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華の会

日本文化を考える

ワシントンの桜

2005年05月29日 | 
ワシントンの桜といえばポトマック河畔の桜が有名

衆議院議員で東京市長の尾崎行雄(安政5年1858~昭和29年1954)が
明治45年アメリカのワシントン市に桜の苗木(3000本)を送りました。

尾崎行雄が昭和29年10月6日に神奈川県の逗子で亡くなられてから
平成16年で50年、これを記念して国会前の憲政記念館では
平成16年5月20日~6月11日まで、
「尾崎行雄と議会政治特別展」が開かれました。

特別展でワシントン市に桜を送った経過が展示されていました。

1909年(明治42年)8月18日
 衆議院議員で東京市長の尾崎行雄はその頃、
日露戦争を講和に導いてくれたアメリカの恩義に報いようと考えていた。
丁度、アメリカのタフト大統領夫人が日本の桜を
ワシントンに植樹したいとの希望があることを知り、
尾崎行雄はワシントン市に桜の苗木を贈る事を決めた。
10種2000本の桜の苗木をワシントンに贈った。
しかし、桜の苗木は病害虫のため、防疫検査が通らず、
全て焼却処分された。この失敗から尾崎は健全な苗木の育成を考え、
当時の農商務省興津園芸試験場に委託して、
苗木を育て3年後の明治45年(1912年)
染井吉野ほか9種類3000本の苗木をワシントンに贈った。
その桜はポートマス河畔で見事に開花した。
贈られた苗木は染井吉野1種類ではなく、
10種類もの種類があつたために桜の交雑があり、
アメリカの気候風土に適合した二代目、三代目の桜が生まれた。
ポトマック河畔を始め、全米各地に広がり日米親善のシンボルとして
今日に至っている。

特別展で配られていた無料の小冊子に
尾崎行雄の三女 相馬雪香さんの
「父・咢堂の思い出の数々」が載っていました。
その中で尾崎行雄が娘相馬雪香さんに与えた言葉は
尾崎行雄の優しさと心の広さがにじみ出ていて、
今の世界を考える一助になると思い取り上げます。

「尾崎行雄と議会政治特別展」編集・発行・衆議院憲政記念館 
相馬雪香「父・咢堂の思い出の数々」  10ページ

 「父は東京市長時代、アメリカに桜を三千本寄贈しました。
それは、日露戦争の折、アメリカのルーズベルト大統領の
好意に満ちた講和斡旋に対する感謝の気持ちからでした。
時の米大統領タフトの夫人が、
沼地の多かった当時のワシントン市を美化するために
日本の桜を植えたい希望をもっている事を知り、
市民を代表する意味で行った事でした。
しかし、私が小学校の地理の時間に先生が「桜は日本の魂だ、
それを外国に売ったヤツがいる」と言われたのです。」 同書10ページ

この桜の返礼にアメリカから30本のハナミズキの苗木が贈られました。
日比谷公園など日本全国16箇所の公園に植えられました。
ワシントン市のポートマス河畔の立派な桜並木に比べて、
この時、桜の返礼にアメリカから贈られた「ハナミズキ」の木は現在、小石川植物園
や世田谷の都立園芸高校の校庭の裏のほうに人目を避けるように植えられています。
しかも数本しか残っていないのです。
相馬雪香さんの文章でその理由が少し判ったように思いました。

尾崎行雄の記念展覧会に配られた小冊子に
政策研究大学院教授 伊藤 隆氏が
「政治家 尾崎行雄について」という文を書いている。

尾崎行雄は慶応義塾で学び、福澤諭吉の推薦で
明治12年「新潟新聞」の主筆となりました。
翌年、統計院権少書記官となりましたが明治14年の政変で退官し、
その後、政治家になりました。

大正8年(1919)3月、尾崎行雄は第一次世界大戦後の
欧米の情勢を視察するため、横浜を出航しました。
この視察の途中、尾崎がワシントンで桜と再開した時詠んだ歌

「異国(とつくに)の春の光を添へなんと
        寄せし桜の花 この日咲く」       咢堂翁61歳

尾崎は戦争に荒廃した戦渦のあとのヨーロッパを目のあたりにし、
あの大戦は何のための戦争であつたのかと疑問を強く持った。
「全然無意味、無目的の悪戦苦闘に過ぎなかったのだ、
幾百万の戦死者こそ、気の毒なれ」尾崎行雄著「軍備制限」
尾崎行雄は戦争の悲惨な現場を見た事で
人間として、政治家として大きく成長したのでした。
この経験から尾崎は軍備縮小論者となり、
軍縮決議案を第44議会大正10年(1921)に提出しました。

同書 56ページには
「昭和19年6月、尾崎は大審院で不敬罪事件の無罪判決を受けるが、
その政治活動は閉ざされてしまっていた。
尾崎は敗戦に至る間、池の平の山荘にこもり、わが国の敗戦を見越して、
日本の休戦と新世界の建設を提案する論文を執筆した。
終戦後、尾崎は議会に未発表の論文を基にした世界連邦建設に関する
決議案を提出した。」 咢堂翁87歳
これは世界連邦の提唱であるとともに、
国際社会での日本のあり方を示すものでした。

つぎの文章は尾崎行雄が娘さんの相馬雪香さんにお話したことです。

同書 相馬雪香「父・咢堂の思い出の数々」から

「大正12年の関東大震災の時、私どもは軽井沢にいました。
たまたま父を訪ねて来た人が、不逞朝鮮人が井戸に毒を入れたということで、
自警団が組織されて大混乱だという話をしていました。
父は「(毒を入れたなどということは)流言飛語だと思うけれど、
一歩譲ってそうだとしたら、なぜ、そのようなことをするほど追い詰められた
気持ちにさせられたか、こちら側に反省が無いとだめです」と言っていました。
相手だけを責めるのではなく自分を省みるということも
私の心のどこかに根づいたと
言えましょう。何年か経って、排日運動が中国に起こり、
こらしめるべきだという意見がマスコミを賑わした時も、
父は「排日になるようなやり方を反省しないのはおかしい」と言っていました。
物事は一方からだけ見て判断するのではなく、
両方から公平に見ることが父の特長だったと思います。」 同書10ページ

尾崎行雄が娘さんの相馬雪香さんにお話した事はこれからの日本の問題について、
私たちが考え行動するために大切な事だと思うので、ここに書き留めておきます。





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4 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

コメント日が  古い順  |   新しい順
不逞鮮人 (光武 田鶴美)
2006-03-31 13:34:26
不逞鮮人とはどんな人ですか文の仲に書いてあるので、辞書を引いて見ると不逞はあからさまに不満を表す事と書いて有りましたそれに鮮人が付いたらどんな意味なるのでしょうか?鮮と言うのが分かりません。教えて下さい。 宜しくお願いします。
返信する
不逞鮮人 (桜守)
2006-03-31 21:18:36
光武さん、こんにちは、このブログの管理人です。

この文章を書くのに参考にした「しおり」が

見付からないのできちんと確認できませんが、

「鮮人」というのは「朝鮮人」の事です。

関東大震災が起きた翌二日には東京、神奈川に

戒厳令が敷かれ、心ない流言飛語から、

六千人もの朝鮮人が虐殺される悲劇が起きました。

一説には、この流言は戒厳令を敷くために、

政府が流したものだという説があります。
返信する
Unknown (はなこ)
2006-07-11 12:08:08
626 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/09(日) 19:43:17 ID:flrNr1GM

関東大震災発生は大正12年9月1日である点をふまえて・・・



34 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2005/01/13(木) 06:13

参考資料: 大阪朝日新聞、大正12年9月3日号外  ←◆震災発生から2日目



 目 Kと工廠の火藥爆發 震源地は太平洋にも

【早川東朝社員甲府特電】

朝鮮人の暴徒が起つて横濱、 ~奈川を經て八王子に向つて盛んに火を放ちつつあるのを見た。

震源地は伊豆大島三原山の噴火と観測されてゐるが他に太平洋の中央にも震源があるらしい。

砲兵工廠は火藥の爆發のために全燒し目 K火藥庫も爆發した。



 参考資料: 大阪朝日新聞、大正12年9月4日 ←◆震災発生から3日目

 各地でも警戒されたし 警保局から各所へ無電

  ~戸に於ける某無線電信で三日傍受したところによると、内務省警保局では朝鮮總督府、呉、

佐世保兩鎭守府並に舞鶴要港部司令官宛にて目下東京市内に於ける大混亂状態に附け込み不逞鮮人の

一派は随所に蜂起せんとするの模樣あり、中には爆彈を持って市内を密行し、又石油鑵を持ち運び混雜に

紛れて大建築物に放火せんとするの模樣あり、東京市内に於いては極力警戒中であるが各地に於いても

嚴戒されたしとあつた。



※ 現在、朝日新聞はこの記事の封印を行っており、国会図書館に行ってもその記事をみることは

できない。証拠隠滅の現行犯である。なお、1923年当時の日本に存在したジャーナリズムは

日本の新聞だけである。









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貴重な資料 (桜守)
2006-07-27 09:39:55
はなこさん、こんにちは、管理人の桜守です。

貴重な資料をありがとうございます。
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