旅カナ-BLOG-

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もうすぐ8月。そして映画『インディ・ジョーンズ』と『パールハーバー』

2008-07-30 01:18:07 | Weblog
あるTV番組で10代の若者にインタビューしていた。
「1945年8月6日に日本で何があったか知っていますか?」
「…さあ?」

私だって当然戦中世代ではないが、今の若い子には原爆の史実なんて、本当に本当に遠いものでしかないのだなと思った。

この間映画『インディ・ジョーンズ・クリスタルスカルの王国』を観に行った。

大大大好きなインディ・ジョーンズ。もうハリソン・フォードはおじいちゃんだって分かってるけど、それでもあのワクワクをもう一度味わいたくて映画館に行った。
おじいちゃんになったことさえもギャグにするほど逞しくしぶといドクター・ジョーンズの冒険活劇は、確かに面白かった。
だけど深夜の映画館を後にして、何だか充分に楽しめなかった自分に気が付いた。

原因はあのキノコ雲。

ドクター・ジョーンズが軍事施設の近くの街と勘違いして入って行った核実験施設場で、いきなり秒読みが始まり、配置されたマネキン人形の頭の上で核爆弾が炸裂するというシーン。ドクター・ジョーンズは“鉛製”の冷蔵庫の中に隠れて、間一髪助かるのだが…
一瞬で音もなく溶けるマネキン人形のリアルさや、間近で彼が見上げる巨大なキノコ雲の不気味さと、その後軍の施設の中で真っ裸のドクター・ジョーンズが防護服に身を包んだ作業員に囲まれてブラシで体をごしごし洗われるという脳天気さが、ものすごくミスマッチで、「そういうもんじゃないでしょう」と思わずつぶやいてしまった。

何でしょうね、こういう無神経さがいかにもアメリカなんでしょうか?

他の監督が同じようなシーンを描いたのなら、私も表現の自由の方を尊重して、何も言わなかったと思う。けど、これを製作したのが天下のスティーブン・スピルバーグとジョージ・ルーカスというところが、なんともやり切れない。
自分達の映画を、一体世界で何億人の人が観ると思っているんだろうか?
プロパガンダ映画ではなく、娯楽大作であるがゆえに、何の抵抗もなくこのビジュアルを受け入れる人の数を考えて欲しい。

核兵器は家に鉛製の冷蔵庫があれば助かるものですか?
核は被爆してもその後体を洗えば取れるものですか?
これを広島、長崎の被爆者の人が観たらどんな気持ちになるか考えましたか?

世の中に大きな影響力を持つ人は、政治家であれ、映画監督であれ、己のアウトプットするものにもっと神経を使って欲しい。
別にインディ・ジョーンズはあの核実験のシーンがなくても充分スペクタクルでエキサイティングで超娯楽大作でしたよ。
これがかの名作「太陽の帝国」を撮ったスピルバーグ氏の見識かと思うと残念でならない。


8月が近いので、もう1つこの前CATVで観た映画『パールハーバー』についても触れておこう。
こちらは娯楽大作とも言い難い金ばかりかかった駄作であったわけだが、最後まで観てしまったので、せめてその損を取り返すために言わせてもらう。
確かに旧日本軍がハワイで行った奇襲作戦は、アメリカ人にとっては忘れ難い屈辱で、歴史の汚点なのには違いない。しかし、この“アメリカ万歳・戦争ヒーロー”の思想はいかがなものか?
これが2001年の9.11の直後に公開された映画と聞けば、何となくその意図はピンと来るが、そのために史実を曲げてまで、戦争と戦争で闘った軍人を美化しなければならないアメリカ映画産業の歪んだ現実を目の当たりにした気がした。

戦争は、仕掛けた方もやり返した方も、どちらも罪人である。
どちらかが善でどちらかが悪ということなど決してないし、イデオロギーを振りかざして敵を作れば、引くに引けなくなって、どちらの側も疲弊する。勝っても負けても後に残るのは哀しみばかり、ということに皆気が付いているのに、こういう映画の作り方は本当に観衆を愚弄していると思う。

ただ1つ功績があるとすれば、この駄作をきっかけに、第2次世界大戦と真珠湾と東京大空襲について語る人や調べる人が増え、戦争の記憶が人々から薄れるのを少しだけ引き延ばしたという点だけだ。


いつになく硬い内容になりましたが、改めて命の尊さを知った7月に。
映画と平和をこよなく愛した彼に捧ぐ。



映画「西の魔女が死んだ」

2008-07-16 00:45:05 | Weblog

今日は定時で仕事を切り上げて、映画「西の魔女が死んだ」を観に行きました。
マイミクしおちゃんの娘さんの登校拒否の日記を読んで、何となく気になっていた映画。うちの会社も衣装提供で協力しているということを知り、観てみようと思ったのでした。

ストーリーは知っている人も多いと思うので、敢えて書きませんが、人は成長の過程でこういう“避難場所”があると、どんなにか救われるだろうに!と思ったのでした。
自分には子供がいないので、今の子供の現状については伝え聞くだけですが、何かつまづいたとき、行き詰まったとき、こういう風に無条件で自分を受け入れてくれる“寄港先”が必ず必要なのに、今それを持っている子供はあまりにも少ないのではないか?と思えてならないのです。

立ち止まることを許されず、右肩上がりの成長を期待される子供たち。あるいは、ドロップアウトしそうになったとき、腫れ物に触るように周囲の大人に接されて、逆に本当の自分を見せる機会を失う子供たち。何かがおかしい、そう思っていても、誰も彼女の正面玄関でない“もう片方のドア”をノックしてさりげなく入って行ける人がいない。画一的で狭すぎる人間関係。“本当に大事なこと”を教えてくれない大人たち。

でも本当は、これは子供の問題だけではなくて、いくつになっても人には、智恵と経験と愛情に溢れ、しなやかな方法で気付きを与えてくれる“おばあちゃん”の存在が必要なのかも知れません。

映画の中でおばあちゃんが少女まいに教える「魔女修行」は、平凡なことを日々繰り返し、しかし“やらされる”のではなく、“自分で決めてやる・やり続ける”ということでした。「これが出来ないと魔女にはなれないのよ」と、おばあちゃんはいたずらっぽく笑いかけます。そのとき、無気力だった少女の瞳が大きく輝くのをおばあちゃんは見逃しませんでした。
確かに、歳を重ねた女性がときどき見せる「ええっ?!」と驚くような直感力の鋭さや、「見ていたのか?!」と思うような洞察力には、「魔女?!」と思わせる部分があります。でもそれは、日々の暮らしの中で細やかに対象を観察し、変化や兆しに気付く力を彼女たちが身に付けて行ったからに他なりません。それは、日常とか足元を大切に生きる姿勢からしか培い得ないということを、おばあちゃんは家事や庭仕事を通して教えたかったのだと思います。その能力を「魔女」と呼んでもいいけれど、それは人間誰もが本来持っている、けれど磨かないと発揮されない、スーパーな生命力のことなんだろうなと思いました。

自然の中で、自然と共に生きる、けれどとても洗練されたおばあちゃんのヨーロピアン・カントリーな暮らしも、多分今の若い人にとってはとても魅力的に写るんじゃないかと思います。おばあちゃん魔女と一緒にゆったりした時間を過ごしたい人と、今のライフスタイルをちょっと見直したい人も、観に行ってみられてはいかがでしょうか?