日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

(追記・修正版)私の語る「システム」論から、毎度「それを言ったらおしまいだよ」の あまりにも野暮な

2024-05-13 | 日記
(追記・修正版)私の語る「システム」論から、毎度「それを言ったらおしまいだよ」の
あまりにも野暮な拙論を展開するとき―イスラエルのパレスチナに対する無慈悲な暴力行使と一体的関係にある欧米諸国の憲法理念も、本来ならばデモ参加者の学生の批判・非難の対象となるべきではないのか




*前回記事(2024,5,12)の読者であれば、そこからさらに今回記事の「追記」のくだりをおそらく思い浮かべたのではあるまいか。既にこれまでのブログ記事でも述べていることではあるが、念のために前回記事の前に追記として述べておきたい。それを(追記・修正版)として、前回記事に置き換えておくことを、断っておきたい。なお、その他のくだりは前回記事と同じである。




「追記」


 前回記事でデモ参加者の批判・非難の矛先は、本来ならば欧米発の普遍的価値と普遍主義に向けられるべきではあるまいか云々と指摘していた。その意味するところは、イスラエルの建国とそれがもたらした今日に至るイスラエルとパレスチナの抗争の歴史は、いわゆる英・米・仏の「市民革命諸国連合」により宣言された普遍的価値とその世界的拡大の実現の歩みとしての普遍主義と密接不可分の関係にあったことを、私はこれまで拙著や拙論そしてこのブログ記事において論述してきた。


 それは簡潔に言えば、英・米・仏の市民革命諸国連合がスペイン、ポルトガルから継承した覇権システムの歩みを自らも覇権国やそれに次ぐ強大国となって覇権システムのさらなる継続と発展の歩みに貢献してきたということである。その過程において市民革命諸国連合は、帝国主義と普遍主義との一体的関係の下に、世界の隅々に至るまで覇権システムの「親分ー子分」関係の差別と排除の関係に組み込んできたということである。そしてそこから、覇権システム、世界資本主義システム、世界民主主義システムの三つの下位システムから構成される差別と排除のカクサの関係を前提とした一つの「システム」の維持と発展に邁進してきたのである。今日のイスラエルによるパレスチナに対する暴力行使は、そうした歴史の延長線上に位置している、と私はみている。。


 それゆえ、デモ参加者の批判・非難の矛先は、先ずは英・米・仏の市民革命諸国連合を担い手とした帝国主義と普遍主義との一体的関係の歴史の歩みそれ自体に向けられて然るべきである、と私は強調しておきたいのである。そうした観点から私たちの歴史を見渡すとき、当然ながら日本に暮らす私たちも俎上に載せられてしかるべきであるのは言うまでもなかろう。この「システム」の歩みは、かつての英・米・仏の市民革命諸国連合に率いられたグローバルノースに替わって、これからは中国を筆頭としてロシアやインドを代表として率いられるグローバルサウスにより担われようとしている。彼らも、以前の欧米諸国と同様に、帝国主義と普遍主義の一体的関係の新たなる守護者となるのだろうか。


 ところで、こうした論の展開と関連付けて、戦前の〈大日本帝国憲法体制〉下の日本社会と戦後から今日に続く〈日本国憲法体制〉下の日本社会とを比較考察した場合、以下のような興味深い点が描き出されるのではあるまいか。すなわち、覇権システムの観点から見るとき、そのシステムは戦前の日本社会と戦後の日本社会を、「等しく」そのシステムの中に組み込んできたのではなかろうか。


 その意味では、そこには戦前と戦後の「断絶」とか「連続」といった次元の話では収まらないより重要な問題が垣間見られるのではあるまいか。とくに戦後の日本社会の基本的人権を大切にする社会の実現が、覇権システムの「親分ー子分」関係と、また「システム」の差別と排除のカクサの関係と矛盾することなく共存できていたという、つまりは「共時態的関係」として描くことができるという意味を、私たちはどのように考えればいいのであろうか。私が何度も述べてきたように、日本国憲法を守るということは、結局は、差別と排除のカクサの関係を前提としてつくられてきた覇権システムを、そして「システム」を守ることにつながるのではなかろうか。




 今回記事も、またまたどうしようもない話をさせてもらうとすれば、記事タイトルにある世界中に拡散?しつつあるイスラエルに対する抗議デモ参加者のイスラエルのパレスチナに対する暴力行使は、私の語る「システム」論から見れば、彼らの批判の矛先は、いわゆる欧米発の普遍的価値と普遍主義に対しても向けられるべきである、と私はみるのだが、現実にはそうはならないようだ。そこにはデモ参加者の学生は帝国主義・植民地主義とデモクラシーの発展の関係を「水」と「油」のそれとして位置づけ理解しているからに違いない。無論、学生ばかりではなく、世界の知識人やメディア関係者も含む一般の人々も同じなのではあるまいか。


 それゆえ、私たちのイスラエルやロシアの暴力行使に対する批判・非難は、どうしても「抜け道」が始めから用意されていることになり、そのために徹底されないのだ。それをしてしまうと、私を含め大多数の人間はどうにもならないことになる。できないことではなく、このブログ記事でも書いているように、できることであり、それが実践されたならば、それこそ金の成る木としての「システム」とそれを支える差別と排除のカクサの関係も消滅するに違いない。ところが、それをそうさせないように、私たちの信奉してきた普遍的価値と普遍主義は、それ自体が差別と排除のカクサの関係に裏付けられているのだが、覇権システム、世界資本主義システム、世界民主主義システムの下位システムとそれらが構成する一つの「システム」の差別と排除のカクサの関係をつくり出してきたのだ。そして同時にまた、その「システム」の下で、いわゆる帝国主義・植民地主義と普遍的価値と普遍主義の表裏一体関係がこれからも存続していくことになるのである。


 それゆえ、もし私たちがイスラエルやロシアを始めとした世界中の暴力行使にNO!を叫ぶのであれば、私の語る「システム」に対してもNO!を叫ぶべきなのだが、日本国憲法に対する私たち日本国民の態度を見ても、そんなことにはならないし、逆に私の今回記事の内容に対しても、多くの国民は理解不能と背を向けるに違いないことは、私もよくわかっている。私自身ができもしないことを棚に上げてエラソウナことを言うのは差し控えるべきだが、理論的というか話の筋としては、今回記事のないようにしかならない、と私はみているのである。


 それにしても、毎度それを言ったらおしまいだの論の展開となってしまい、どうにもならないというか忸怩たる思いを禁じを得ないのだが、「システム」の前では、ちょっとやそっとのことでは一歩も先に進めないことを肝に銘じて、終活の日々をさらに精進しながら「システム」と向き合っていきたい。


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