日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

私の語る「システム」論から、いろいろな人生を思い浮かべるとき

2024-05-18 | 日記
私の語る「システム」論から、いろいろな人生を思い浮かべるとき


 今回記事では、タイトルに示されるように、「政治」の話とは直接的には結び付かない話をしてみたい。とはいえ、その前に今日の未明に気がついた記事を紹介しておきたい。私の少し以前のブログ記事での円安問題とも関連した記事だが、その中に覇権国という用語があったので興味を抱くと同時に、やっと待っていましたとの思いで聞くことのできた内容であったので、その記事を以下に引用貼り付けておきたい。なお、記事の一部(一文)をカットしていることを断っておきたい。私のパソコンはPC-TALKERを使った音声入力のためなのか、私もよくわからないのだが、グラフや統計資料がコピーできないので、記事にあるグラフを読みたい方は直接この記事に目を通してほしい。


ーーー引用貼り付け、始め


zakzak
お金は知っている 円安基調の裏に日本の〝対米従属〟構造 財務省が覆面でドル売り・円買い介入もビクともせず 思い出す安倍首相の「日本はカムバック」


日本の対外投融資、米国の経常収支赤字と円ドル相場
c zakzak 提供
財務省は覆面でのドル売り・円買い介入を行い、日銀は政策金利の引き上げをちらつかせるが、円安基調はびくともしない。なぜか。背景には、赤字国・米国に黒字国・日本が従う国際金融の構造がある。


グラフは日本の対外投融資、米国の経常収支(貿易収支と海外との利子配当など所得収支の合計)と円の対ドル相場の推移である。2012年12月に第2次安倍晋三政権が発足してアベノミクスを打ち出し、翌年3月に黒田東彦氏が総裁に就任した日銀が4月から異次元金融緩和政策を開始し、それまでの超円高是正に成功した。2020年までの日本のカネの流出と米国の対外赤字の規模はぴったりと寄り添うように推移している。


米国は世界最大の対外債務国であり、外部からの資金流入がないとドル金利を低めに抑えられない。米株価のブームも長続きできない。コンスタントに資金が流れ込んでくるからこそ、国内総生産(GDP)で表わされる実体経済が安定して成長軌道を堅持できる。


慢性的な貿易赤字の米国経済は消費と投資の合計額が国内生産額を上回ることで繁栄し、世界の覇権国の座に居続けられるのだ。


日本の対外投融資は赤字国・米国にとって死活的な意味合いがある。日本のカネは米国のみならず中国、欧州などにも向かうが、外部に出た円資金の大半は基軸通貨ドルに転換され、グローバルな資金循環の中で必ず米金融機関が関与する。2013年9月には訪米中の安倍首相(当時)がニューヨーク証券取引所で「日本はカムバック」と演説し、大喝采を浴びた。


グラフを見る限り、安倍氏が首相を退任した2020年までは日本の対外投融資が米赤字をほぼ全面的に埋め合わせてきた。アベノミクスがドルの金融市場を支えてきたことになる。


21年以降は日本の対外投融資と米経常赤字の規模が乖離(かいり)し始め、米赤字の膨張に日本の対外マネーが追いつかないままになっている。ロシアによるウクライナ侵略が始まった22年2月からは、エネルギー価格上昇が加速し、同3月からは米連邦準備制度理事会(FRB)が大幅な連続利上げに踏み切った。その大義名分はインフレ抑制だが、国際金融の観点からすれば米金融市場に世界のカネを吸い寄せるという意味合いがある。日本の対外投融資では米赤字を埋め合わせできないという事情が米大幅利上げをもたらしたとも解釈できるわけだ。


日銀のほうは2016年2月からのマイナス金利政策を続け、日米金利差が大きく拡大する結果、投機筋は円売り、ドル買い攻勢をかけるので円安が急進行するようになった。


昨年4月に総裁が植田和男氏に代わった日銀は今年3月にマイナス金利など大規模金融緩和を打ち切ったが、内需停滞のもとでは超低金利水準を維持するしかない。


対照的に、インフレ抑制を優先する米バイデン政権とFRBが強いドルを維持しようとする。ドル高・円安は続くのだ。 (産経新聞特別記者 田村秀男)
zakzak


ーーー引用貼り付け、終わり


 この記事から紆余曲折しながら私の語る「システム」論の方向へと読者が導かれるとすれば、それはそれで面白い?のだが、そういう読者であれば、おそらく世の中の動きに対して、次第次第に背を向けていくかもしれない。そこには、人為をもってしてもどうにもならない問題が山積していることに気がついてしまい、虚しさしか感じられないようになってしまうことが与っているかもしれない。不思議というかおかしな話の流れではあるまいか。なぜなら、始めには必ず人為が存在していたはずだから、その人為によってもたらされた災厄であれば、当然ながら人為によって解決されてしかるべきはずだからだ。


 ところがなのだ。その人為によってつくられたはずの組織であるにもかかわらず、それがいつの間にか、人為の及ばないような形で独り歩きをしてしまい、挙句は人為のコントロールも及ばない巨大な怪物となってしまうとすれば、もう私たちにはお手上げというしかあるまい。このくだりにおいて、私はかのM・ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』、『社会主義』の内容を連想しているのだが、私の語る「システム」論にも彼の著作の影響ははかり知れないものがある。思えば、私たちの人生もそんな風にとらえ直すことができるかもしれない。


 オギャーと叫んでこの世に生を受けた瞬間から、私たちは何がしかの人間関係とその制約の中で生きざるを得ないはずだ。それはたとえ天涯孤独であったとしても、その人が糊口を凌ぐのであれば、何某かの「衣食足りて(足りず)礼節を知る(知らず)」の営為のネットワークの関係と無関係ではありえないからだ。その意味では、私たちは私たち自身の「人力」というか人為でもって人生を切り開いていくという前に、既に何某かの人間関係とその制約の中に絡め捕られているともいえるのではあるまいか。今回記事の冒頭で引用貼り付けした記事にもあるように、私たち日本に生きる者は、覇権システムと、これまでの覇権国であった親分の米国との関係の下でつくられてきた「システム」とその下位システムの一つである世界資本主義システムの構成要素である国際金融関係に縛られているのは否定できないのではあるまいか。


 この関係はおそらくはたとえいかなる努力をもってしてもどうにもならない代物ではあるまいか。すなわち、「為せば成る、為さねば成らぬ何事も」云々の次元を超えた、その意味では人為を超えた次元の話だろう。この二つの異なる次元をごっちゃにして生きているあまりにもおめでたい人たちが多すぎるというか、この異なる次元の意味さえも理解できないままで幸せに生きている人たちが多すぎるというか、とにかく私にはそのように思えるのだ。だが、もし楽しくおめでたく生きるのであれば、それはそれでいいに決まっている。一番ダメなタイプは、この私のような人間であろう。だが、何度も言うように、これはこれで仕方がないのだ。どうにもならないのだから。


 おそらくは、私たちは「大人になる」中で、人生の選択をしているに違いない。ある者は、譬えて言えば、安倍元首相のような人生を、またある者は菅前首相のような、そして岸田現首相のような人生を選択して生きているのではあるまいか。総じて言えることは、みんな哀れな面白くもない「下僕」のような生き方しかできなかったということである。勿論、下僕である彼らの下僕として生きてきた者たちもそうであろう。私もその下僕であることは間違いない。私自身、システム人として中途半端な生き方しかできなかったのだから、言うまでもなかろう。


 終活の中で、あれこれと、ああだこうだと独り言を吐きながら、何とかして人生の帳尻合わせをしている最中なのだが、心底面白くもない人生であったというしかないのだ。こんな私に付き合わされた家族には、どんな形の侘び状もありようがないのだが、それを承知の上で、それでも申し訳なかった、悪かった、巻き込んですまなかった、と独白せざるを得ない。最後の最後まで勝手な人生であった。今はそのように思わざるを得ないから、なんとかしなければとの気持ちというかそんな思いはあるのだが、ーーー。


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