浅井氏の滅亡後、地域の支配者は羽柴秀吉になる。今浜を信長の長をとり「長浜」と改名したのは有名な話である。秀吉にとってある意味この横山城時代は一番の幸福な時だったかもしれない。気力や体力が最も充実していたこの時期、彼は家臣団をこの地に求めた。石田三成や脇坂安治などが後世に名を残すことになる。
姉川の戦いでの織田信長の陣跡を歩くと、この一帯は初代征夷大将軍の坂上田村麻呂の根拠地であることの説明看板があった。こんもりとした小山は実は古墳群であり、そのふもとを流れる小川はまさに♪はあるの おがわは さらさら ながる♪とばかり水音をたてており、どこからとなく聞こえる小鳥のさえずりは私を遠い空に追いやるのであった。
石田三成の生家が付近にあるようだ。急いで行ってみよう。
ここかしらん? 今年の正月に台東で右足かかとを強打し、未だに痛みでびっこを引いている私にはこの階段を上るのはちとつらい思いだが、石田の為ならと無理をした。
ふーう。ん? また太ったようだ。手すりがないと動けないど。
うそだあ!。 いくら昔は小柄な人が多かったと言え、こんなちっぽけな祠のようなのが三成の生家であるわけはない。
…と、馬鹿なこともいえず、私は秀吉と三成の対面の場となる観音寺へと車を走らせた。
初めはぬるい湯。次に丁度人肌の温度。最後にアツアツで濃いお茶。で知られる三成。誰が考えたか知らぬが三成のこざかしさをうまく言い表している。三成が聞けば苦笑するだろう。彼の最大の業績は太閤検地と刀狩りである。それは、武装百姓(地侍)階級をなくすことであり、支配者が直接徴税を可能にする仕置きだった。これを政策立案できたのは三成だからこそであろう。これにより秀吉は実質的に戦国時代を終焉させた。そしてまた三成の「韓入り」でのロジスティックは本当に見事な仕事であった。しかし、太閤への忠義は他武将との関係を悪化させ、結果、三成はその「真の才能」を開花できないまま歴史から消え去った。六条河原、斬首の際の「干し柿」など、なにかと逸話の多い人物だが、才能あふる人物だったことを如実にあらわす。
日本を愛し、故郷を愛し、正義を愛した三成。NHKの大河ドラマにでもならないかと思う。