観察 Observation

研究室メンバーによる自然についてのエッセー

「ぼくもうシャベルしない」

2014-06-25 06:49:04 | 14
教授 高槻成紀

 6月22日にアファンの森にいた。前日から調査に来て、ある作業をしていた。自然界で動物が死んだ場合、その死体はどう分解されるのだろう。どういう動物が死体を食べに来て、何日くらいで骨になるのだろう。ヨーロッパの文献によると、ヨーロッパバイソンの死体にはまずワタリガラスが来て、独特の鳴き方をすると、オオカミが来て厚い皮を裂き、それからタヌキなどが食べにくるという。こうした動物が重要な分解者としての役割を果たしているわけだ。私はこれをアファンの森で調べてみたいと思い、21日の夕方にアナグマの死体を森に設置した。それを翌朝の早い時間に確認に来たのである。死体の設置や観察は緊張をともなう作業なので独特の心理的ストレスがある。
 そのとき携帯電話が鳴った。「だれかな?」とみると画面に次女の名前がある。あまり私に電話をしてこない子なので、「どうしたのだろう?」と、死体を扱っていた私は、少し不穏な思いを持ちながら、電話に出た。すると、娘の声よりも3歳の男の子の声のほうが大きく、何かさかんに話しているが、わからない。それでも一生懸命になにか伝えようとしているのはわかったので、ひととおり聞いてから「お母さんに代わって」と言った。母親によれば、飼っていたカブトムシの幼虫が蛹になったのだが、葵という名のその子が、好奇心もあって、シャベルで触ったら角が折れたらしい。どうなるかと聞くので、そのまま脱皮して羽化すれば、角のない成虫が出て来るが、その傷がもとで死ぬこともあるだろうと答えた。

 あとで聞いたら、葵は自分がシャベルでさわったために角が折れたことにただならぬことをしたと感じたらしい。そのようすから、娘は日曜日の早朝だが、おじいちゃんに聞かないとまずいと思って電話したようだ。
 葵はいま幼稚園に通いはじめたところだが、2年生のいとこがいて、二人とも昆虫が大好きなので、週末に我が家に来ると私の昆虫標本を眺めたり、図鑑をみたりして、昆虫の話をする。話というより、標本を指差して「これはなあに?」と聞き、私が「カミキリムシ」などと答えるだけのことが多いのだが、それが楽しいようだ。
 4月に近所の雑木林で、そのいとこがダンゴムシをとろうと枯葉をかきわけていたとき、「カブトムシの幼虫ってどういうところにいるの」と聞くので、いないとは思いながら低木の下に枯葉がつもっているところを指差して「こういうところかな」というと、土を掘り始めた。ビギナーズラックというのだろうか、なんとそこに巨大な幼虫が姿を見せた。しかも何匹もいた。それを持ち帰って飼育していたのだ。
 水槽に土を入れて幼虫を飼育し、ときどきようすを見て羽化するのを楽しみにしていたようだ。私の電話のあと、娘はおじいちゃんが話した内容をゆっくり息子に説明したらしい。彼にしてみればそれは大きなショックだったようだ。自分がシャベルでさわったことで蛹の角が折れた。そして悪くすれば死んでしまうかもしれない。小さな胸は張り裂けるようだったのだろう、そのあと大泣きに泣いたという。そして言った

「ぼくもうシャベルしない」

 その気持ちを思って母親もいっしょに抱き合って泣いたと話していた。幸い、もう一匹飼っており、翌日に立派な蛹になったのだそうだ。



 3歳の少年はこのことをどうとらえたのだろう。まだ気持ちをうまく言葉で表現できないが、少なくともカブトムシが自動車のおもちゃなどとは違うことは感じただろう。じっと土の中にいる幼虫の体の中で変化が起きて、育つのだということはわかったはずだ。傷ついたカブトムシには悪かったが、生き物を飼えば、死ぬのを見ることもある。そうした体験を通じて生き物が生きるということをなんとなく感じるのだと思う。娘は娘で、自分が出産したときに、自分もがんばったが、赤ちゃんががんばっていると感じたらしいが、今回、カブトムシの体の変化を知ってそのときの感覚を思い出したらしい。生き物が一生懸命生きていることを実感するとき、私たちはそういう感慨に胸打たれる思いがする。

 3歳の少年はもちろん、その母親も、じいさんもドキドキした日曜日の朝であった。

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