムが導入されたのはトリノ・オリンピック以降であり、
金メダルを獲得した荒川静香選手は、大会直前に自身のコーチを
タラソワからモロゾフに交代させたのも、新しい加点システムに対応しきれない
タラソワに不安を感じたからだという。

浅田選手は「模範回答」を作る競争においてキム・ヨナ選手に敗れたのだ。

フィギュアスケートは競技である。芸術性という主観的な要因を取り込むには
現行のジャッジング・システムには限界があるのだろう。
もちろん、このシステムはこれからも改変されてゆくことだろう。
生島氏は来るべきソチ・オリンピックにおける、ロシアの復活、バレエ、つまり
より芸術性の高い要素が再び見直されるであろうことを予見している。

考えてみれば、私が感じていた疑問はフィギュアスケートのルール、つまり
評価システム(いかにして点数をとるかというゲーム的要素)を理解していれば
生じ得なかったのかも知れない。

また、最近キム・ヨナ選手が復活し今期最高得点をあげたこと、かなりミスが
あったようで、いろいろとテレビなどでも彼女の得点を疑問視する動きも
みられるが、ちゃんと演技をみているわけではないので、私としてはなんともいえない。
キム・ヨナ選手、復活宣言する前の活動や復活後、どのようなスタッフと組み、
どのようなプログラムで演技にのぞんだのかがわからないので…。

要するにいろいろな要素が密接にいりくんでいるわけで、現行のジャッジ・システム
だけがすべてではないし、人やお金がいろいろと動いていないわけがない。
買収も絶対にないとはいいきれない。

まあ、少なくとも、この本を読んだことによって、フィギュアスケートの魅力が
半減したかといえばそうでもない。

先ほども書いたが、ISUジャッジング・システムはすでに前のオリンピックから
導入されていたものだし、浅田選手にしてみれば、十分理解していたはずだ。
しかしながら、彼女はトリプル・アクセルにこだわり、芸術性にこだわった。
当然、彼女の中にも葛藤があっただろう。
そういう中で彼女がかけた可能性、選択した道を私は日本人として本当に誇りに
思っている。

選手たちには申し訳ないが、勝つことよりも美しい生き方はあると思う。



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体罰の問題

2013-01-12 10:36:12 | 日記
教師の体罰による生徒の自殺が問題になっている。

テレビではキャスターが問題の根深さをしきりに言っているし、
マスコミの反応も体罰の問題に関しては、賛否両論わかれるようだ。

しかし概して大人は、
「我々の時代にも体罰はあった。でも我々の頃とは体罰の性質がちがう。
生徒の心に傷を与えるようなものではなかったし、実際、我々の時は
生徒自身も体罰によって心に傷を負うようなヤワではなかった。」
といっているように思える。

確かに我々の時代は体罰はあった。そしていじめもあった。
我々の時代にも、自殺する生徒はいたが、いろんな心の悩みが複合的に
あったのだと思う。精神的な威圧も含めて部活の先生に恐れおののいている
生徒もいたし、いじめで自殺した者もいた。

学びには人それぞれのタイミングがあると思っている。
高校生~受験の頃まで私は計算が大嫌いだったが、いまでは数学の本など
興味本位で読んでいるし、大体商売をやっているのでお金の計算は好き嫌いに
かかわらず、毎日行わざるを得ない。

スポーツだってそうだ。30才を過ぎて地域のバスケットボール同好会に入る
人もいる。

私自身は中学の頃は野球部で、高校の時は陸上部とそれほど血反吐をはくくらい
スポーツをやっていたし、けつバット、ビンタは当たり前、マラソンの練習の
時は教官が竹刀とメガホンをもってバイクにまたがって、市内を追いかけ回された。
(今考えると、教官はどうやってバイクを運転していたんだろう、まるでサーカスだ)
まあ、それぐらい猛烈にやっていたし、毎日が部活のことを考えると憂鬱だった。

今になって、「昔のあの厳しい特訓の経験が活きている」と思っているかというと、
それは全くない。正直、

「なんだったのだろう」

くらいにしか思っていない。貴重な時間を無駄にしたとすら思っている。

もちろん、こんな考え方をする私自身がひねくれ者なのだとは思うが、
私には「古きよき時代」を懐かしむ感性はない(ってかそんな考えは排除する)。

別に後悔しているわけではない。そして若者がスポーツに打ち込んだり、恋をしたり
することを否定するつもりもない。

でもそれは長い人生における、たったの数年間の話だ。
絶対にそれが人生のすべてではあり得ない。

青春時代の恋愛、能力、コンプレックス…。悩みが尽きないのが人間だと思うが、
どんな人だって、今という時間と冷静に比較をすれば、「どうでもよい」と
思える時が必ずくる。

人間いくつになったって、学びもあれば、スポーツもできる、恋愛だってできる。

まして、高校という限られた3年間、インターハイに出場したとかしないとか、
そんな経歴は、私からいわせれば、そして40才も過ぎれば

「だから、なんなんだよ」

程度のことだ。

まして、校内でアメを食べていたくらいで、ガムをかんでいたくらいで、
授業中にアクビをしていたくらいで、生徒を罵倒したり、体罰をしたり、
ただでさえ、繊細な子供の心を傷つけるなど、まるで何かにとりつかれた
もののやることだ。

不確定性の現代において、我々に求められているのは変化だと思う。
我々自身の価値観すらその対象である。だから、教育だって変わって当然なのだ。

古い物差しで今を計ったところでなんの意味があろう。
これからもどんどん二極化は進む。「変われる人」と「変われない人」。

「自分たちの頃は…」などとあいも変わらず、古い価値観と今を比較する
ことでしか物事を判断できないことこそ問題だ。

体罰にたよらなくても、人は表現できるはず、愛をそして今を懸命に生きることの
大切さを。

自分の人生における過去を否定しろとはいわない。
でも「古いやり方」という執着はとりはらわれなければならないと思う。




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イタリアの漁村 猫と漁師

2013-01-05 12:16:39 | 日記
新年あけましておめでとうございます。

今年は去年とちがい、12月30日から1月2日までは仕事をお休みできたので、
少しのんびりして朝からテレビをみていた。

すごいね、朝から1時間、ずっと猫ばかり映している番組があるのね…。

私のような猫好きにとっては、半分野生で半分人間になついている猫は
この上なくいとおしい。

家で飼っている猫にも野生を感じることは多いのだが、やはり野山を自由に
駆け回っている猫は魅力的だ。

テレビでは終始イタリアの漁村を映していた。
私が生まれた能登半島の羽咋という町は、漁村であり、目の前が海、
後ろが山という感じだったので、このイタリアの田舎町は故郷の夏の風景を
思い起こすところがあり、どことなく親近感がある。

いまでも田舎にいる両親からは、冬になると干しカレイが送られてくる。
家の軒下に体よく並べられた魚のミイラの群れは、それこそ野良猫にとっては
格好の獲物であり、母が野良猫どもと格闘している姿が目に浮かぶが、
そんな苦労などつゆしらず、ちょっと量が多すぎて食べきれず、
ずっと冷凍庫でねむりっ放しのことも多い。
でも時折、むしょうに食べたくなるんだよねぇ…。

ままよ、そんな話はどうでもよい。

イタリアの漁村で漁を終えた漁師たちが、タバコをくゆらせ、よってくる猫たちを
なでながら、談笑している姿は、みていて心が和む。

猫たちにどんな縄張り意識があるのかはよくわからない(たぶんすごくいい加減な
もののような気がする)けど、そいつらも時折、喧嘩をしてうなり声をだしているのは
どこの国でも、江ノ島でも、ここ鎌倉でも同じだ。

そういう猫のうなり声にビビるうちの猫。


ココはテレビが大好き、特に動物番組が大好きでいつも食い入るようにみている。

鳴き声(うなり声)につられたか、ポピーもテレビ観戦に参加。


猫は自由で気ままなところがいい。
ただし、近所でかわれている犬のように、時折、猫と散歩をしてみたいと
思うことがあり、ダリアが小さい頃、近くの公園までカゴに入れて、首輪も
つけて連れて行ったのだが、一向にカゴから出ようとしないのであきらめた。

だから、時折、飼い猫なのか、人になついた野良猫なのか、
尻尾をピンと立てて「ご主人様」について歩く光景を見るとまるで奇跡を
目撃したような気持ちになり、いつも「いいなあ…」と指をくわえてみている。

こうしてブログを書いている今、ダリアはピアノの上で寝ている。
起こしては気の毒なので、そのままにしているが、おかげで私のピアノの技術は
一向に上達しない。



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