日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

(仮称)「バリア・フリー党」は東京オリンピック・パラリンピックをどう考えるのか

2017-07-10 | 社会 政治
(仮称)「バリア・フリー党」は東京オリンピック・パラリンピックをどう考えるのか

 私がここで提唱している(仮称)「バリア・フリー党」は、既存の「バリアフリー」に関わるそれとは大きく異なる。今回はこの相違点について考えてみたい。
 私のこれまでの研究を踏まえるとき、いわゆる障碍者も健常者も「システム」の中で傷つき、心を病み、それでも歯を食いしばりこの仕組みの中で生きていかなければならないことから、このシステムに生きる、いわばシステム人が抱え込まざるを得ないシュクアを「バリア」と捉え、それを「フリー」にする、取り除いていく、軽減していくという観点からのそれ(バリア・フリー)であった。
 ここで東京オリンピック・パラリンピックを取り上げて、私の考える「バリア。フリー」と従来のそれとの違いを考えるとき、両者の違いは鮮明になるだろう。私のそれは、そもそも東京オリンピックの開催に反対する。当然である。フクシマノ事故というか人災はなお終わってはいない。原発に苦しむ人はなおたくさんいる。自分たちの生活再建もままならないのに、政府は勝手に事故というか事件の幕引きを図り、終息宣言を発した。とても許されない暴挙である。
 これに対して、そのオリンピックに日本国民がまるで一丸となって賛成し、参加するのは当然の義務であるかのように呼びかける政府をはじめその関係者がいる。彼らの強みは人。もの。金を動かせる力を持っていることである。この政府関係者の力となる、力を与えられ保証されたバリアフリーの団体がある。当然それらの団体はオリンピック・パラリンピックを協賛する立場にある。
 こうした両者の関係の歩みは、とても強固である。政府が説く「心のバリアフリー」に、正直私は笑ってしまった。「心」のバリアフリーではなく「富」のバリアフリーこそ目指されなければならない。私から見ればとても同じ世界に、世間の方が良いかもしれない、暮らせる人たちではない。
 簡単にその方向性を示すならば、別の共同体をつくることが私の言う党の最重要課題である。正確に言うと、つくることができたらなあということだ。党が則共同体であり、、共同体がまた即、当という関係である。
 この党は既成政党と異なり、いわゆる政治権力の獲得を目指さない。なぜなら、それはあの世の権力だから、そんな権力を取っても意味がない。こちらの世の中を守るための党であり、共同体である。当面の課題は、自分たちの税金をあちらの世からこちらの世に取り戻すことである。それを下に、バリア・フリーの共同体建設を進めていく。
 また間違った。進めていければいいですね、言い直さなければならない。あちらの世の中のことは構わない、というのは言い過ぎだが、やはりこちらの世の中というか共同体がなければ、何も力とならない。私たちはこれまで相当のエネルギーのロスをしてきたのではあるまいか。
 あちらの世の中の仕組みがひょっとしたら変わるかもしれない、いやかわらないでも自分を変えることで、何かができる云々の議論をしてきた。その間、長い長い社会をめぐる喧々諤々の論争に明け暮れてきた。私にとって、社会とその政治や経済、文化、教育は、あちら側の社会のことではなく、こちら側のそれである。その意味ではまだほとんどがこちら側の社会に関する論争に従事していないのではあるまいか。
 なぜなら、いまだにこちら側の社会というか共同体は立ち上がってはいないからだ。
マルクスもウォーラースティンもガルトゥングもネグリ、ハートもあるいはライシュ等もあちら側の社会の良心的学者たちだが、こちら側の社会の学者ではない。彼らの民主主義論はシステムとけんかしているようで、結局は支える側に回っている、そうした役割を果たしている。
 そんなことより、私たちはもう従来型、旧来型の研究や勉強はやめた方が良い。もちろん、これはあくまでこちら側の社会を、共同体をつくりたいと思案している仲間に訴えたい。これまでの私のブログ記事は、すべてこうしたこちら側の社会、共同体を立ち上げるために感じてきたことを述べたものである。
 私たちはシステムの中で、いつも自分には少しきつい、なじめない、落ち着かなく不安だと思いながらも、無理して、我慢してながら、あの世の生き方に従ってきたのだ。私も未だにあの世の中で生きていかざるを得ないのだが、中途障碍者の身となって、私の安全保障を考えるとき、路上で私の手引きとなる存在を、あの世の生き方に従っている人々の中から見つけ出すのは難しいし、そうまでしなければならない自分に悲しくなる。
 それなら、このシステムの中の圧倒的空間を占めるあの世とその生き方とは異なる別の空間とそこに集う人々の生き方を仲間とともにつくることの方が楽しいではないか。そう思う。
 あの世の側にある、あの世の生き方を前提とした「バリアフリー」の団体と、こちら側にある、こちの世の生き方を前提とした「バリア・フリー党」(「バリア・フリーの会」)はまったく異なるのだが、残念ながら、先述したように、こちら側のこの世とやらはまだ影も形もない。確かに一見したところそうなのだが、あの世の側のあの世の中にも、本来ならこちら側でこの世をつくる運動に参加した方が適任の方も大勢いる。これも疑のないことである。


この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「バリアフリーの会」は沖縄... | トップ | 替える、変わらないという話... »
最新の画像もっと見る

社会 政治」カテゴリの最新記事