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マーケティング宗教論

2005年08月26日 | ビジネス・マーケティング

これだけ科学技術の知識が普遍化した現代において、未だにカリスマ的な教祖や超常現象が起こると信じさせる旧来の宗教は受け入れ難くなっている。これは昔からある宗教もそうだし、新興宗教などは滑稽なレベルですらある。(雨乞いの儀式をやっても雨が降るわけではなく、つぼを置かないと不幸が付きまとうわけでもない。これらに科学的な根拠はまったく無く、かなり高い確率でこれらの宗教儀式は期待を裏切るだろう)

宗教によって不当にカネを巻き上げたり、暴力行為に及んだりすることは、もってのほかである。しかしそのようなことも旧来の宗教ではまかり通っていた。

21世紀の現在、最も我々の生活に密着し、実感しやすい宗教は、実は「マーケティング」ではないかと考える。マーケティングという言葉の受けるイメージと宗教のイメージとは一見かけ離れているようだが、それをマーケティングを「金儲けの道具」と考えるからであって、「人に便益を与え、自分に対価が与えられることにより、市場に参加するみんなが幸せになれる思想」と考えれば、なるほど宗教的な性格を帯びてくる。

市場社会は今大変な競争下におかれている。その中で様々な問題が噴出している(リストラ、サービス残業、会社ぐるみの不正行為・・・)それらは人を不幸にするものばかりである。こんな中で、何がマーケティングが宗教だ、という意見もあるだろう。しかしそのような問題マーケティングの本質をわかっていないことによる不幸なのだ。本質を理解してみんなが活動するようになれば、きっと幸せになれる。

市場社会に生きる端くれとして、マーケティング宗教の信者として生きてみるのも悪いことではないかなと思う。といってもいまいちピントこないと思うので、とりあえずは、聖書・経典に類するものを作らないといけない。従来のマーケティング書が経典でも良いでは無いか、との意見もあるだろうが、私が作りたいのは「マーケティング技術指南書」ではなく、「心の拠りどころ」となり得るものである。これに従って日々の生活を送ってゆけば、幸せな日々が待っている。今後気がついたらリファインをかけ続けるつもりである。


「マーケティング宗教 経典(draft1)」

人に便益を与えれば、自分も幸せになれる。

 × × ×

人に便益を与えることの対価は、自分にもたらされる。それが幸せである。

 × × ×

人に便益を与えるには、人のことを分析しなければならない。人が何を便益と思っているかを考えなければならない。

 × × ×

人に便益を与えるには、独りよがりではいけない。自分だけが良くても、相手が欲しくないものを与えてもいけない。

 × × ×

人に便益を与えるときに、自分の対価を犠牲にしてはならない。想像力を発揮して、自分の対価を確保しつつ人に便益を与えなければならない。

 × × ×

人に便益を与えるには、用意周到に計画しなければならない。一人ではなく組織が必要であり、それを纏め上げるマネージメントが必要である。

 × × ×

自分の対価を求めるあまり、組織の対価がおろそかになってはならない。
組織の対価を求めるあまり、自分の対価がおろそかになってはならない。

 × × ×

短期的な便益を与えてはいけない。短期的に対価がもたらされるが長続きしない。

 × × ×

教祖、神、預言者の類はいない。しいて言えばすべて「市場」である。

 × × ×

布施は自己投資のみである。経典を作る人間、布教する人間に一切の布施は不要である。


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