2014.4.18(金)19:30 Cafe Slow Osaka
「わたしは猫は大嫌いです」という一節がある「猫」という詩(っぽい作品)の朗読から始まる(テキストを見ていなくても「朗読」かな?)。
その作品の中には「アンデルセンの猫を知っていますか」とあり、賢治はアンデルセンを読んでいたらしい。賢治とほぼ同じ時代に生きたシートンの作品は、日本語に訳されたのが少し後だから、おそらく読んでいなかっただろう、賢治の作品に一番よく出てくる動物は……といった語りがある。
宮沢賢治に関するお話と、朗読とピアノを中心とした楽器演奏でゆるやかに構成された心地よい小宇宙。
今回の趣向は「賢治作品の中の生きもの」。
ところで、この「アンデルセンの猫」は火花を出すのだが、それが登場するのは「みにくいアヒルの子」なのだそうだ。語りのなかでそう言っていた。
醜い姿のためにばかにされるというところは、つづけて朗読される「よだかの星」と共通点がある。けれどアヒルの子は努力してもしなくても、やがて白鳥になることが決まっていた。一方よだかは星になろうと必死で努力する。太陽や星座たちに助けを求めるが拒まれ、自分の羽の力だけで限界まで高く飛ぶ。
そしてよだかは青く燃える空の星になった、主観的には間違いなく。
現実の、よだかの姿はどうなのだろう。同じアンデルセンの「マッチ売りの少女」の最後で、少女は微笑んでいたと描かれるのと似ているのではないか。わたしの興味はそこにはないのだが、演者はこだわっているらしい。最後の部分を二度、読み方を変えて読むことで、空で燃えているよだかと地に横たわるよだかを描き出す。
休憩を挟んで、「セロ弾きのゴーシュ」。
この演目は何度かみている。今回は少し大人っぽく洗練されていて、太鼓の練習に来る子狸もちょっと年長さんのように感じた。ジャケットをはずしたスリーピーススーツという衣装によく似合っている。
舞台は地方の町なのだろうが、地方は都会的洗練から遠いというのは思い込みだろう。賢治も、宗教に熱心だったり農業技術者だったということで地味なイメージがあるけれど、案外洒落者だったのではないだろうか。
「わたしは猫は大嫌いです」という一節がある「猫」という詩(っぽい作品)の朗読から始まる(テキストを見ていなくても「朗読」かな?)。
その作品の中には「アンデルセンの猫を知っていますか」とあり、賢治はアンデルセンを読んでいたらしい。賢治とほぼ同じ時代に生きたシートンの作品は、日本語に訳されたのが少し後だから、おそらく読んでいなかっただろう、賢治の作品に一番よく出てくる動物は……といった語りがある。
宮沢賢治に関するお話と、朗読とピアノを中心とした楽器演奏でゆるやかに構成された心地よい小宇宙。
今回の趣向は「賢治作品の中の生きもの」。
ところで、この「アンデルセンの猫」は火花を出すのだが、それが登場するのは「みにくいアヒルの子」なのだそうだ。語りのなかでそう言っていた。
醜い姿のためにばかにされるというところは、つづけて朗読される「よだかの星」と共通点がある。けれどアヒルの子は努力してもしなくても、やがて白鳥になることが決まっていた。一方よだかは星になろうと必死で努力する。太陽や星座たちに助けを求めるが拒まれ、自分の羽の力だけで限界まで高く飛ぶ。
そしてよだかは青く燃える空の星になった、主観的には間違いなく。
現実の、よだかの姿はどうなのだろう。同じアンデルセンの「マッチ売りの少女」の最後で、少女は微笑んでいたと描かれるのと似ているのではないか。わたしの興味はそこにはないのだが、演者はこだわっているらしい。最後の部分を二度、読み方を変えて読むことで、空で燃えているよだかと地に横たわるよだかを描き出す。
休憩を挟んで、「セロ弾きのゴーシュ」。
この演目は何度かみている。今回は少し大人っぽく洗練されていて、太鼓の練習に来る子狸もちょっと年長さんのように感じた。ジャケットをはずしたスリーピーススーツという衣装によく似合っている。
舞台は地方の町なのだろうが、地方は都会的洗練から遠いというのは思い込みだろう。賢治も、宗教に熱心だったり農業技術者だったということで地味なイメージがあるけれど、案外洒落者だったのではないだろうか。
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