『黒マリア流転―天正使節千々石ミゲル異聞』

太東岬近くの飯縄寺に秘蔵の黒マリア像を知った作者は、なぜこの辺境に日本に唯一のマリア像があるかと考え小説の着想を得た。

連載歴史小説『黒マリア流転』

2017-03-26 | エッセー
二夜 母恋い―ゴアでもとめた慈母マリア
 長崎の港を出ると物凄い嵐が襲って来て、それは死の苦しみで船底にしがみ付き、三日の間デウス様を祈り続けました。すると急に嵐は去り穏やかな日よりになったのです。
天正十年如月二十五日(1582年3月9日)、司教・総督イエズス会神父など多くの人々の大歓迎を受けてマカオに着きました。街にはポルトガル商人、宣教師も多くいて、とても賑わっておりました。また壮麗な大聖堂や素晴らしい絵と彫刻の飾られた広い修道院もあって目を見張るばかりでした。
 ここでは、聖パウロ教会にお世話になって、ラテン語や葡萄牙語と音楽を学びましたが、とても難しくて苦労しました。
マカオでは、悲しい知らせもありました。それは、切支丹の良き理解者であった信長公が、臣下の明智光秀に本能寺で殺され、見事な安土城やセミナリヨも破壊されたというのです。
 その後を豊臣秀吉が継いだそうです。信長公が「猿、猿」と呼んでかわいがっていた秀吉は、切支丹を嫌っておるということでしたから使節の者たちも帰国後をとても心配しました。
 マカオにとどまっているうちにもう一つの事件が西洋から届きました。それは、エスパニアのフ
ェリペ二世王が葡萄牙を奪って両国の王になられたというのです。大名お三方から預かって来た親書は、葡萄牙王宛でしたからヴァリヤーノ様はお困りのようでしたが、船はマラッカに向かいました。
 十か月のマカオ滞在は、荷物の積み下ろしやら風待ちやらで、えろう時間がかかり、やっと年の暮れに船は出ました。だが、何しろ猛暑で風もなく死ぬほどの苦しみでしたが、バリヤーノ様の昼も夜もない介抱とお祈りで助かりました。ところが、マンショが熱病にかかってしまい、水も不足して命を落とす者も出ました>。※天狗面は「天狗の寺」と呼ばれる飯縄寺の物、修験道と関係している。