Across The Universe

当ブログはフィクションであり、登場する人物・出来事等はすべて架空のものです。

徳川慶勝と奥田碩・御手洗冨士夫

2007年04月24日 | 管理人のひとりごと


 徳川慶勝(よしかつ)という人をご存知の方はそれほど多くないと思います。慶勝は幕末の尾張藩主(第14代・17代)であり、1824年に尾張徳川家の支藩である美濃国高須藩主松平義建(よしたつ)の二男として江戸で生まれています。最後の将軍徳川慶喜は彼のイトコに当たり、慶勝の弟には会津藩主松平容保(かたもり)や桑名藩主松平定敬(さだあき)、第15代尾張藩主徳川茂徳(もちなが、のち一橋徳川家11代茂栄)がおり、それぞれに優秀な人物であったので俗に「高須四兄弟」と呼ばれています。
 しかしながら、幕末の動乱はこの四兄弟の運命を大きく変えることになります。すなわち、慶勝以外の弟3人は佐幕派として幕府に従う道を選んだのに対し、慶勝は御三家筆頭という立場でありながら朝廷方に味方する道を選びました。このため慶勝は血を分けた兄弟と戦うことを余儀なくされましたが、結果として明治維新へ大きな貢献をすることになりました。
 明治維新以後、急速な近代化を推進するために政府は封建的身分制度の撤廃とあわせ、これまで士族(武士)に支給していた家禄の大幅な削減に乗り出しました。これは、急速な近代化を推進するためには四民平等の国民国家を実現する必要性があり、富国強兵政策の下では国民皆兵が求められたために、ある特定の身分に属するものだけが国防を担うというあり方が否定され、徴兵制の施行とともに士族への家禄支給の根拠が喪失したこと、全人口のわずか5%程度に過ぎなかった華族・士族に支給されていた家禄が国家予算の30%以上を占め、新政府にとって大きな負担となっていたことが挙げられます。
 大幅な家禄削減によって下級士族の生活は困窮するようになりましたが、それに追い討ちをかけるように1876年新政府は従前の石高に応じて金禄公債証書を発行し、これ以降一切の家禄支給を行なわないことを決定しました(秩禄処分)。
 秩禄処分により華族は莫大な金額の公債を与えられ、利子のみで生活できるほどになりましたが、下級士族は少額の公債しかもらえず、より一層困窮するようになりました。公債はインフレによって紙切れ同然となり、商業に転ずる者もいましたが、いわゆる「士族の商法」によって没落する者も続出しました。こうして、各地で不平士族による反乱が起き、士族問題が大きな社会問題となりました。
 このため、当時の旧藩主たちは困窮士族問題を解決するためにさまざまな対策を行なっています。たとえば群馬県の富岡製糸場などはもともとは殖産興業だけでなく困窮士族対策という意味合いも強いものですし、北海道開拓も明治初期は士族授産という意味合いが強いものでした。
 徳川慶勝も秩禄処分によって莫大な財産を得て、一躍日本第12位の富豪となりましたが、困窮士族対策には腐心していたようで、私がここ数年研究テーマとしている尾張徳川家による北海道八雲の開拓ももともとは困窮士族対策であり、徳川家が私財をなげうって行なったものです。徳川家が旧家臣団の北海道移住に対して支出した額は1878年から1884年までの間で約12万円の巨額になります。手放しで評価するわけではありませんが、かつての家臣団に対して多額を出費して何とか困窮状態から脱却させようとする慶勝の、旧藩主としての強い責任感がうかがえるのではないでしょうか。
 こうしたさまざまな対策を行なった結果、士族授産問題は明治中期にはおおむね解決を見るに至ったわけですが、私は明治初期の士族の状況と現代日本の格差社会は似た状況にあるのではないかと考えています。しかし、人口の5%に過ぎなかった特権階級を撤廃するために行なわれた改革の途上での困難と、全雇用者の3割が非正規雇用(私もその1人です)であり生活保護世帯が100万世帯を突破した現代日本の格差社会問題とでは、その深刻さの度合いは全然違います。明治初期の改革は少なくともその目的は近代化達成のため封建的身分制度を撤廃することにありました(それが不徹底なものであったことは周知の通りですが)。ところが、現代日本の場合は、格差の固定化が進み新たな特権階級を出現させかねないような社会状況になっていると思います。
 ところで、こうした状況の中で日本のトップたちは何をしているのでしょうか。明治初期の場合は、少なくとも旧藩主たちは困窮士族授産のためにさまざまな対策を施しましたが、莫大な利益を上げる企業のトップたちには、格差社会を是正して利益を労働者に還元しようとする考えはさらさらないようです。経団連前会長の奥田碩氏はこう発言しています。「差を付けられた方が凍死したり餓死したりはしていない。勝ち組・負け組と言いたがるのがそもそもの間違い」と。また、経団連の現会長である御手洗冨士夫氏は、自らは創業者の一人である叔父のコネでキャノンに入社しておきながら、経営側のさらなる儲け拡大と貧困層のさらなる増加を促すホワイトカラーエグゼンプションの導入・偽装請負の合法化・法人税減税・消費税増税を主張しています。
 現代の日本では、戦後長らく続いた「一億総中流」の時代から、格差拡大が進行しつつある歴史の転換期に差し掛かっていると思います。こうした中で、このまま格差拡大を是認して格差社会を許すのか、それともこうした状況に歯止めをかけて、憲法第25条が定める「健康で文化的な最低限度の生活」を営むことができる状態にするよう是正していくのか、求められているのはわれわれ自身だと思います。
 

東京日帰り

2007年04月17日 | 旅日記
 今日は仕事が休みなので、研究者としての顔に戻って、1月以来出かけていなかった東京目白の某研究所へ出かけてきました。明日から6連勤があるので夜行日帰りはやめて今回は往復とも新幹線にしました。
 行きは名古屋を7時33分発のぞみ104号で出発。東京で山手線に乗り換え目白に着いたのは9時45分頃でした。10時から16時まで某研究所で明治・大正期の古文書と格闘。今回はちょっと興味深い文書を発掘できて良かったです。
 16時過ぎに某研究所を出発。帰りも山手線では面白くないので、新宿へ出て中央線経由で東京に行きました。新鋭E233系にはじめて乗車しましたが、いかにも安っぽいつくりのE231系よりもいいですね。ドアに化粧板が貼られているだけでも随分印象が違うものです。座席の座り心地もE231系より改善されている感じでした。その後東京駅で引退が近い201系を撮影し、17時03分発のぞみ133号で帰りました。



 

関空&神戸、2つの空港めぐり

2007年04月05日 | 旅日記
 8草会きっての国際派である有彌嘉さんと余った18きっぷで出かけてきました。今回はそれほど鉄分は多くなく、関空&神戸空港という2つの空港めぐりです。ただし行きは私のリクエストで関西線経由にしました。

瀬戸口540→高蔵寺550  1101H普通  2111  2両編成
高蔵寺555→名古屋624  102M普通  クモハ213-5003  6両編成  海シン
 
 瀬戸口朝一番の列車で高蔵寺で乗り換え。高蔵寺始発の名古屋ゆきは前2両が213系、後ろ4両が211系でした。
名古屋633→亀山750  1307G普通  クハ312-3014  2両編成ワンマン  海シン
 名古屋駅で待ち合わせし、関西本線の亀山ゆきで出発。この時間にもかかわらず2両編成でワンマン電車でしたが、思ったほどの混雑ではなく、十分座れました。それにしても関西線の河原田以遠はどうにもやる気が感じられないですね。
亀山803→加茂929  235D普通  キハ120 305  2両編成ワンマン  大カメ
 亀山から先はJR西日本の管轄になります。電化が大好きなJR西日本ですが、なぜか亀山~加茂のみはいまだに非電化で残っています。この区間に乗るのは久々で、景色はなかなか良いのですが、走ってる車両はほとんどロングシートで安っぽいつくりのキハ120だけなのが残念です。車内は結構混雑していて、柘植まで座れませんでした。
加茂935→天王寺1032  3357K大和路快速  クハ221-10  6両編成  大ナラ
 加茂からは快適な221系の大和路快速に乗り換え。個人的には223系よりも221系の方が落ち着きがあって好きですね。
天王寺1036→関西空港1120  4329M関空快速  モハ223-9  5両編成  大ヒネ
 天王寺で乗り換え。JR難波始発の関空快速だったので空いていました。関西空港線は99年9月に乗車済みですが、前回は夜間だったので昼間乗るのは今回が初めてです。今日は快晴で、六甲の山々や淡路島などが遠望できなかなか眺めが良かったです。
 さて、関西空港ですが私個人としてはただ「大きい」という印象以外ありませんでした。案内表示もわかりづいらいし、レストランやお土産処を見てもセントレアの方がよほど充実していますし、飛行機を見ようとして展望デッキに行こうとしてもターミナルビルからバスを利用しないと見に行けない(往復200円)など、どうにも不便な感じが否めません。
関西空港1330→神戸空港1359  神戸・関空ベイシャトル  うみ
 関空から神戸空港までは高速船で移動。ちなみに高速船のりばまではバスでの移動が必要です。乗船したのは「うみ」というそのまんまのネーミングの高速船でした。2月に津からセントレアまで高速船を利用してみましたが、その時の船よりも小型でした。

 

 さて神戸空港ですが、こちらは関空とは比較にならないくらい小さく、コンパクトにまとまっている印象でした。ただ大きいだけの関空よりはこちらの方が好印象です。しかし、それ以前に神戸の中心部から伊丹空港まで40分程度で行けるのに、新たに神戸に空港を建設する必要性がどこにあるのか、はなはだ疑問ですが…。
神戸空港1439→中公園1450  114レ普通  8506  6両編成
中公園1454→三宮1512  261レ普通  8112  6両編成 

 ポートライナーに乗るのは初めてです。中公園でいったん下車し、北埠頭経由の路線も乗りつぶしつつ三宮に戻りました。これでポートライナーは全線乗車となりました。
 三宮到着後、乗車予定の列車まで2時間近く空きがあったので、南京町周辺を歩いてブラブラして過ごしました。

    

三ノ宮1706→米原1852  3596M新快速  クモハ223-3004  8両編成  神ホシ
米原1908→名古屋2010  2358F新快速  クハ312-312  6両編成  海カキ
名古屋2022→瀬戸口2104  1617M~2116H普通  クハ210-5310  7両編成  海シン

 三ノ宮から乗車した新快速は滅茶苦茶な混雑でした。大阪で降りる人がかなりいたので辛うじて通路側に座れましたが、大阪から先も満員で、大阪から乗っていたら名古屋まで座れなかったと思います。京都からはさらに混雑しぎゅう詰めの満員に。いつもなら草津を過ぎるとだいぶ落ち着いてくるのですが、この日は草津どころか彦根を過ぎてもかなりの混雑でした。これだけ混雑しているのは今まで記憶にないです。
 米原で多くの乗客が下車しましたが、そのほとんどすべてが浜松ゆきに乗り換える客でした。米原ではすでに先行列車からの乗り換え客が行列をつくっている有様で、階段に近い先頭車付近では行列が長すぎて反対側のホームの端すれすれの所を歩かないと後ろにいけないほどでした。万博の時も思ったのですが、階段すぐ近くの所に並んでぎゅう詰めの満員列車に乗るよりは、一番後ろまで歩いた方が同じ座れないのでも楽だと思いますが、みんななぜそういうことに頭が回らないのでしょうか。一番後ろの車両でも結局座れませんでしたが、6両編成だったためまだ余裕がある感じでした。
 名古屋到着後、有彌嘉さんと別れ、私は20時22分発愛環直通の瀬戸口ゆきで帰路に着きました。


<今回の初乗り路線>
(神戸新交通) ポートアイランド線