辞任した久間防衛相の「原爆投下はしょうがない」発言には大いに驚かされたが、米国のロバート・ジョゼフ核不拡散担当特使(前国務次官)は記者会見で、広島・長崎への原爆投下について、「さらに何百万人もの日本人が命を落としたであろう戦争を終わらせたという点に大半の歴史家は同意すると思う」と述べ、改めて正当性を強調したらしい。この見解は戦後一貫して米国が取ってきた立場であり、いまさら驚くに値しないが、そもそも原爆投下が最初から「戦争を終わらせるため」の「しょうがない」作戦であったのかというと大いに疑問である。
原爆投下について、マッカーサーは次のような興味深い談話を、元帥退任後に日本の新聞に寄せている。
「私は原子爆弾の投下について相談を受けなかった。もし受けていたらそれは不必要だ、日本はすでに降伏しているとの見解を表明したであろう」、と。この発言がマッカーサーの真意であるならば、原爆投下は「戦争を終わらせるため」の「しょうがない」作戦ではなかったということになる。
現在では、現在のような米国政府の見解は米国の権力者が広めた「神話」であり、その内幕は、「敵はソ連」(グローブス将軍)と考えた米国の権力者がソ連に原爆の威力を誇示するため、原爆が完成し使えるようになるまで日本との戦争を終わらせまいとしていたということが明らかにされつつある。つまり、広島と長崎はソ連に核兵器の威力を誇示するための「実験台」にされたということである。
ところで、米国は広島・長崎への原爆投下の後も、核兵器こそ使わないものの朝鮮戦争、ベトナム戦争での無差別殺戮、最近では湾岸戦争、アフガン空爆、イラク戦争と数年おきに戦争を繰り返している。第二次大戦後に限ってみれば米国が世界の国々の中でもっとも大量の民間人を殺傷している国であることは明らかである。このような国と「価値観を共有する」といってはばからない日本の政府であるが、少なくとも第二次大戦後は平和憲法を守り一人たりとも他国の人間の命を奪っていない日本と、数年おきに大量殺戮を繰り返す米国とでは、価値観の共有などできないし、価値観を共有させることなど絶対にしてはならないことは確かなのではなかろうか。