Flour of Life

煩悩のおもむくままな日々を、だらだらと綴っております。

カズオ・イシグロ「日の名残り」

2017-10-29 15:16:06 | 読書感想文(小説)


カズオ・イシグロの「日の名残り」をようやく読みました。
最初に読もうかなと思ってから10年以上経ってます。あやうく読む読む詐欺になるところでした。ノーベル文学賞に感謝です。



1956年のイギリス。ベテラン執事のスティーブンスは、新しく仕え始めたアメリカ人実業家ファラディの勧めで、彼の所有するフォードを借りて短い旅に出た。
美しい田園風景を巡りながら、スティーブンスの胸に去来するのは、かつての主人ダーリントン卿への敬慕と、執事の仕事に一生を捧げた亡き父の記憶、結婚して館を去った女中頭への淡い想いと、二つの大戦の間にダーリントン・ホールで行われた、重要な外交会議の数々だった。
旅の終わりに、スティーブンスがたどり着いたのは-


発表されたのが随分前なので、結末に触れても問題はないと思うのですが、これから読む人もたくさんいるだろうから、今回もなるべくネタバレ(おいう呼び方にも違和感があるけど)は避けようと思います。というか、この小説は読み返すたびに感想が変わって、物語の解釈も変わりそうなので、一度読んだだけで「こうだ!」と確信をもって書く勇気がありません…。いま、一度読み終わってすぐに二度目に入ったのですが、物語の冒頭、プロローグの時点でもうスティーブンスへの印象が変わりつつあります。今回は一度読み終わった時点での感想を書こうと思いますが、二度目の印象が少々混同しているかもしれないので、ご了承ください。

「日の名残り」は、最初から最後まで主人公スティーブンスの一人称で、徹底して彼の視点から語られます。まるで一人芝居の様です。
スタート地点は1956年のイギリス。第二次世界大戦も終わり、スティーブンスは長年仕えていたダーリントン卿が亡くなり、ダーリントン・ホールを買い取ったアメリカ人実業家のファラディに雇われたばかりです。スティーブンスの目から見て、ファラディは好人物として描かれているのですが、いかんせんスティーブンスにはアメリカ流のノリについていくのは厄介で難儀しています。プロローグの部分で描かれてる、この2人の異文化コミュニケーションは読んでて微笑ましく感じました。前の主人はいい人だったんだろうけど、スティーブンスの新しい主人も悪くないじゃないか、と。

旅が始まったら、そのまま淡々とスティーブンスの視点で旅の様子が語られるのかと思いきや、彼の思考は目の前の美しい景色と遠い過去の記憶を行きつ戻りつして、なかなか混沌としています。しかも呼び覚まされる過去は時系列ではなくランダムで、しかも正確に覚えていなかったりして、読んでいるこちらにもスティーブンスの混乱と不安が伝わってきました。私も、長距離バスや列車、飛行機に乗っている時、窓の外の景色を眺めながら過去を思い出して、突然それまで気づかなかったことに気づき、落ち着かなくなることがあります。「あの時、ああしてればよかったのに」とか、「あんなことしなきゃよかった」とか、「もしかしたらあの人はこう思っていたのかも」とか。若い時はそうでもなかったんだけど。もし、私がもっと若い時にこの小説を読んでいたら、スティーブンスの混乱と不安には気づかなかったかもしれませんね。今、この小説を読むことが出来て良かったです(←ポジティブ思考)。

しかし、旅が進むにつれ、スティーブンスの記憶と思考は整理され、彼はそれまで曖昧にしていた過去と現在に向き合うようになります。主観で進んでいた物語に、第三者の客観的な指摘が加わり、スティーブンスの世界が少しずつ変わっていくのです。物語のなかばまで、スティーブンスが執事として心から敬い、尽くしてきたダーリントン卿がどういった人物なのか、ダーリントン・ホールで行われた会議がどういったものなのか、詳しく語られることはありませんでした。おそらく、現実はスティーブンスが語っているのとは少し違うのだろうなと予想していましたが、それが明らかになると、今度は現実の残酷さと、世界の非情さに胸がつまりました。おそらく、第一次世界大戦と第二次世界大戦の間、ダーリントン卿のような人は世界のあちこちにいて、戦争が終わってから、その多くはダーリントン卿と同じ立場に立たされたのでしょう。もちろん、そうならないよう上手く立ち回った人も大勢いいたでしょうが。

ダーリントン卿とスティーブンスの関係は、当時の主人と執事の関係として一般的なのでしょうが、客観的に見て間違った方向に進もうとしているダーリントン卿と、彼を止めることが出来ず、「これでいいのだ」と自分を諭すスティーブンスの姿には、現代の私たちが抱える問題に通じるものがある気がして仕方ありませんでした。それは、旅の三日目の夜、スティーブンスが立ち寄った田舎町の人々に囲まれた後に思い出した、1935年の記憶を読んだ時もそうでした。一介の執事であるスティーブンスが、ダーリントン卿の客人から、経済や政治についての世界規模の問題を突き付けられ、答えに窮する場面です。ここでスティーブンスは堪えられないことを謝罪し、客人の主張が正しいと受け入れます。私はこの場面がとても悲しく、また腹立たしく、私たちがいま生きている現代にも同じ事を言う声が大きくなっていることを思い出して恐ろしくなりました。三日目の夜のこの場面は、この小説のクライマックスなのだと思いますが、最高潮に達するというより、最も深い闇の底に突き落とされるような気分でした。

ただ、一番深いところまで落ち込んだら、後は上がっていくだけです。どん底から、少しずつ浮上していくスティーブンスの姿は好ましく、希望の持てる者でした。淡い想いを秘めて再会した、女中頭のミス・ケントンとの再会は別として…いや、スティーブンスの気持ちはさておき、ミス・ケントンとの再会の顛末は、この小説にとって必要不可欠なユーモアだったのですが。執事としてストイックなまでに理想を追求しようとするスティーブンスが、ミス・ケントンの事になると初心な青年のようになるのがとてもかわいらしかったですし。彼の願いが叶わなかったのは残念ですが、自分の思い込みで上手くいくと過信していたのだから、そう都合よく事が進んだら、小説の主旨と矛盾してしまいますね。

ここ数年、第二次世界大戦を題材にした映画や小説に触れることが多かったので、当時のイギリスの空気がうっすら想像できて助かりました。「英国王のスピーチ」を見てなかったら、わからなかったところもあったし。それでも、よくわからない箇所のほうがいっぱいあったので、太平洋戦争にしても第二次世界大戦にしても、もっと勉強した方がいいなー、と感じた次第であります。とりあえずこの小説をもう一回最後まで読んで、気になったところを調べてみよう!…って、夏休みの自由研究か!



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