日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

「あちら」と「こちら」(6)

2017-07-17 | 社会 政治
「あちら」と「こちら」(6)
 
 システムとその自己完結運動の観点から歴史を考察してきた私の問題は、所詮システムの完璧さにはどうにも手が付けられないと、結局は傍観者、評論家のように観察して来たということである。どうすれば社会的受苦者(もちろん、私もその一人である)を、この世から一人でも救いだせるのかという問題に対してはあまりにも無関心であった。確かにシステムの抱える問題を描くことは人一倍、拘泥してきたはずなのに、それではどうすればシステムの変革に向き合える思想なり哲学を提示してきたかと問われれば、それもダメ、これもダメ、何故ならシステムが相手だからとしか論じてこなかった。
 私から見れば、あまりにも多くの論者の答えが少し考えただけでも、あちらを支える安易なものに思え、とても承服しがたく感じたたから、私なりに論究する必要があったのである。しかし現実にできることはほんの少しだから、余り完璧な理論を求めてみたとしても、ただの絵に描いた餅になることも理解している。
 たとえ宮沢賢治の「雨にも負けず」をこちらの思想的根拠にと考えてみても、あちらの小学校から国語の時間で、あちらの世界でもこのような立派な生き方をしている人がいるとか、少しでもこうした考えを支持する人が増えることで、あちらもよくなるとか、しょせんそんな見方でしか理解されなくなる。あちらではなく、こちらに生きる人の指針となる思想なのに、うまくからめとられてしまうのだ。
 とにかく大変な作業になるが、今後しばらくは楽しく格闘してみたい。それにしても、最初からハードルを高く上げすぎてしまったのは、自分の非力さをわきまえない愚かさの証拠だが、とにかく向き合いたい。
(付記)
先日の都議会選挙は「都民ファーストの会」が勝利したが、その選挙で福島の東京電力の原発事故対応問題を選挙で都民に訴える声はほとんど聞こえてこなかった。恐ろしいことだが、福島県の県民が犠牲となって払わなければならない痛みを自らのものと感じる都民が存在していないことを示していたのではないか。こうしたところにも、私たちの人権が体現する差別と排除のバリア関係が如実に表れているのではあるまいか。国政でも都政でも、福島は忘れ去られようとしている。いずれ東京のみならず多くの地域でも、原発放射性物質の拡散被害が出てくるのではあるまいか。いやもうすでに被害の報告は出ている。我々が知らない被害があり、相当に深刻だとのこと。またその際に、聞こえるのは「想定外」の弁明の声だとしたら、もうどうしようもない。
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