オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

愛は人の徳を建てる

2017-01-15 00:00:00 | 礼拝説教
2017年1月15日 主日礼拝(1コリント8:1~6)岡田邦夫


 「私たちはみな知識を持っているということなら、わかっています。しかし、知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。」。1コリント8:1

 車を運転して礼拝に来られた方、どう祈って来られましたか。私はというと素直に事故が起きないようにと祈っていましたが、スピード違反で捕まった後は、捕まらないようにと正直に祈ったりしていました。しかし、今は高齢者、その心得として、平静な気持ちでパニックにならないようにと祈るようになりました。
 先週、新年聖会に出席して、感心したことがあります。講師が祈るときにこのような一日であるようにと、必ず、一つのみ言葉を言って祈ってきたそうです。それはガラテヤ5:22-23です。「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です」。毎朝、毎日、欠かさずそうしてきたそうです。皆さん、それぞれが神に示された流儀があるでしょうが、このようなそういう心構えがあるといいと思います。そういう意味で、この聖書箇所を通して信仰者の心構えを学んでみたいと思います。

◇知る…知らないということを
 人は自分の知っていることを話したがるものです。私もその一人、それで自戒の言葉にしているのが2節です。「人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです」。あんなこと、こんなことと、知っていることを無邪気に話しているのはいいでしょう。しかし、その語りが上から目線で言うようになり、相手を裁くようになっていくことをここでは戒めています。1節後半。「私たちはみな知識を持っているということなら、わかっています。しかし、知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます」。知識が高慢にさせてしまう場合が問題で、警戒すべきことです。しかし、後半があるので救われます。「しかし、愛は人の徳を建てます」。口語訳は「しかし、愛は人の徳を高める」。私自身のことですが、不用意なことを言ってしまうこと、やってしまうことがありまして、それを改善しなければと思っています。「愛は人の徳を建てます」を心構えとする必要を感じました。皆さんはどうでしょう。
 詳訳聖書ではこの句をていねいに訳しています。『しかし、〔単なる〕知識は人を誇らせ〈みずからを偉いと思わせ、高慢にさせ〉ます。しかし、愛〔すなわち〕愛情〈善意〈慈愛〉は人の徳を高める〈人を育成する〈人を励まして〔十分な身のたけにまで〕成長させる〉のです〉〉』。これこそ、心得ておく言葉ですね。クリスチャンの心得帳に「知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます」を加えましょう。

◇知る…知られていることを
 コリントには崇拝する神々や女神を象徴する偶像があって、その偶像に犠牲としてほふられた肉が、神殿内で提供されたり、市場で売られたりしていました。その肉をクリスチャンは食べていいのか、悪いのか、それが問題でした。今日にも通じる異教とのかかわりの問題です。
 はっきりと、真の知識はこれだとパウロは言います。「私たちは、世の偶像の神は実際にはないものであること、また、唯一の神以外には神は存在しないことを知っています。…父なる唯一の神がおられるだけで、すべてのものはこの神から出ており、私たちもこの神のために存在しているのです。また、唯一の主なるイエス・キリストがおられるだけで、すべてのものはこの主によって存在し、私たちもこの主によって存在するのです」。創造の神、救い主・イエス・キリストは唯一の存在。私たちはその主によって存在し、神のために存在していると断言できるのです。
 それを知っていることで私たちは人生に、そして、来生に確信が持てます。それは素晴らしいことですが、さらに素晴らしい言葉が続きます。「しかし、人が神を愛するなら、その人は神に知られているのです」(8:3)。人は誰かに認められたい、解ってもらいたいと切望しています。その誰かが神であるならどんなに素晴らしいことでしょうか。人が神を愛するなら、その人は神に知られている。また、詳訳聖書を見てみましょう。『しかし、もし人が〈愛情のこもった尊敬と、快く即座に従う服従と、主の恵みに対する心からの感謝とをもって〉主をほんとうに愛するならば、その人は神に知られている〔すなわち、主との交わりと愛を受けるにふさわしい者と認められ、主はその人を自分のものと言われる〕のです』。

◇知る…知るべきことを
 コリントの信者の間で、偶像に供えられた肉が市場で売られているがそれを食べていいのか、悪いのか、異教とのかかわりの問題で、人によって違うけれど、どう対応したらよいかでした。パウロはその問題から、キリスト教の本質、恵みの世界へと導き出し、それから、具体策をのべていくのです。それを食べること自体は罪ではないと述べつつ、弱い人への配慮が必要だと勧めます。もし、良心の弱い人が、供え物の肉を食べる信徒をまねて食べると罪悪感を抱いてしまうこともあり得る。だから、「私(パウロ)は今後いっさい肉を食べません。それは、私の兄弟につまずきを与えないためです。」と言っています(8:13)。
 この配慮もイエス・キリストからくるのです。「彼らの弱い良心を踏みにじるとき、キリストに対して罪を犯しているのです」と戒め、「キリストはその兄弟のためにも死んでくださった」、そのような尊い兄弟なのではないか。そういう人を愛することは、神を愛することにつながり、自らの徳を高めることになり、また、その兄弟の徳を建てることになるのです。そうして、神に認められ、知られていく、そのような恵みの世界へと入っていくのです。
 以上を、四文字熟語で信仰者の心構えとしてまとめましょう。「建徳精神」「愛神信仰」「他者配慮」

おまけ
 愛媛の教会にいました時、教会員の御主人が広島の病院で手術をされました。戦時中、軍隊での虫歯が悪化して、年齢が進んで、あごのガンになっていたので、それを大きく切除して、腰骨を移植したのです。ところが移植した骨が着いてくれないのです。祈祷師がクリスチャンの奥さんのところに来て、宗旨をかえた者が親戚にいるから治らないのだというのです。それは迷信だから気にするなと言っても気になります。偶像との戦い。ですから、奥様と教会の兄弟姉妹は必死にいやさるよう主イエス・キリストに祈りました。と言っても骨はつかないのです。正月明けに検査して着いていなければ、移植した骨を取り除きますと言い渡されました。そうすると頬がそっくりこけてしまうのです。み言葉をいただいて、祈りに祈りました。正月明け、いいニュースが入ってきました。骨はついていると…。奥様も皆も大喜び、主のみ名を崇めました。そうして、完治して顔の変形もなく、退院しました。
 実は奥様に神の知恵が与えられました。カルシュウムとビタミンが必要だと直感しました。白身の魚をよく煮て、それを野菜と一緒にミキサーでジュースのようにしました。あごが使えないので、管で栄養剤を流し込みます。その時に、それを毎日かかさずしておりました。それが功を奏したのでしょう。退院の日、看護師がそのメニューを聞きに来たほどですから。「愛は人の徳を高める」。彼女の徳を高め、神の導きを信じて続けてゆき、着きそうにもない骨を着かせるという奇跡を起こしたのでした。
 ジュースの空き缶に短冊のついた造花の一輪差したものを牧師が見舞いにもっていきました。入院中、ずっと置いてありました。その短冊には「神は愛なり」と書いてあり、毎日、お二人で見ておられました。ご主人は寺の檀家総代でしたが、入院中、奥様の愛、教会の兄弟姉妹の熱い祈りを知りました。「神は愛なり」を信じるようになりました。本人がそう告白していました。信仰の奇跡です。「愛は人の徳を高めます」。『人の徳を高める〈人を育成する〈人を励まして〔十分な身のたけにまで〕成長させる〉のです〉』。宗旨を変えなくて済んだのです。ほんとうにイエス・キリストの神は唯一の存在、実に生きておられ、その方に知られている、愛されていることを彼は知ったのです。退院後、信仰告白をして受洗しました。


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