九州神社紀行-ブログ

北九州近郊を中心に神社および周辺風景の撮影日記です。

志賀海神社・仲津宮(福岡市東区)

2009-10-06 13:45:52 | 神社参拝ー福岡
 志賀海神社・仲津宮(福岡市東区)を掲載しました。

 仲津宮(なかつぐう)
【鎮座地】〒811-0323福岡県福岡市東区志賀島勝馬 旧筑前国 糟屋郡 
【御祭神】仲津綿津見神
【例祭】
【旧社格等】旧官幣小社(現別表神社)志賀海神社・摂社
 福岡縣神社誌には、無格社、仲津神社(志賀島村勝間字瀬脇)とあります。
【御由緒】
 神代より「海神の総本社」「龍の都」と称えられ、玄海灘に臨む海上交通の要衝である博多湾の総鎮守として志賀島に鎮座し、厚く信仰されている志賀海神社は、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)の禊祓(みそぎはらい)によって御出生された綿津見三神を奉祭している。 
 御祭神「綿津見三神」は海の底、中、表を守り給う海の主宰神として、海上交通の安全は固より塩・魚介類といった海産物の御恵をもたらす神として篤く信仰されている。また禊祓の神として不浄を祓い清め、諸々の災厄を祓除する御神威を顕している。さらに水と塩(潮)を支配し、潮の満ち干きによって人の生死をも司るとされることから人の命や生活の吉凶をも左右するとされている。
 古来、この綿津見三神を奉斎してきたのが神裔「阿曇族」である。この阿曇族は志賀島を海洋民族の一大拠点とし、国内・大陸との交易を行い経済的・文化的に高い氏族であった。
 その交易の足跡が長野県安曇野市穂高、対馬、兵庫、石川県志賀町、滋賀県安曇川、愛知県渥美半島など「しか」「あつみ」と称した地名に多く見られる。
 当神社の創建は明らかではないが、往古より勝馬に表津宮・仲津宮・沖津宮の三社で綿津見三神が奉斎されていた。凡そ1800年前、神功皇后の三韓出兵に際し舟師を率い御舟を導き守り給うた安曇磯良丸をして表津宮を当地の勝山の麓に遷座したとも伝えられている。
 『三代実録』では貞観元年(八五九年)従五位上、『延喜式』には明神大社に列せられ、神仏習合の時代では金剛山吉祥時と称されていた。中世、元寇の役など国家の非常に際しては赫々たる御神威を顕し給い、尊崇も深厚を極め社殿は壮麗で末社三七五社、社領五十石、奉仕する者百数十名と繁栄した。
 兵乱の世に衰徴したが豊臣秀吉の寄進や大内義隆、小早川隆景、小早川秀秋、黒田長政等諸将の寄進もあり、今から約350年前現在の社殿が再興、大正15年(1926)官幣小社に昇格、平成16年(2004)には平成の大改修を厳修し、今尚海の守護神、禊祓の神として、また鹿島立(志賀島立)として海陸空の旅行を守護されるため、浦参宮或は島参宮と称され篤く信仰されている。
 神社を中心に志賀島では、御祭神が禊祓の神であるが故に、神事に携わる時や参詣の折は斎戒が厳しく守り続けられている。また白砂青松の海ノ中道を有し、マテバシイの老樹鬱蒼とした古代の森と神跡を守り続けている。この姿こそ古代から連綿と続く安曇族の姿である。       

 「ちはやぶる金之三崎を過ぎぬとも吾は忘れじ牝鹿(しか)の須売神(すめがみ)」(万葉集巻七)
 
 「名にし負ふ龍の都のあととめて波をわけゆく海の中道」 (細川幽斎)

 (神社パンフレット「志賀海神社略記」より)

 博多湾の北入口に位置し、「漢倭奴国王」の金印で有名な志賀島にあります。島の北端勝馬地区の勝馬小学校裏(北)の小山に鎮座しています。
 県道から勝馬小学校入口の案内に従い左折(海側へ)し細い道に入り、道なりに進むと左手に鳥居が見えてきます。

 鳥居の扁額扁額には「勝馬宮」とあります。
鳥居の前の標柱に「明治三十四丑年三月吉祥日」とありますのでこの日の建立でしょうか?

   参道
 鳥居をくぐり、雑草の茂った参道を進むと樹木に覆われた参道です。

 拝殿参道を数10m登り切った頂上に社殿です。

 拝殿 
 社殿のある境内は鬱蒼とした樹木に覆われ、薄暗く独特の雰囲気を醸し出しています。施錠された内部に賽銭箱があり、正面の扉の一部が手を差し入れられるよう開けてあります。

 拝殿内部拝殿内部は綺麗に整理整頓されてがらんとしています。

 本殿 
 本殿は板で覆われ保護されています。
御祭神は伊邪那岐命が黄泉の国から戻り禊祓をした時に、住吉三神とともに出現した綿津見三神の一神、仲津綿津見神です。
 創始は不明ですが、本社志賀海神社が神功皇后の三韓出兵に際し現在地(勝山)に遷座される以前から当地に表津宮・仲津宮・沖津宮の三社が祀られていた伝えられています。

 磐境?拝殿左、海に向かってあります。磐境?と思われます。

 境内社本殿右にあります。御祭神、社名等不明です。

  拝殿から参道社前には中津宮古墳があります。

  中津宮古墳
 この古墳は、7世紀前半ごろ(古墳時代)に造られたもので、勝馬を基地とした海人集団の首長の墓と考えられます。                      この古墳は円墳で、円丘の径7m、高さ1.55mの大きさをもち中津宮の前庭に位置しています。
 埋葬は、まず、長さ約3.8m、幅約2.8mの長方形の竪穴を掘り、その中に平たい石を用いて、4段以上に組み石室を造り(堅穴系石室)、少なくとも5体の埋葬が行われていたと考えられます。石室の床面には、須恵器の浅底のお椀のようなもの(杯身・坪蓋)、須恵器の壷、鉄鏃・鉄矛・刀子・鉄斧などの鉄器、表面に銀をはった金属製の耳環、ガラス製管玉・小玉等が副葬されていました。
                             1997年3月
                            福岡市教育委員会
 (鳥居そば案内板より)

 右(西)に降りると下馬ケ浜、左(東)側は参道入口の鳥居に出ます。

  参道から玄界島
 下馬ケ浜への参道(裏参道?)から沖合い5kmほどの玄界灘に浮かぶ玄界島です。

  西側参道(裏参道?)入口
 下馬ケ浜の北端近くの万葉歌碑(志賀島10号碑)のすぐ側が入口です。

  西側参道(裏参道?)
 入口の樹木のトンネルをくぐると綺麗に整備された石段の参道です、数10m上ると社殿です。
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