旅限無(りょげむ)

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日本の反核運動 其の四

2005-09-02 08:00:15 | 外交・世界情勢全般
其の参の続き

■水爆で後れを取った米国が核兵器の優位性を保つ努力を続けるのに対して、ソ連は抗議を繰り返しながら、米国に対する核攻撃能力の優位を保とうとしました。不幸なことに、日本は社会主義ブームがこの時期に重なっていましたから、核開発競争の時代を正確に認識出来なかったようです。市民運動から始まった日本の反核運動に政治的な亀裂が入り始めて、日本が東西冷戦の最前線に位置していた事は明らかでしたが、反核運動を分裂させたのは左翼陣営内のイデオロギー対立でした。後に、左翼系の政党にソ連から政治資金が送られていた事も暴露されますが、互いに日本の正義を掲げて様々な対立が深刻になって行きます。米ソの核開発競争に対する認識から一致していなかった事が徐々に表面化して国内に対立が生まれました。そんな状態の中で、1957年5月15日、英国がクリスマス島で水爆実験に成功して第三の水爆保有国となります。

■西側の水爆保有国が二つになった不利な情勢を挽回するには、東側でも自陣営内に核保有国を増やさねばなりませんでしたが、社会主義諸国は一枚岩ではなかったので、安易に核技術を移転するのは躊躇されたようです。核開発競争は、地上の陣取り合戦から突如として宇宙空間に広まってしまう大事件が起こります。それが、ソ連による史上初の人工衛星打ち上げ成功となった「スプートニク」の衛星軌道上への打ち上げです。宇宙時代の幕開けとして、「通信衛星」のスプートニクは世界中の話題をさらいましたが、これは後の大陸間弾道弾ミサイルを作り出す基礎技術をソ連が独占的に手に入れた事を意味する事件でした。水爆実験に続いて人工衛星打ち上げでも後れをとった米国は威信を懸けて、4箇月遅れで「エクスプローラ号」を打ち上げますが、その直後の1958年1月31日に、ソ連のフルシチョフ書記長は核実験の停止を一方的に宣言します。

■圧倒的な攻撃力を手に入れる事に熱心な本性を隠して、和平攻勢を仕掛けて来るのはソ連外交の常套手段でしたが、日本人の中には前段の凶暴性を忘れて後段の甘言を真に受ける傾向が強かったので、反核運動は動揺して分裂してしまうことになるのです。8月22日に米英も核実験の1年間停止を宣言して応じますが、米国は9月30日にソ連が核実験を再開した事を暴露して、世界中が希望を持った平和の夢が消えてしまいます。10月6日にはソ連の核実験が5回実施されたと米国が発表すると、翌日になってソ連のグロムイコ外相は「米英両国が核実験を止めないから、ソ連は実験再開を余儀なくさせられたのだ。ソ連は核実験の停止日を決定するに当たって自国の安全保障問題を考慮しない訳には行かない。」と弁明して、開発競争の初期段階で手に入れた優位性を絶対に手放さない本音を吐きました。

■約束は破る為に結ぶというのも、選挙やジャーリズムの無い国家の特質ですが、事は全面核戦争にかかわる重大事でしたから、日本国内のイデオロギー対立も米ソいずれが平和の敵なのかを巡って不毛な議論を続けることになったようです。米国は、ソ連に対抗する大義名分を得て10月10日にネバダでの核実験を再開して、核実験停止は悪質な宣伝と時間稼ぎ目的で発せられるという悪しき例を歴史に残してしまいました。こうした米ソの化かし合いは日本国内の反核運動の分裂を先鋭化させて、翌59年の原水禁世界大会は共産党系の反米色が強い事を理由に、米英と西独の代表が脱退声明を出し、逆に反ソを叫ぶ右翼団体が乱入して怪我人を出す暴力騒動が起こってしまいます。後に浅沼社会党委員長を刺殺する山口二矢(おとや)も大いに暴れまわったようです。反核運動が、反米運動へと傾斜して安保条約反対運動と連動するようになると、被曝者や宗教者の祈りの声は、政治的な怒号と暴力の中に掻き消されてしまったのでした。

其の五に続く

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