『黒マリア流転―天正使節千々石ミゲル異聞』

太東岬近くの飯縄寺に秘蔵の黒マリア像を知った作者は、なぜこの辺境に日本に唯一のマリア像があるかと考え小説の着想を得た。

連載歴小説『黒マリア流転』

2017-03-23 | エッセー
黒マリア流転
  ー天正使節千々石ミゲル異聞
 1、道善坊日照       安藤 三佐夫

 見知らぬ山伏姿の男が、上総の山里にたどり着いたのは、戦国の世が終わって徳川家康が江戸に入った天正十八(1590)年の秋であった。自ら「道善坊日照」と名乗る修験者で、薬師(くすし)であった。冬虫夏草や朝鮮人参の漢方をよくするので行く先々で病いに悩む人々に有難られた。だが、村の評判になると忽然といずこかに移ってしまったから日照坊の行方は誰も知らなかった。
 山里に隠れキリシタンの集落があり、遠く島原からやって来たこの山伏を同志として迎え入れたのは、万木城の土岐氏の家臣の土着農家であった。万木城は、徳川方の本多忠勝によって落城したが、荒れ地を耕して上総に土着したのである。
 日照坊は空いている小屋に住みついて、黒い慈母観音像を祀り、朝夕にお祈りをして流浪の疲れを癒していた。
夜になると茅葺屋根の隙間からは月明かりが漏れるあばら家だが、西国から東国までのゆく先々は、秀吉の禁教令の嵐が吹き荒れていて、旅の日々は心穏やかではなかったからこの里はまるで天国であった。
 落ち着くと、里人が誘い合わせて山菜や鹿肉などを持って訪れるようになった。それは、誰も行ったことのない遠い異国を見て来た薬師で病いをよく治してくれると言うことが、噂になって広がったからである。
 一間だけの部屋の中央には、囲炉裏が切られていて、枯れ木の枝が燃やされ湯が沸いている。すでに髪に白い物の混じる日照坊は、黒い像に向かい静かに十字を切ると、低い声で思い出を語るのであった。山伏の出自は名門千々石家で天正使節の正使ミゲルだが、東国では、誰も知らない人物であった。
 日照坊は、黒く塗られたマリア像を大事に守っていて、毎夜祈りを捧げていた
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