オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

続・鷲のように翼をかって

2017-01-02 00:00:00 | 礼拝説教
2017年1月8日 主日礼拝(イザヤ書40:27~31)誌上説教・岡田邦夫

 「主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」イザヤ書40:31

 元旦礼拝で話しましたのですが、もう一つのメッセージが与えられましたので、お聞きください。

◇「高き」を見よ…見て思う
 「目を高く上げて、だれがこれらを創造したかを見よ。」は新改訳ですが(40:26)、文語訳では「なんぢら眼をあげて高(たかき)をみよ たれか此等(これら)のものを創造せしやをおもへ」となっています。その訳のように「見よ」は強調されている語なので、創造のわざをただ見るだけでない、創造者ご自身への思いまで至りなさい、ということだと思います。見て思うのです。天羅万象を見ましょう。神の創造された世界の雄大さ、繊細さ、美しさを見ましょう。生き物の不思議を見ましょう。その背後におられる創造者、私たちを見守っておられる父なる神を思いましょう。それが本当に見るということなのです。
 財産も家族も健康も失われて、どうして、神を信じているのにこんな目に合うのかとひどく悩むヨブに神が現れて、被造物を見させました。だれがこれらを創造したかと突き付けられた時に、創造者ご自身に思いがいき、神との出会いの経験となり、試練を突き抜けました。
 夜空に光る星々はどんな意味があるのでしょう。神が高齢者アブラハムを外に連れ出して仰せられました。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる」。彼は主を信じ、主は彼を義と認められたのです(創世記15:5)。
 イエス・キリストは山の上で群衆に「空の鳥を見なさい。」と空を見上げさせました。天の父がこれを養っていてくださるのだから、あなたがたは生活のことで心配しないように、まず神の国を求めなさいと教えられました(マタイ6:26)。これらは「なんぢら眼をあげて高(たかき)をみよ たれか此等のものを創造せしやをおもへ」のメッセージです。
 預言者イザヤの原点は国家存亡の危機の時に、魂が砕かれて、「神を見る」という特別な経験でした(6章)。彼は人として、世界情勢にも、歴史にも見識が高かったでしょうが、それを超えた見識(預言)が与えられたのです。そこで高きを見、創造者を思うという霊的経験(召命経験)があったからこそ、空から地を眺めるように、過去、現在、未来にわたる歴史の全体や諸外国と選ばれた民の行く末を見渡せたのだと私は思います。
 イザヤは自分だけではなく、メッセージを聞く者たちも、その高みへと引き上げられる霊的経験ができると言います。それがイザヤ書40:31のみ言葉です。

◇「高き」に上れる…舞い上がる
 「主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない」。
 テレビで「健康長寿」というタイトルの番組を見ていて、私は神の創造のわざの素晴らしさを発見した思いでした。100歳を超えた人たちのことを1世紀を生き抜いたということで「センテナリアン」というそうです。現在、日本で69,695人、世界では45万人もいるとのこと。そこで、どうして健康で長生きできているのか、医学的に研究が進められているという番組で、105歳になる日野原重明さんも出演していました(NHKスペシャル「あなたもなれる“健康長寿”徹底解明 100歳の世界」)。
 健康長寿の秘密は遺伝的な要因よりも、老化を抑える食べ物、働くなどの運動ほか、外的な要因にあるのではないかと研究を進めています。しかし、興味深いことに「心の持ち方」で老化を抑えていることも、医学的に見えてきたのです。精神的に満足感を得て生きていると健全な血流がおこり、老化を抑えるらしいのです。しかも、自分本位な快楽型満足感だとそれが悪くなり、人のためにというような生きがい型満足感だと良くなるというのですから不思議です。神は人を自己本位にではなく、人のために、何かに役に立ちたいと生きるような高尚なものとして造られたのではないかと思わされました。からだは正直なのでしょう。
 そして、80歳を超えるとからだは急激に衰えますが、ポジティブな感情はだんだん高くなっていき、100歳を超えると「老年的超越」という思わぬことが起こることが分かってきました。記憶力や判断力が衰えても、これまで生きてきて、「今が一番幸せだ」という感情、感覚をもつようになるといいます。105歳の日野原重明さんも100歳を超えてからの人生の在り方が全く違ってきて、今がとても生きがいを感じていると言っていました。
 この番組を通して、人は年をとるのが決して寂しい、みじめなものではなく、ポジティブに感じさせられるように神によって良く造られたのだ。センテナリアンともなれば老年的超越という幸福感を感じられるように、神がお造りになっているのだ。そう思うと嬉しくなりました。素晴らしい創造のみわざを思わされ、なお「なんぢら眼をあげて高(たかき)をみよ たれか此等のものを創造せしやをおもへ」もお言葉どおり受け止めていきましょう。しかし、私たちは必ずしも健康で長生きとは限りません。人、それぞれです。老年的超越もいいですが、それ以上に「信仰的超越」を得ることが重要です。

◇「高き」に上れる…待ち望む
 現実を見ると人生というのは疲れるものです。「若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる」(40:30)。その疲れた現場で、主を待ち望む者を神は疲れない世界へと引き上げられるのです。信仰的超越へと導かれるのです。「主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない」(40:31)。人は高き神のところまで上っていくことはできません。罪という重力が鷲のように翼をかって上らせないのです。しかし、弟子たちは復活されたイエスに言われました。「さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい」(ルカ24:49)。
 キリストの昇天後、祈り待ち望んでいた弟子たち上に聖霊がくだり、新しく力が与えられました。イエス・キリストの十字架と復活の福音を体得し、罪から解放され、自由に羽ばたき、鷲のように翼をかって上ることが出来たのです。その後の弟子たちの羽ばたきぶり、自由さは使徒の働きを見れば、分かります。今や、聖霊の時代です。使徒時代と様相は違いますが、主を待ち望む誰もがこの新しい力を与えられます。新しい力は「聖霊による福音のみ言葉」です。創造された「草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ」(40:8)。昨年、クリスマスの案内を教会に来たことのある方々に送り、ほのぼのメッセージを同封しましたら、一人の方から、「言葉の力に感動しました」というお礼の手紙とカードをいただきました。神のことばは新しい力があって、永遠に立つことばです。いまここに疲れている人がいたら、その人は聖霊による福音のみ言葉という新しい力があたえられ、鷲のように翼をかって上り、信仰的超越へと導かれるのです。

 ①秘訣は待って望む、待ち望むことです。よく、ふだん信心がないのに、困った時の神頼みは良くないといいます。しかし、「困った時こそ神頼め」と上智大の先生が本に書いていました(ピーター・ミルワード)。困った時や辛い時にこそ、み言葉を待ち望むのです。積極的受け身で待ち望むのです。そういう時こそ、み言葉が魂に臨んできて、新しい力をいただき、そこを超えていくのです。
 ②ジョン・ウェスレーは牧師の子でしたから、牧師になりました。しかし、悩みがありました。例えば、死刑囚に教誨師として、その時にふさわしい聖書の言葉を言ってあげると、その囚人は神の赦しをいただき、喜び輝いて召されていきます。しかし、自分自身には救いの確信がないのですから、問題です。友人に相談すると、そのまま続けなさい。いつか確信が持てるようになるからと言われ、続けているうちに、敬虔派のグループにふれ、ある集会で「心に燃える」思いを経験し、み言葉による救いの確かさを実感したのです。それからメソジスト運動へと発展していきました。「解らぬ時こそ神頼め」です。聖書の知識はあっても、霊的に分からない、ぴんと来ない、でも、生きたみ言葉として解るのを待ち望むのです。積極的受け身で待ち望むのです。適切な時に、み言葉が魂に臨んできて、新しい知る力をいただき、深い神理解へと翻っていくのです。


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