旅カナ-BLOG-

旅が好き!アジアが好き!海が好き!イラスト・ダイビングログブックと旅日記。

フィジーみやげ

2009-07-26 21:02:50 | Weblog


マイミクhisashiくんから嬉しい贈り物が届きました。
フィジーからのおみやげです!かわいい~

カレーパウダーとフィジー・コーヒー&紅茶、そしてブラウンシュガー。
かわいい布に包まれていました。お手紙にはフィジーからやってきたサンゴのかけらが添えられて。
いいね。こういうセンスが大好きです。

hisashiくんとはベトナムで出会って、実家が近所って分かって、その後ベトナム料理やカンボジア料理を食べに行ったりして、すっかり仲良しに。
悩み多い時期もあったhisashiくんは、そのせいなのかとても人への情が深い人です。
鷹揚で気散じな私に、申し訳ないくらい親切な彼は、20代とは思えないくらい気が利く人なのです。友だちが多いのも頷けます。
彼みたいな人への気遣いが出来る人になりたいものです。

嬉しいな。hisashiくん、ありがとう♪

しまの会社2

2009-07-25 21:33:19 | Weblog
つづきです。

弓削島の小さな入江で、小さな潮干狩り大会が始まった。
この海のことなら何でも知っている、貝採り名人のかずこさんと近所のおばあちゃん良子さんのあとについて、岩をひっくり返してニシと言われる小さな貝を採ったり、岩と岩の隙間に生えているカメの手をひっぺがしたり…。
何だか楽しいぞ。ひっじょーに地味な作業ではあるが、「食べるとおいしい」と言われる貝をコツコツ探すのは、地道ながら妙に楽しい。

そして、採れたのがこちら。カメの手、もしくはタカの爪と言われている。



うわっ!っていうぐらいグロいでしょ?(笑)まんまガメラって感じ?
一体これのどこが食べられると言うのでしょうか?



そしてこちらがニシ。こらこら、逃げるんじゃない。



貝採り名人のかずこさん。海をバックに缶ビールをあおる姿がかっこいです。



一緒に貝を採った良子さん。御歳70過ぎですが、ふと見るとめちゃめちゃ大っきい岩をひっくり返していたり、でっかい岩の上によじ登ったりしていて、目が点になりました。



こんなものも採れるんでーす。採れたての生ウニを肴にビールなんて最高の贅沢!
バフンウニとムラサキウニの2種類があって、それぞれ味が違う。
海水で洗って食べるから、潮が効いていてウマイです♪



そして、採れた貝を良子さんが料理してくれるというのでおうちへお邪魔する。
出来ました!茹でニシです。良子さんがおもむろにお針箱を持って来て、中から取り出したのはまち針…!そう、まち針で突いて中身を取り出して食べるのです。生活の知恵です(笑)そのギャップがまた楽しい。
これがまた旨い!いくつでも食べられる。止まりませーん。



あ、ちょっと写真がボケちゃってるけど、これが良子さん自慢のカメの手の味噌汁。
これが「!!!!!」というぐらいおいしくて、本当に目からウロコの代物でした。
ああ~シアワセ。

そして、このあとかずこさんの島の暮らし談義が始まった。
子供の頃は、学校に行きたいくないときは、友だちと“山学校”へ。あけびを採ったり、タケノコを掘り出したりして食べ、本当に山ザルみたいだったと豪快に笑う。
いいなあ、素敵だなあ。自然とともにある暮らし。
人間が人間らしく、イキイキと生活している。自然に学び、自然から命をいただき、仲間とともに知恵を身に付け、あるもので満足する足るを知る暮らし。

弓削島の本当の資産は、この自然と、自然を生かす生活の知恵を持った、明るく親切な島の人なんだ、ということがはっきり分かった。


そう言えば私も20代の頃は旅と言えば、ローカルの人と仲良くなって、招かれるまま人んちにあがりこんで、その家の子みたいにニコニコごはんをいただく、みたいな旅ばかり繰り返していたっけ。

私にとっては、有名な観光地よりもレストランの豪華な料理よりも気持ちいいスパに行くことよりも、地元の人の普通の生活と、その家のお母さんが食べさせてくれる家庭料理が何にも勝る最高のアトラクションだった。それでお父さんが歌を唄ってくれたり、子供たちと一緒に遊べたりしたら、本当にもう何も言うことはないのだった。

その面白さと楽しさと喜びこそが、私の旅の真の目的だったりすることを、案外人は知らないが、多分弓削島に連れて来てかずこさんと山学校して岩ガキ採りでもして一緒にビールでも飲めば、“世界でいちばん楽しい旅”の意味が分かるんじゃないかと思う。
お金で買えない価値がある、とはどこかのカード会社の広告コピーだったが、まさしく人間とはこんな体験価値にこそ、プライスレスな価値を感じる生き物なんじゃないか?と私は思う。

ということで、私からの「しまの会社」へのアドバイスは、島のモノを売ろうとするんじゃなくて、島の暮らしの体験価値をこそ売って下さい、ということなのでした。

兼頭さん、まだまだ儲かるネタはごろごろ転がってますよーーー!

以上、ちいさなちいさな島の旅報告おわり。



しまの会社

2009-07-25 00:49:42 | Weblog
この前の3連休、1泊2日で瀬戸内のある島に行っていた。
尾道から船で約50分、弓削島という小さな島。所在地で言うと愛媛県上島町。

そこに「しまの会社」という会社を起こした人がいる。今月のソトコトにも載っていたので見た人もいるかも知れない。「しまの会社」は、“島民の島民による島民のための会社”を目指して、地域の人々が本当の意味での豊かな暮らしを自らの手で実現させるという志を持って設立された会社だ。
代表の兼頭さんは、東大を出て大手印刷会社に勤めたあと、弓削島の人々の人情に触れ、Iターンを決める。
“地域起こし”というと自治体の仕事であるように思われるが、決して十全とは言えないその役割を、営利事業という形で担おうとする人が今増えている。兼頭さんもその1人であり、いわゆるソーシャル・ビジネスといわれる新しい事業形態になる。
最近でこそそういった事例がメディアを通じて紹介されるようになり、知っている人は知っている動きになっているが、一昔前なら「なんでそんなことしてるの?」「それは行政の仕事でしょ」と片付けられていたようなことを、「行政には任せておけんのだ」と立ち上がる人が、日本のあちこちに出て来ている。

NPOと違うのは、利益の出る収益活動として行うことで自発性と自律性、そして持続性を持たせようとしているところ。NPOなら、各方面に寄付をお願いして回るところを、人が自らお金を払いたいと思うような付加価値を創出すること、つまり事業創造によって、収益源を確保しようとするところが最も大きな違い。

自分もそういった理想を企業の中に在籍しながら志していることもあって、社会的企業家/起業家と言われる人の動きには敏感になっている。
最近ではNHKでも「チェンジ・メーカー」という番組などが企画され、徐々にその考え方或いは活動は普通の人にも認知されるところになって来ていると思う。

さて、ということで、こちらの「株式会社しまの会社」では、果たしてどんなことになっているのか?をこの目で見て来ました。



こちらが「しまの会社」の本拠地、地域コミュニティと外部から来た人の交流の場ともなっている「しまでカフェ」
港から歩いて5分ぐらいのところにあり、島の特産品を使ったカフェ・メニューが提供されている。

兼頭さんはこの日開催されていたイベント(ヨットレース)に参加されていたこともあって、しばらく現れず。お昼ごはんなどを食べながら待つ。

率直な感想を述べさせてもらうと、ひとことで言って、大いに改善の余地あり、といったところ。
内装デザインはやりようによっては最もエッジィにコンセプトを人に伝えることが出来るものだし、特産品の陳列棚のあり方ひとつ取っても、“買わせる”デザインというのはあるはず。
色んな意味で惜しい感じがした。でもそれは、まだまだ伸びしろがあるということでもある。

そうこうしているうちに兼頭さんが来られて、ごあいさつ。いかにも実直な感じの方でした。

一通り話を終えて、島巡りをすることに。



さっきまで降っていた雨が上がり、さわやかな海と空が目の前に広がりました。



カフェの前に止めてあった電気バイク。かわいい。誰のだろう?
手付かずの自然が残るこの島には、環境にやさしい乗り物が似合う。






今日は島の海開きの日。「みんなここにおったんか…!」というぐらいたくさんの人が海水浴場に集まっていました。海開きイベントもいろいろあった模様。みんな楽しそう。




兼頭さんの車で島の海沿いの道を走る。ああ、海がきれいだなあ…! なんていいところなんだろう!




兼頭さんです。




さて、何をしましょうかね、という話になったとき、兼頭さんが突然携帯で電話をかけ出し、「磯遊びしますか?」と言われ、「はあ」と言っているうちに車はUターンして海岸へ降りて行く。
兼頭さんは道沿いの民家に「こんにちはぁ」と入って行き、中から元気のいいおばちゃんが出て来て、「ちょっと待っとってね」と言って、しばらくすると手にバケツと潮干狩りの道具を持って出て来た。
「この人は海のことなら何でも知ってますから。貝採りの名人です」と兼頭さん。
「何言ってんの」ふふふ、と笑って長靴を履いたおばちゃんは私たちをいざなって海へ降りて行く。

そこは小さな入江で、目の前には広がっているのは弓削島の大平洋。青い海に遠く近く島々が浮かんでいる。
ここで私たちは思わぬ拾いものをすることになったのでした。

つづく。

映画「ディア・ドクター」

2009-07-18 22:28:05 | Weblog

(C)「Dear Doctor」製作委員会

金曜日、映画「ディア・ドクター」を観た。笑福亭鶴瓶扮する山村のニセ医者の物語。この監督すごく上手い。私は西川美和監督作品は初めて観たけれど、前作「ゆれる」も評判は高かった。
この映画の粗筋を聞いて一番に思い出したのが「ブラック・ジャック」の中の、やはり僻地のニセ医者の物語。大方の映画評が黒澤明の「赤ひげ」と比較していたけれど、私は断然B.Jだ。

<以下、ネタバレありです。映画を観た人だけお読み下さい。>

医師免許=資格があっても、人間を診る資格のない医者は大勢いる。それよりも、人が人として生きて、働いて、時に病にかかり、また回復して、そして人として死んで行くとはどういうことなのか?を理解して医師役を務められる人間の方が、はるかに今必要とされているということを、この映画は雄弁に語っている。
都会の病院に行けば、病状を診てはくれるが、その人がどういう暮らしをしていて、何に悩み、何を大切に思い、何を望んでいるか?を尋ねてはくれない。病院という日常とは切り離された空間で、人は、普段の自分とは異なる“患者”という役にならなくてはいけない。鶴見和子ではないが、主体性を奪われ、医師の言うことが絶対であるかのように、服従を強いられる。

この映画の中で医師伊野が演じてみせる医者は、それとはまったく逆の医者の姿だ。主客で言うと間違いなく主は村人で、伊野は村人が望む通りのことをしてみせているだけなのだ。だからこそ、伊野はニセ医者であるにも拘らず、村人に深い満足感を与え、信頼され、感謝される。この映画の主題は偽者と本物、だと思うが、人が騙されるのは、その人が「騙されたい」と思っているからなのだ。騙されたい、という言葉が適切でないとするなら、“こうあってほしい”という強い願望があるから、と言い換えてもいい。“医者がいたらいいのに”“安心して暮らしたい”という村人の切実な願望が、偽者だろうとお構いなしに、彼を医者に仕立てて行く。
伊野は詐欺師であったかも知れないが、それは村人全員がそうさせていたのだ。

世のお年寄りの9割方は、死ぬときは病院のベッドで管につながれて死ぬのなんか嫌だと思っていて、ほとんどの人は、自分の家で畳の上で家族に手を握られて、馴染みの主治医に看取ってもらって(できれば苦しまずに)死にたい、と思っているはずだ。それは、治療を受けること、すなわち生きることを拒んで死にたいということではなく、死ぬ瞬間まで、丸ごとの自分でいたい、という人間としての尊厳の問題なのだと思う。にも拘らず、大方の人は“それだけは嫌だなあ”と思っているあり方でしか死ぬことは許されない。

伊野医師が、危篤のおじいちゃんのところに駆け付けて、いよいよというとき、延命措置として心臓マッサージをしようと手をかけたとき、周りの家族の“やるのか?本当にやるのか?”という無言の圧力がものすごくリアルだった。おじいちゃんは多分もう90歳を過ぎていて、「ここでコロリと死ねたら、じいちゃんもオレ達もそっちの方がハッピーなんだよ、ここで生き返らせて、それでその後どうなるって言うんだい?」という、絶対口には出せない本音が、伊野医師の手を止めさせる。

うちのおばあちゃんが同じようなことを言っていた。「死ぬときは病院じゃなくて、完岡先生にうちに来てもらって、手を取ってもろて死にたいわ」と。それは“善く生きる”ということを、最後のいちばん大切な瞬間に決して壊さないでほしい、という最も人間らしい願い。現代の医療が、どんなシチュエーションであっても“延命”という行為しか知らず、“善く死ぬ”という主体的行為を助けられはしないという決定的な問題点を露呈していると思う。

この映画のもうひとつの論点として考察しておかねばならないのは、田舎に残された老人(親世代)と、故郷や年老いた家族と切り離されて都会で暮らす子供世代、という、日本の社会の、少子高齢化よりももっと深刻な二重構造の問題だ。どんなに高齢化が進んでいたとしても、老人が同じ共同体の中で若者と友に暮らす限り、孤独や無力感とは無縁だ。

映画の中で八千草薫演じるかづ子が都会で医者を務める娘に心配をかけたくないという理由で、自分の病気を娘に知らせないでほしいと伊野医師に頼む。「娘たちは一生懸命努力して今の暮らしを手に入れたから。」と。娘への気遣いが、彼女の命を危険にさらして行く。

日本の今の豊かさは、こうした親世代の犠牲の元に成り立っているということを忘れてはいけないと思う。私だって、実家を離れて1人で暮らして都会で働いて経済的に豊かな生活を送っている。しかしそれは、親が健康でいてくれて、私を自由にさせてくれているからこそなのだ。しかし本当は若者は古い世代を支えてともに暮らすというのが社会の本来の姿なのだと思う。3世代同居の家で育ったため余計にそう思うのかも知れないが、この世代間の断絶は日本の将来に大きな問題を孕んでいることは間違いないと思う。

「ディア・ドクター」はこの他にも、今の日本の社会と人間の根源に関わるいろいろな問いを投げかけていた。とても良い映画だったので、ぜひたくさんの人に観てほしいと思う。