傍観者の独り言

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「検察の正義」と「市民の正義」が合体した怖さ・・・「善良」なる語句は形式的な枕詞

2010-04-30 15:24:57 | 検察・メディア

伊藤博敏氏が「現代ビジネス」に、小沢幹事長の陸山会の政治資金事件で、検察審査会の「起訴相当」の議決について、コラム『「市民感覚の正義」と検察の「素朴な正義」がひとつになる危うさ・・・小沢捜査に執念を見せる特捜部』で、検察の「素朴な正義」と市民感覚の「正義」が合体する怖さを論評しています。
伊藤博敏氏は、「市民」が、「法」より「感覚」を優先、「正義」を遂行する是非を問い、自らの感情におもねって「正義」を実現しようとする検察と同じ危うさがあると指摘しています。

検査審査会の議決には、司法の専門家も異論を表明していることは承知しているが、司法に疎い当方には、伊藤博敏氏のコラムはバランスのとれた論評と思いましたね。
「法」より独善的な「正義」が優先し、それを喧伝するメディアも独善であり、それで論評する政治家・評論家も独善で、市民感覚も独善で、世の中、独善的な正義の連鎖で、「善良なる」語句は、枕詞に過ぎないと思いますね。

伊藤博敏氏は、この度の検察審査会の議決を
”「新聞各社は、一様に、検察審査会の「市民目線」や「善良な市民感覚」といった言葉を抵抗なく受け止め、捜査のプロであり、起訴するかどうかを決める検察に、「捜査を尽くせ!」と、奮起を促した。」”
と報道しているが、
”「しかし、小沢氏の「起訴相当」を厳しく重く受け止める前に、「市民感覚」の是非を問うべきだろう。「市民」が、「法」より「感覚」を優先、「正義」を遂行していいものか。そこには、自らの感情におもねって「正義」を実現しようとする検察と同じ危うさがある。」”
と「法」より「感覚」を優先した「正義」をうたう危険性を提起しています。

伊藤博敏氏は、特捜案件はすべて「国策捜査」とみなし、

”「権力者の監視装置として機能してきたのが検察で、なかでも捜査権と公訴権を駆使して「政財官の癒着」に切り込み、政治家の不正を暴いてきた特捜検察だったが、特捜部のパワー限界により、恣意的に事件化し、しかも起訴にむけて事件を組み立てる「シナリオ捜査」になるとし、事件化は公訴権を独占する検察に委ねられ、その基準は事件化が国益かどうかであり、特捜案件はすべて「国策捜査」といっていいと語っています。」”

そして、数ある疑惑から何を基準に立件すべき事件は、「権力を利用して不正を働くような強者への怒り」であり、そこにあるのは、「素朴な正義感」と評してします。

小沢捜査・不起訴については、

”「小沢捜査を指揮したのは、佐久間達哉特捜部長で、捜査の継続と「小沢起訴」を進言したのは、大鶴基成最高検東京担当検事だった。
大鶴氏が特捜部長時代に佐藤栄佐久元福島県知事を収賄で逮捕、その時、副部長として支えたのが佐久間部長だ。二人は「東北の談合事情に詳しい」という自負があり、それが「胆沢ダム」の工事業者を徹底聴取、裏ガネが小沢氏の政治団体に回っていることを立証し、「小沢起訴」につなげようとする捜査となった。

ただ、サブコンの水谷建設から「5000万円を小沢事務所の秘書に渡した」という供述は得たものの、起訴された石川知裕元秘書(現代議士)は頑強に否定。「秘書のカベ」を突破することができず、「小沢起訴」を断念した。。
」”

と論じています。

そして、大鶴検事の固執は、続くとし、

”「大鶴検事は、捜査継続を志願、3月1日付で東京地検次席検事となった。直接の現場指揮官ではないが、特捜部長の直属の上司として捜査を支え、指揮することもできる。大鶴次席は、今回の「起訴相当」を読んでいたように、ゼネコンやサブコンに対する水面下の捜査を指示、仮出所(脱税事件で服役していた)した水谷功水谷建設元会長などの聴取を行っている。
この固執の原点を、大鶴次席の言葉がある

「不当に利益を貪ろうという人たちは、摘発されないように巧妙な仕組みを作っているのですから、多少の困難を前にして捜査を諦めたのでは、彼らの思うつぼです。」”

と紹介し、そこにあるのは、不正は許さないという「素朴な正義感」と論じています
」”。

伊藤博敏氏は、検察の暴走を、捜査権と公訴権を持ち、マスコミ本流の「司法記者会」を味方につけているという傲慢さが生んだといっていいと論じ、その暴走の起因は、「法」ではなく「正義」という感情から発するとし、そして、
”「検察審査会もまた市民目線の「正義」で判断を下すのでは、「グレー」に色分けされた被疑者は、感情によって起訴されることになる。「法」ではなく、「正義」という感情が被疑者を追い詰めることが正しいのかどうか」”
を論議する時が来ていると結んでいます。

当方は、伊藤博敏氏のコラムでの「検察の正義」と「市民の正義」が合体した怖さは賛同しますね。

検察の「素朴な正義」も独善的な正義感であり、検察審査会の市民の「正義」も独善的な正義感であり、「法」より独善的な正義が優先することに危険性を内在している怖さがありますね。

大鶴検事の特捜部長時代に佐藤栄佐久元福島県知事を収賄事件で、サブコンの水谷建設から「5000万円を小沢事務所の秘書に渡した」という供述が小沢幹事長の不動産疑惑の重要な部分ですが、佐藤栄佐久元福島県知事を収賄事件そのものが疑問なのです。

佐藤栄佐久元福島県知事の収賄事件については、本ブログ「検察の閉鎖性独善は糾弾されるべきですね。」で、
”「「週刊朝日」は、佐藤栄佐久・前福島県知事の”冤罪”とし、「支持者脅し虚偽の自白に追い込む検察の手口」として、特捜の不当な取調べで、「虚偽の自白」をした経緯と紹介しています。
福島県知事汚職事件については、郷原信郎氏の『どうした!東京地検特捜部 “手柄を焦る”組織の疲弊~福島県知事汚職事件』を読み、注目し、その後、神保哲生氏が、『「物言う知事」はなぜ抹殺されたのか』で、ゲストに被告の佐藤栄佐久氏(前福島県知事)を迎え、郷原 信郎氏の司会での討論の概容を紹介しており、本ブログ「検察の劣化:前福島県知事汚職事件の裁判・・・問題意識が希薄に?」で、郷原信郎氏の問題視している「自白の偏重主義」」に同感し、冤罪の回避には、取調べの可視化は不可欠。
」”
と書きました。

大鶴検事が事件化した佐藤元福島県知事の収賄事件は、「素朴な正義」が起因となっていても、その手法は閉鎖された犯罪行為に等しいと思え、検事の資質を疑いますね。
そのような検事が、「小沢は、看過できない罪悪人」という思い込みは、偏重・偏見に過ぎす、「素朴な正義感」とは思えないですね。
偏見の検事と全面的に同調する市民には、バランス感覚のある「善良な市民」とは思えず、検察批判しない報道機関も自省・自制もなく「善良なメディア」とも思えず、報道に毒されて批評する輩も「善良なる人間」と思えず、世の中、「善良なき独善正義」の連鎖した社会ですね。


「参考」

① ブログ「日々坦々」様のエントリー『検察審査会の「起訴相当」議決の背後に、やはりあの人物の匂いを感じる』でも大鶴基成検事を取り上げていますね。

② ブログ「ゲンダイ的考察日記」様のエントリー
福島県前知事・佐藤栄佐久氏が語る~“地獄”から生還できた(上)』、
福島県前知事・佐藤栄佐久氏が語る~検察の暴走と恐怖(下)
で、日刊ゲンダイに掲載された記事を紹介しています。





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