只の道…淡々と歩く

無いものを在るとする…ゆくゆくは苦悩となる
無いものは無いのです。

私が考えることはすべてアテになりません。笑

2017-03-01 09:18:44 | 日記
ここの広い会場はホテルの食事会場です。
朝食時は大勢の人で埋めつくされました。笑





繰り返し述べていますが、私(自我)と言う奴は
都合のいいことだけ思っているのです。
そして嫌なことは排除してがるのですね。

例えば、私(自我)は優しくて親切だと
思っているのです。

また金持ちになりたいとも考えているのです。
ですから貧乏になることを恐れているのです。

この様に、私(自我)は優しくて親切ではない、
また金持ちでなく、貧乏が裏にピタリと
寄り添っているのです。

ですから簡単に言うと、私(自我)は善いところが
半分、悪い部分が半分でどうしようもないのです。

どうしようもなければそのままにせず、善いところも
悪いところもすべて捨て去ればいいのです。

わがまま身勝手な奴で、自己中心である私(自我)を
忘れ切ればいいのです。

それが“只なる実践”ということです。

頭の中で勝手に妄想する「思考癖」は、強固なものに
なっていますので簡単に落ちるものではありません。

やはり地道な継続が必要ですので、
その“只の道”を淡々と歩くと表現しています。



只の道…淡々と歩く

心の研究もされている禅師、井上御老師のホームページから
一節ずつを、私(思考)が観てみましょう。
あくまで私(思考)から観たものです。
私(思考)の戯言は信じないで、常に“実践”で明らかにしていってくださいね。


この瞬間に本当の様子、即ち真相が自覚できるのです。
本来の自己に目覚める!これが仏法であり仏性です。
これを得るための修行です。本来の自己に目覚める修行ですから、
禅修行は、囚われる悪弊との戦いです。
癖に心を取られない努力と思えば間違いありません
。』


いかがでしょう。
実践で腑に落とされたでしょうか?
“只なる実践”は、頭の中で勝手に妄想する
「思考癖」との戦いであると仰っています。

「思考癖」に心を奪い取られないよう、
油断なく真剣に見張っておく努力です。

つまり眼には見えない修行とも言えますね。
この「思考癖」がわからない以上は実践が
進まないのです。

ですからいろいろと、またあの手この手と変えて
気付きがあればとブログを書いているのです。

「思考癖」がはっきり観えるようになると、
実践”の道を淡々と歩いていけます。