オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

神がまげたもの

2017-11-12 00:00:00 | 礼拝説教
2017年11月12日 主日礼拝(伝道者の書7:1~14)岡田邦夫

「神のみわざに目を留めよ。神が曲げたものをだれがまっすぐにできようか。順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ。これもあれも神のなさること。それは後の事を人にわからせないためである。」(伝道者の書7:13-14)

 先週のメッセージで105歳で召された日野原重明さんの10歳の子どもにされていた「命の授業」のこと、訂正します。「僕は、子ども達にこう問いかけます。『命はどこにあると思う?』そうすると子ども達は心臓のあたりを指したり、脳みそと答えたりするのです。…心臓はポンプ、脳みそは考え出す機能…『命というのは君達が使える時間の中にあるんだよ』と子ども達に伝えてきました。…生きていく時間のうち、人のために使ったほうが多い人が天国に行けるんだよ」(“生きていくあなたへ”p27-29要約)。
 「すべての営みには時がある」(3:1)のその時をどう生きるか、日野原重明さんの命の授業ではとても良く、伝えられていると感心します。

◇私の見た現実
 この書の題名は「伝道者の書」ですが、共同訳では原語を直訳し「コヘレトの言葉」としています。コヘレトは「集会で教える教師」「思慮深い指導者」「知恵を集め、学び、得た者」を指すともいわれていますので、原語にこだわったのでしょう。この書の展開の仕方からみると「知恵を集め、学び、得た者」という面があります。
 1:13-14を見るとその様子が伺えます。「私は、天の下で行なわれるいっさいの事について、知恵を用いて、一心に尋ね、探り出そうとした」と知的探求をします。しかし「これは、人の子らが労苦するようにと神が与えたつらい仕事だ」と嘆きます。「私は、日の下で行なわれたすべてのわざを見たが」と人間社会を観察します。しかし、「なんと、すべてがむなしいことよ。風を追うようなものだ。」と悲観します。そこで、人はどう生きたらよいか、知者として二つの道を教えるのです。
 ここで、神と人の間に立つ役割を担う「器」について大まかなことを述べましょう。その器は預言者、祭司、知者です。預言者は神がこう言われると上から下への告知をします。祭司は神と民との間に立って、とりなしをします。知者は現実の世界で知の探究をなし、下から上に向って問いかけをします。その三種はどれも欠かせない器です。
 例えば、イザヤ書では「目を高く上げて、だれがこれらを創造したかを見よ」と告げます(40:26)。彼は神を見たのであり、神はこう言う、神を見よとメッセージをするのです。しかし、伝道者は「私は日の下で、さばきの場に不正があり、正義の場に不正があるのを見た」と述べます(3:16)。イザヤの方は「神」が主語、ソロモンの方は「私」が主語です。預言者は人間社会の現実を上から見るのですが、知者は徹底的に日の下で、人間社会の現実を見つめ、考えるのです。私が見聞きしたこと、経験したことを書き留め、あれもあった、これもあったということを、それをああでもない、こうでもない、それはこういうことだと考え抜いたことを加工せずに綴っていったものです。
ですから、「私は日の下で、…があるのを見た」。このフレーズは繰り返されるのです。まず、3:16~22を見てみましょう。「私は日の下で、さばきの場に不正があり、正義の場に不正があるのを見た」。今風に述べることをお許しください。…昔も今も変わらない。不正がある。悩ましい事である。しかし、不正をして得をしたところでそれが何になるのか。心に責められるところがあるとしたら、神の裁きを予感させるもの。人の結末も獣の結末も同じ、死んでおわり、土に帰るのだ。だったら、神を恐れつつ、今の時を楽しもう。自分の仕事を楽しむほかはない。それが、神が与えた人の受ける分というものである。…

◇神の見た現実
 預言者であれば、現実はどうであれ、神を信じなさいというのですが、知者は現実はこうなのだから、その現実に即して信仰に生きるため、知恵を用いなさいと勧めるのです。伝道者の書も知恵の言葉が豊かです。
 4章.慰めるもののいない深刻な「しいたげ」、成功に伴う「ねたみ」、ひとりぼっち、いわゆる孤独。そこでの知恵の言葉。「ふたりはひとりよりもまさっている。ふたりが労苦すれば、良い報いがあるからだ。どちらかが倒れるとき、ひとりがその仲間を起こす」(4:9-10)。「もしひとりなら、打ち負かされても、ふたりなら立ち向かえる。三つ撚りの糸は簡単には切れない」(4:12)。
 この「三つ撚りの糸は簡単には切れない」は先日もお話ししたことです。このみ言葉が障害の方のおられる三人の家族にとって、救いの言葉となりました。格言のような言葉ですが、それが、魂を救う神の言葉として生きて働いたのです。
5章、金銭、財産のよくある悲劇。あっても満足できず、争いにもなる。「母の胎から出て来たときのように、また裸でもとの所に帰る。彼は、自分の労苦によって得たものを、何一つ手に携えて行くことができない。これも痛ましいことだ。出て来たときと全く同じようにして去って行く」(5:15-16)。
ここでの知恵の言葉。
「見よ。私がよいと見たこと、好ましいことは、神がその人に許されるいのちの日数の間、日の下で骨折るすべての労苦のうちに、しあわせを見つけて、食べたり飲んだりすることだ。これが人の受ける分なのだ。実に神はすべての人間に富と財宝を与え、これを楽しむことを許し、自分の受ける分を受け、自分の労苦を喜ぶようにされた。これこそが神の賜物である。こういう人は、自分の生涯のことをくよくよ思わない。神が彼の心を喜びで満たされるからだ」(5:18-20)。
6章、財産があっても、知恵があっても、「だれが知ろうか。影のように過ごすむなしいつかのまの人生で、何が人のために善であるかを。だれが人に告げることができようか。彼の後に、日の下で何が起こるかを」(6:12)。
 7章に知恵の言葉。「事の終わりは、その初めにまさり、忍耐は、うぬぼれにまさる」(7:8)。「神のみわざに目を留めよ。神が曲げたものをだれがまっすぐにできようか。順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ。これもあれも神のなさること。それは後の事を人にわからせないためである(7:13-14)。
 ある神学生が将来の伴侶にと、意中の人にみ言葉を書いて送り、プロポーズしました。本人が自分はひねくれ者だと自分で言っていましたからでしょう。これは上記の「神が曲げたものをだれがまっすぐにできようか。」でした。この方に何があって、この言葉になったか、意味深です。
しかし、「神のみわざに目を留めよ。神が曲げたものをだれがまっすぐにできようか。」は現実社会に生きる者には実に含蓄のある言葉です。人生、そんなに真っすぐにはいかないし、社会もそう。しかし、信仰者が知恵を巡らし、神が曲げたものと考えが落ち着くなら、幸いです。
 続きがあります。次回のメッセージを祈りつつお待ちください。


コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。